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西洋の大航海時代~インドを目指して

【第1回】西洋の大航海時代~インドを目指して


帆船の歴史は、紀元前、古代エジプトにまで遡ることができます。10世紀頃にはアラビア半島ですでに帆船を用いていたといわれ、また中国でも宋王朝(10~13世紀)の頃には巨大な帆船が建造されていたという記録もあります。しかし、キング・オブ・ホビーとしての帆船模型のモデルとなる帆船の歴史は、西洋の大航海時代とともに始まります。船乗りたちは、未知なる大洋を航海する恐怖を乗り越え、大海原へ漕ぎ出していったのです。そして、バルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰を見出し、その後ヴァスコ・ダ・ガマによってインドへの航路が発見されることになりました。

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15世紀のヨーロッパ

15世紀中ごろの南ヨーロッパは、黒海周辺の中央アジアを支配していたオスマン・トルコ帝国によって事実上、地中海から陸路でアジアへ向かう通商路を封鎖されていました。このためベネチアをはじめとするイタリアの自由都市は、東をオスマン・トルコ帝国、西を新興のスペイン、南をイスラム勢力にふさがれて、勢力を拡大することができませんでした。また、イギリスとフランスは百年戦争が終結したばかりでしたし、西地中海を支配していたスペインは国内及び北アフリカのイスラム勢力との戦いに精いっぱいで、海の向こうに進出する余裕はありませんでした。
こうしたなかで唯一、イスラム勢力との争いと無縁だったポルトガルは、ヨーロッパの陸上交易路を封鎖するイスラム勢力に関係なく東方へ進出するため、陸路に代わる海上ルートの確立を積極的に進めます。
当時は、マルコ・ポーロ(1252~1324)によって紹介されたアジア、特にイスラム商人を介さないインドや中国との直接交易が、ヨーロッパをさらに豊かにするための唯一の方法だと考えられていました。しかしそのためには、イスラムの勢力圏をどうやって突破するかという問題があり、ここでアフリカ大陸を回る航路が、にわかに脚光を浴びることとなったのです。
しかし15世紀半ばのヨーロッパの船乗りたちにとっては、カナリア諸島より南は、恐ろしい言い伝えのある未知の海だったので、そこに足を踏み入れるのは正気の沙汰ではないと考えられていました。かつて古代エジプト人やフェニキア人が行った遠征航海の記録は忘れ去られ、ヨーロッパの大洋航海は停滞していたのです。

ヨーロッパの世界観

デアゴスティーニ編集部
ヴァスコ・ダ・ガマ(1469〜1525)。彼がアジアへの航路を開拓したことで、その後何世紀も続くアジアとヨーロッパの貿易が可能となったのです。

ヨーロッパは15世紀にルネサンスを迎え、科学的思考が芽生えましたが、海に関しては中世の迷信が色濃く残っていました。一般には、大西洋をどこまでも西に進んでいくと、伝説の大陸アトランティスを飲み込んだという、渦を巻いた「ぬかるみ」があり、迷い込んだ船を海に吸い込んでしまうと考えられていたのです。さらに海には巨大なタコをはじめとするさまざまな恐ろしい怪物がいて、船乗りを食べてしまうともいわれていました。
また、中世ヨーロッパの船乗りたちは西サハラのボハドル岬より南下したことがないため、それより南では人も船も太陽に焼き尽くされ、無限の奈落に落とされると信じられていたのです。当然、アフリカ大陸が南にどこまで続いているかも知られていませんでした。
こうしたなかでも、科学的な考え方を身に付けた少数の人たちは、古代エジプト人が到達したという大西洋とインド洋の境界であるアフリカ最南端の「陸端の岬」の存在を信じていました。しかし一般の人たちは、紀元前にエジプト人やフェニキア人がアフリカ大陸を一周した記録があることなどすっかり忘れていたのです。
この時代のヨーロッパ人は地中海中心の世界観を持っていたため、広く使われている海図ですらキリスト教の聖地エルサレムが世界の中心に描かれているようなものしかなかったのです。それでも天文学者などの科学的教養を身に付けた人々は、次第に古代ローマのプトレマイオスが唱えた「地球は丸い」という学説を支持するようになりました。そして15世紀末になると、バルトロメウ・ディアス、クリストファー・コロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマらが行った大航海が、ヨーロッパ人の世界観に大きな変化を引き起こしました。

