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帆船終末期の輝き~高速帆船クリッパー船の登場と帆船時代の終幕

【第12回─最終回】帆船終末期の輝き~高速帆船クリッパー船の登場と帆船時代の終幕


クリッパー船と呼ばれる最初の船は、アメリカ合衆国のニューヨークで1845年に建造された「レインボー号」です。
クリッパー船の特徴は、かつてない大型船にもかかわらず高速を発揮できたことと、美しい外観を持っていたことです。しかし皮肉なことに、この優秀かつ優美なクリッパー船が、帆船時代の最後を飾る船となったのでした。

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高速のクリッパー船

デアゴスティーニ編集部

中国に向かうため、ボストン港を出港するクリッパー船、「ニューヨーク・オーシャン・ヘラルド号」。

1842年、イギリスとのアヘン戦争に敗れた清(中国)は、不平等条約である南京条約を結ぶことを余儀なくされ、これにより清はそれまでの鎖国政策を解き、いくつかの港を開港することになります。アメリカの海運業者たちはこの知らせに色めき立ちました。彼らは中国との貿易をあてにして、早速、造船所に多数の船を発注します。当時清への航路は、ニューヨークを出発して大西洋を渡り、アフリカ最南端の喜望峰回りでインド洋を経由して中国大陸に到着するという、往復で5万6千キロ近くになる長いものでした。アメリカの海運業者たちは、当時の定期船が、中国からの帰路に6カ月かかっていたところを、半分の3カ月に短縮できないかと考えます。これを実現するためには、航海中の平均速度を、これまでの3.5ノット(時速6.5キロ)から、倍の7ノット(時速13キロ)にしなければなりませんでした。
当初、このスピードは実現不可能だと考えられていました。しかし中国の物産品、特に新鮮なうちに輸送する必要のある茶葉がアメリカで人気となったため、商人が高速船の開発に資金を提供するようになり、クリッパー船の発達を加速させていきました。

レインボー号の誕生

デアゴスティーニ編集部

オーストラリアから羊毛を輸送していた「マウント・スチュアート号」。

レインボー号は排水量750トンという大きさを誇る、初のクリッパー船と呼ばれるにふさわしい船でした。最初の航海で、最高速度14ノット(時速26キロ)を記録し、中国からアメリカへ通常は6カ月かかる帰路を102日で航海しています。1846年の2回目の航海で、レインボー号はその能力を最大限に発揮し、往路はニューヨークから中国までを99日で、復路はさらに短い84日で航海しました。それまで夢だと思われていた往復6カ月での航海という目標が現実となったため、海運業者たちはこぞってレインボー号と同じ型の船を注文し、より細長い船体と大きな帆を持つクリッパー船が多数建造されました。こうしてクリッパー船の時代が幕を開けたのです。

大型のクリッパー船

デアゴスティーニ編集部

複雑に進化したクリッパー船の艤装。写真に見られるように、クリッパー船のヤードや索具類は、トラファルガーの海戦時代からは想像もつかないほど、複雑な構成となりました。

クリッパー船の時代の扉を開いたレインボー号でしたが、建造からわずか3年後の1848年、逆風で海が荒れるため海難事故が多発する場所として有名な南米最南端のホーン岬で、全乗組員を乗せたまま沈没してしまいます。本来ならばこうした事故は、船の設計を見直す契機となるものですが、新しく建造される船の形状はますます細長いものになっていきました。
 このころにはクリッパー船以外の商船でも、高いマストに多数の帆が張られるようになっていました。シー・ウィッチ号の艤装も大型化し、かつて例を見ないほど大規模なものになっています。また当時の船は、船首部分を大幅に軽量化し、同時に幅に対する長さの比が大きく極端に細長い船体を持つようになり、高速性がさらに高まっていました。クリッパー船の登場によって始まった、こうした帆船の速度追求は、19世紀末まで留まることなく続いていきます。

カティ・サーク号の誕生

デアゴスティーニ編集部

カティ・サーク号の船首に飾られた彫像。これは、18世紀のスコットランドの詩人ロバート・バーンズ(1759〜1796)が1790年に書いた詩「シャンター村のタム」に登場する魔女をかたどったものです。

19世紀後半になり、蒸気機関を補助動力とする機帆船が建造されるようになっても、鉄製の機帆船では茶葉などの品質が落ちるといった理由で、海運業者たちはまだクリッパー船を好み、建造を続けていました。有名な「カティ・サーク号」を発注したイギリス人、ジョン・ウィリスもそのひとりでした。
カティ・サーク号の建造には、イギリスの排水量制限に関する法律が改正されたことが大きく影響しています。改正される前は、船にかかる税金が船体の長さと幅で決められていたため、長い船体を持つクリッパー船よりも、船体が短く喫水が深い商船の方が税金が安くなっていました。このためイギリスの海運業者は、速度は遅くても船体が短い商船を使い、高速のクリッパー船を次々に投入するアメリカとの競争に遅れをとっていたのです。しかし1854年にこの法律が改正された結果、イギリスでもクリッパー船が盛んに建造されるようになりました。
カティ・サーク号の建造にあたっては、速度だけでなく、外観の美しさも重視されたため、外装には厳選された材料が使われ、金メッキもふんだんに施されています。また船首には、18世紀のスコットランドの詩人ロバート・バーンズの詩に登場する、短い下着(カティ・サーク)を纏った魔女の彫像が飾られました。こうしてカティ・サーク号は、商船でありながら豪華客船と比較しても遜色ない、堂々たるクリッパー船として1869年11月22日に完成しています。全長64.8メートル、全幅11メートル、喫水6.4メートル、排水量963トンの船体は、600トン近い茶葉の積載が可能で、新型機帆船にも匹敵する最高速度約17.5ノット(時速32.5キロ)を出すことができました。
高速性を追求した結果、カティ・サーク号の艤装は複雑極まりないものになり、メインマストの高さは47メートルを超し、索具の総延長は20キロ以上に及び、34枚もの帆の総面積はテニスコート10面分近い広さになっていました。

一滴の水も浸水したことがなかった名帆船

デアゴスティーニ編集部

カティ・サーク号の船尾。18世紀までの帆船の装飾は、国旗や紋章などが用いられていましたが、クリッパー船の時代になると神話などから装飾の題材が選ばれることが多くなりました。

カティ・サーク号の最初の航海は、ジョージ・ムーディ船長に率いられて中国の上海に向かうものでした。このときはロンドンから上海までの往路を104日、復路は110日という、当時としては相当短い日数で航海しています。
1922年まで商船として使用された53年の間にカティ・サーク号は何度も嵐に遭っています。マストが折れて座礁したこともありました。さらに、設計時には想定していなかった大量の石炭などを無理矢理積み込んで航海したこともありましたが、このような苦難にもかかわらず、船体自体が損傷したことはありませんでした。引退まで一度も穴があくことがなかった船体内には、一滴の水も浸水したことがなく、また晩年でも半分の帆を張るだけで16ノット(時速30キロ)近い速度を出すことができたのです。
カティ・サーク号は現在、イギリスのロンドンに近いグリニッジに保存されています。そして今もなお、世界中の海洋関係者や帆船ファンがこの地を訪れ、帆船時代の最後を飾った美しく壮大なこの船に惜しまぬ賛辞を贈っています。

外洋に進出する蒸気船

デアゴスティーニ編集部

アメリカ海軍の巡洋艦「ボストン号」。1884年に建造されたこの船は、メインマストがない代わりに2基の蒸気機関が装備されています。

19世紀初頭に実用化された蒸気船は、最初のうちは内陸河川で使用されていましたが、やがて帆と併用した機帆船として外洋航路でも使用されるようになり、次第に帆船を海上の主役から追い落としていきました。
外洋航路で使用されるようになった機帆船は、次第に苛酷な条件下でも航行できるようになりました。1816年には、外輪式の推進装置を装備した「エリーゼ号」が、嵐の吹き荒れる英仏海峡を17時間かかって横断することに成功し、1819年にはアメリカの「サバンナ号」が、大西洋を横断するという快挙を成し遂げます。このサバンナ号は、帆船に蒸気機関の外輪を装備した機帆船で、大西洋横断航海中にはほとんど蒸気機関を使用していませんでした。しかしこの航海の成功は、大型商船が帆走の補助として蒸気機関を装備する大きな転機になりました。

帆船の最後を飾る大型船

デアゴスティーニ編集部

1889年7月25日、オーストラリア沿岸で蒸気船ブリタニア号を追い抜くクリッパー船カティ・サーク号。ブリタニア号は当時、世界で最も高速な蒸気船のひとつでしたが、カティ・サーク号は強風を利用して追い越しています。

蒸気船が発達していく一方で、海運業界は蒸気船に強い抵抗感を示しています。彼らは19世紀末になってもなお、長距離の外洋航海では、風力だけで航行するクリッパー船で充分に利益を上げられると考えていました。当時のクリッパー船は、風向きに助けられる大西洋航路では、蒸気船より速く航海できたからです。しかし、このころ建造された帆船は、高速性能を保ったまま、より大きな積載量を得ようとするために、鉄製の細長い船体を持つようになり、それにつれてマストもより高くなったため、マストが折れてしまう事故がしばしば起きていました。
蒸気船に海上の主役を奪われつつあった時代の、最後の大型帆船といわれるのが「パミール号」です。全鋼鉄製の船体と4本のマストを持つこの船は、1905年にドイツ北部のハンブルクで建造され、1931年まで硝石輸送に使用されていました。その後は小麦輸送に使用されましたが、1939年に商業輸送任務から退きます。この1939年が、商業輸送に帆船が使用された最後の年といえるでしょう。

※この記事は、週刊『セーリング・シップ』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2013/12/12


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