航海王子エンリケ

まず、こうした大洋航海に先鞭をつけた人物は、15世紀中ごろのポルトガル王子・エンリケ(1394~1460)です。「航海王子」として有名な彼は、当時広まっていたルネサンス的な考え方の影響を受け、幼いころから旺盛な知的好奇心を発揮していました。彼はヨーロッパの国々のなかで最初にアフリカの南へ進出していくのは、イスラム勢力との戦いに勝利しつつあったスペインではなく、自国ポルトガルだと確信していました。
1419年、突然の嵐で予定航路から大きく流されたポルトガル船が、アフリカ北西岸で偶然にマデイラ諸島を発見します。当時ポルトガルは、ジブラルタル海峡に面したアフリカ大陸のセウタを占領していたので、この発見は南方への遠征を行うのに、絶好の足掛かりとなりました。
エンリケ王子が、最初に編成したジル・エアネスの探検隊に下した命令は、ボハドル岬より南へ航海し、そこがどのようになっているかを調査せよというものでした。1433年にエアネスの探検隊は、未知の海を航海する恐怖心を何とか克服してボハドル岬を越え、現在の西サハラまで到達しています。しかしそこで彼らが見たのは、わずかな雑草しか生えていない砂漠地帯でした。
この航海から2年後の1435年にエンリケ王子は、サハラより南に進みさらに探検を行うよう命じています。これを受けたエアネスとアンタオ・ゴンサルベスの探検隊は、ボハドル岬より250キロ以上南下し、人が住んでいることを示す痕跡を海岸で発見しました。知らせを受けたポルトガル本国は、この地域に向けて多数の探検隊を派遣します。1441年にゴンサルベスとヌーノ・トリスタンが行った航海では、先住民2人を捕らえ、奴隷としてポルトガルに連れ帰りました。これは、17~18世紀にかけて最盛期を迎える、悪名高き奴隷貿易の始まりとされています。
その後アフリカ沿岸をさらに南下していったポルトガル人は、訪れた土地に「パドロン」と呼ばれる十字の目印を残していきました。パドロンは当初木材で造られていましたが、後からやってくる船のための目印として使われるようになると、次第に石で造られたものが岬や海岸、小島などに置かれるようになります。1457年にボハドル岬から約2,400キロ南のシエラレオネに到達したポルトガル人は、エンリケ王子が死んだ1460年にはアフリカ西部のベニン湾に到達し、奴隷貿易を行って多大な利益を挙げました。
当時のポルトガル国王アルフォンソ5世はエンリケ王子の死後、彼の築いた大洋への拡大路線を継続しようとはしませんでしたが、跡を継いで1481年に即位したジョアン2世は、アフリカ南端にあるといわれる「陸端の岬」を発見するための探検隊に惜しみない支援を与えました。彼はギニア湾岸のサン・ホルヘに、将来の探検航海で拠点として使えるような要塞を建設させます。また、ジョアン2世は、アフリカかアジアのどこかにあるという、莫大な富を持つ伝説上のキリスト教徒の国、「プレスター・ジョンの国」を発見したいとも願っていました。
1486年にボハドル岬から約2,700キロ南まで進んで、コンゴ川河口に到達した探検家、ディエゴ・カーンは、コンゴ川を遡ってナミビアまでたどり着いています。

喜望峰を越える

デアゴスティーニ編集部

ジョアン2世は1487年に、再び大遠征隊を編成しました。今度こそ間違いなくアフリカ最南端に到達して、インドへの航路を発見するためです。こうしてバルトロメウ・ディアスを指揮官とし、カラヴェル船2隻と輸送船1隻で編成された船団は8月初めにポルトガルのリスボンを出港します。この船団には、先住民との通訳となるアフリカ人奴隷6人を含む、乗員60人が乗り組んでいました。ディアスはこれまでの探検隊が残したパドロンをたどりながらアフリカ西岸を南下しましたが、クロス岬を通過しオレンジ川河口から約90キロの地点に達したとき突然、強風に襲われ、これを切り抜けるために沖に向かってジグザグに航海せざるを得なくなります。その後船団は13日もの間、陸から離れるようにして南西方向に進んだ結果、幸運にも危険な沿岸の暗礁地帯を避けることができました。そして陸地に近づくために再び東に向かおうとしたので強風が吹き荒れ、「吠える40度」とも呼ばれる南緯40度線をも避けることができたのです。しかし陸地を発見できず、すでにアフリカ大陸南端を通り過ぎたと考えたディアスは、疲れ切った乗員たちが未知の海に対する恐怖にとらわれていたこともあり、北に向かうことにしました。年が明けた1488年2月、再びアフリカの海岸を発見しましたが、海岸が南北方向ではなく東西方向に延びていたので、すでにアフリカ最南端にあるといわれていた「陸端の岬(現在の喜望峰)」を通過したと推測しています。実際この時点で船団は、喜望峰の東側にあるポートエリザベス沖まで到達していました。
その後船団はそのまま東へ向かって航海を続け、アルゴア湾を通過しましたが、ここで乗員たちの長期航海に対する不満が頂点に達します。乗員たちは3日以内に新しい発見がなければポルトガルへ帰還するようディアスに迫り、彼はそれを受け入れざるを得ませんでした。ディアスはポートエリザベス南東のケイスカマ川河口にパドロンを設置しようとしましたが、波が荒いために設置できず、仕方なく西に後退してアルゴア湾のクワイホーク岬にパドロンを設置しています。
ディアスは3日間で何も発見できなかったので、約束どおり帰還する準備を始め、4月末にはアフリカ最南端のアガラス岬の東にあるストリュイス湾に停泊します。しかし船団はここで、経験豊富な船乗りでさえ体験したことのないようなすさまじい嵐に襲われ、想像を絶するほどの高波のために足止めされてしまいます。5月末になってようやく出発した船団は、6月6日ごろに現在のケープタウン近くのテーブルマウンテンを発見し、そこが伝説の「陸端の岬」であることを確認しました。ここに二つ目のパドロンを設置したディアスは、その岬を「暴風岬」と名付けました。しかし後にここは、ジョアン2世によって「喜望峰」と改名されています。こうしてアフリカ大陸の最南端が確認され、インドへの航路を開拓する準備が整ったのでした。

スペインとポルトガルの対立

ディアスが喜望峰に到達した後の10年間で、世界は大きく変化しています。イスラム勢力との戦いに勝利したことで国内が安定したスペインは、古代ローマの天文学者兼地理学者、クラウディオス・プトレマイオスの「地球は丸い」という学説に目を向け、ジェノバ生まれのクリストファー・コロンブス(1451~1506)を大西洋に送り出すことになります。
彼の航海の目的は、大西洋を西に行くことでアジアへの新たな航路を発見することでした。このためコロンブスは、1494年に到達した陸地をインドだと信じていたのです。こうして海上へと乗り出したスペインは、世界の海に勢力を広げようとするポルトガルにとって、目の上のこぶであり、強力なライバルでした。このために起きた争いを収めるため、1494年、当時のローマ法王アレクサンドル6世(1431~1503)の仲介により結ばれたトルデシリャス条約によって、世界をスペインとポルトガルの2カ国で分割することが決められました。この条約ではスペイン、ポルトガル両国が発見した新しい土地を、それぞれが新領土とすることが話し合われます。そして最終的に、アフリカ西部のヴェルデ岬の西方約2,000キロを境にして北極から南極にかけて南北に線を引き、その東側をポルトガル、西側をスペインの勢力圏とするという、現在では考えられないような取り決めがなされました。
ポルトガル国王マヌエル1世(1469~1521)は1497年、ヴァスコ・ダ・ガマを指揮官とする探検隊を編成します。そしてガマに、喜望峰回りでインドに向かうように命じました。当時すでに、スペインとの競争は一刻の猶予もならない状態になっていたので、マヌエル1世は船の準備に必要な費用を惜しまずに投入したのでした。

ヴァスコ・ダ・ガマのインド遠征

デアゴスティーニ編集部

ポルトガル国王マヌエル1世(1469〜1521)から喜望峰回りのインド航路探索を命じられたヴァスコ・ダ・ガマ(1469〜1525)は、1497年、リスボンを出帆しました。彼の船団は、旗艦が大砲を20門搭載したカラック船「サン・ガブリエル号」、その同型船「サン・ラファエル号」、そして探索用の小型カラック船「ベリオ号」に補給用大型カラック船を加えた4隻で編成されています。この補給船は現在の排水量から考えて約300トンの大型船で、広々とした船倉には長期間の航海に備えて、大量の食糧と資材が積み込まれていました。
船団はセネガルのヴェルデ岬に寄港してさらに大量の食糧を積み込んだ後、8月3日に南へ向かって出発しています。このときガマは、なぜかアフリカ沿岸を南下せずに、大西洋の中心へ向かう西南西の針路を取りました。彼がこの針路を取った理由は明らかになっていませんが、アフリカ南部沿岸地帯の逆風や、逆向きの海流を避けるためだったと思われます。ガマの船団は航海を続け、ブラジル東端のサン・ロケ岬付近を通過した後に南東に針路を変え、11月4日に南アフリカ西岸のセントヘレナ湾に到達しました。この3カ月と1日、約8,300キロに及ぶ無寄港航海は、過去の航海史上最長のものでした。
セントヘレナ湾で上陸したガマは緯度を計測し、そこが喜望峰と緯度で2度、距離にして500キロほどしか離れていない地点であることを確認しました。長い航海を続けていた乗員たちは、未知なる海への恐怖や疲労に加え壊血病に苦しめられていたことからガマへの不満を募らせていましたが、これを聞いて再び彼を尊敬するようになります。そして彼らはセントヘレナ湾でヨーロッパ人として初めて、ホッテントットと呼ばれていた先住民たちと接触しました。また、彼らがここで食べた果実類は壊血病予防に非常に効果的だったため、セントへレナ湾は、後にヨーロッパからインドへの航路において食糧の補給基地として重要な場所になりました。
ガマの船団は11月6日に再び出発し、逆風と潮流を乗り越えて11月22日に喜望峰を越え、喜望峰発見者のバルトロメウ・ディアス(1450〜1500)が到達したポートエリザベス沖を通過した後も、さらに東へ航海を続けていきます。ここでガマは、積み込んでいた食糧や資材をほとんど使い切っていたこともあって、速度が遅く航海の足手まといとなっていた補給船を焼き払いました。そして3隻になった船団はザボール川に停泊し、壊血病患者の治療や船の補修整備を行っています。
再び出発した船団はアフリカ大陸東岸を北上していましたが、年が明けて早々の1498年1月、彼らの前に突如、白い壁の家や燦然と輝くモスクを持つモザンビークの街が現れました。この街は当時アフリカ南東部沿岸地域に勢力を広げていた都市国家群の南端に位置しており、港はアラブの船であふれかえっていました。しかし、モザンビークを治めるスルタンはガマたちに対して冷淡な反応を示したため、船団はモザンビークを後にし、さらに北上してケニアに向かいます。ここで一転して友好的に迎えられたガマは、インドの船と乗員に接触することに成功しました。ケニアのスルタンは非常に友好的で、食糧の補給をしてくれただけでなく、インドへの航路を熟知しているアラブ人の水先案内人を紹介してくれたのです。
ケニアからインド北東部のカリカット(現在のコジコーデ)までは、小島や浅瀬が点在する危険な海域を4,000キロ以上航海しなければなりませんでした。しかし、このアラブ人の水先案内人が優れた能力を持っていたおかげで、船団は1日に150キロ以上も航行し、ケニアを出発してからわずか27日後の5月8日にはカリカット北方約100キロのマラバルに到着します。こうしてガマは、海上ルートでのインド到達に成功したのです。

ポルトガルへの帰路

ガマ率いるポルトガル船団は、到着直後は大変友好的にもてなされますが、彼らが贈り物を差し出した途端、それまでの友好的な雰囲気は一変します。というのも彼らが差し出した贈り物は、大半が未開の先住民との物々交換のために持って来ていた粗末なものだったからです。加えて当時のインド商人は大部分がイスラム教徒だったため、キリスト教徒のガマたちとの宗教上の対立があったことも影響していたと思われます。そのため、ガマはインドに到着はしたものの、3カ月間滞在しただけで何の成果もなく帰国するしかありませんでした。
 ポルトガルへの帰途は、逆風が吹く季節に当たったうえ、アラブ人水先案内人の協力も得られなかったことから苦難の航海となります。往路はわずか27日間で到着したアフリカ−インド間の航海に、復路は何と3カ月もかかってしまいました。このため船団は食糧不足となり、乗員たちの間に壊血病が蔓延しています。病気はなすすべもなく進行し、多くの死者を出す結果となります。彼らが再びケニアに到着したときには、帆を操作する体力すら残っていない有り様でした。ケニアでスルタンから、オレンジをはじめとする新鮮な食糧の提供を受けたため、残っていた乗員たちは体力を回復し、辛うじて生き延びることができましたが、乗員の数は激減していました。ガマは、操船に必要な人数を確保するために船を1隻焼き払い、生き残った乗員を残り2隻に配分することを余儀なくされます。
 船団はその後、1499年3月に再び喜望峰を回ってポルトガルに戻りますが、その途上でガマの弟をはじめとする多数の船員が病などで死亡します。こうして出発から約2年後の8月末、ようやくリスボンに帰港したガマは熱狂的な歓迎を受け、国王からは惜しみない賛辞を贈られました。こうした苦難の航海の末にヨーロッパとアジアは海路で結ばれ、新しい時代が幕を開けたのです。

※この記事は、週刊『セーリング・シップ』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を元に、構成し直したものです。

公開日 2012/12/14


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