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コロンブスの航海 その1~黄金の国・ジパングを求めて

【第2回】 コロンブスの航海 その1~黄金の国・ジパングを求めて


ヨーロッパのアメリカ新大陸への到達(発見)は、西に向かえばアジア、それも黄金の国・ジパングへ着くはずだという、クリストファー・コロンブス(1451〜1506)の揺るぎない信念と勇気によって成し遂げられました。彼はイタリアのジェノバで生まれた優秀な航海家です。コロンブスは最初、インドへの航海の援助をポルトガルから得ようとしましたが、良い返事を得られなかったため、代わりにスペインから援助を得て大西洋へと乗り出していきます。
こうして大西洋を西に進んでいったコロンブスは、アジアではなく、謎に満ちた新大陸、アメリカ大陸に到着します。これにより、ヨーロッパ人の世界観は大きく変化したのです。

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コロンブスの計画

デアゴスティーニ編集部

コロンブスの肖像画。彼は、大西洋を西に向かって航海することでアジアに行き着こうとしました。その生涯は、海と新航路発見という夢に捧げられています。

イタリアのジェノバで生まれたコロンブスは、熟練した船乗りであると同時に冒険家にして軍人で、さらに社交界にも出入りする宮廷人でもありました。幼いころから海に憧れ、成人してからも地中海を船で盛んに行き来していた彼が、インドへの新航路発見という夢を抱くようになったのは、ポルトガルに移住して大西洋を目の当たりにしてからです。
ポルトガルに移住したコロンブスは、大西洋を西に向かって横断すれば、アジア、それも黄金の国ジパングに到達できると確信するようになりました。その背景には、6世紀に活躍した修道士であり旅行家でもあった、アイルランドの聖ブレンダン(484〜577)の航海記録に書かれた「西の海のかなたには陸地がある」という伝説がヨーロッパで広く信じられていたことがあります。さらに、ピッコロミニやダイイ、トスカネリの著作を調べた彼は、自分の考えた探検を実現するために、ポルトガル王室に探検の計画書を提出し、資金援助を得ようとします。この計画書でコロンブスは、自分の理論を信じてもらうために、アフリカのギニアまでの距離を計算してそれを基に実際の航海を行い、計算の正しさを証明するという提案をしました。しかしこの提案は、ポルトガル人の方がアフリカ航路をはるかに詳しく知っていたため効果がなく、計画は却下されてしまいます。
ポルトガル王室に相手にされなかったコロンブスはスペインに援助を求めることにし、1485年にスペイン南西部のセビリアに移り住むと、王室と接触する機会を得るために現地の社交界に出入りし始めました。こうして宮廷内に人脈を作った彼は、1486年5月1日に王宮に出向き、当時の女王イサベラ1世と国王フェルナンドに、大西洋を西に向かってインドを目指す航海のための資金援助を求めました。当時のスペインは、南部のグラナダでイスラム教徒と激戦を繰り広げていた最中だったにもかかわらず、イサベラ1世はコロンブスの計画に強い関心を示しています。これはコロンブスがあらかじめ、スペインの学識者評議会にも計画書を送っておいたからでした。この学識者評議会を主宰していたのは、大司教と大臣を兼任するエルナンド・デ・タラベラという人物で、彼の推薦もあってフェルナンド国王とイサベラ女王はコロンブスの計画に耳を傾ける気になったのです。
コロンブスの計画は、学識者評議会で審査されましたが、審査に6年間もかかったため、コロンブスは生活に困窮し、船乗り向けに船の操縦法の図解を書いて生活費を稼いでいたといいます。そのうえコロンブスの計画は審査の結果、1492年の1月に却下されてしまいました。当時、冒険家に国が資金援助するということは投資と同じであり、大きな賭けでもあったのです。しかしここで、フェルナンド国王の側近で司法機関の重職に就いていたルイス・デ・サンタンヘルが救いの手を差し伸べます。彼は評議会の面目をつぶさずにコロンブスへの資金援助を可能にする方策を立てたのです。
当時のスペインでは、国内のイスラム教徒勢力からスペイン全土を奪還する戦いが最終局面に入っていたため、戦いで活躍した騎士階級に褒賞として与える土地が、徐々になくなってきていました。そこでスペイン王室は苦肉の策として、海外の土地を褒賞にしようと試みますが、アフリカはすでにポルトガルに押さえられていたため、新しい土地を開拓する必要がありました。サンタンヘルはこの視点から、コロンブスの計画を薦めたのです。こうしてコロンブスは、イサベラ1世とフェルナンド国王の2人に謁見することとなり、彼の計画を聞いたフェルナンド国王の決断によって、大西洋横断航海への援助が決まりました。
サンタンヘルは王室だけでなく各方面から、コロンブスの航海費用を調達し、さらにスペイン王室は乗員たちの給料を賄うため、特別税を徴収しています。こうして資金集めが済んだ1492年春、スペイン王室はコロンブスに3隻の船と熟練した乗組員、1年分の食糧と未知の先住民との取引に用いる品々を与えるという契約を取り交わします。
この契約ではこれ以外に、コロンブス個人に対する褒賞として、発見した土地の総督の地位の世襲を認めるといった、幾つかの権利が与えられることになっていました。このなかには海外の領地で法的・行政的な裁定権を持つ海軍提督の地位や、発見した財宝はスペインの所有となるが、そのうちの10分の1は褒賞とするといったものがあり、さらに新航路の交易利益の8分の1が礼金として与えられることになっていました。
5月になると王室の意を受けて、スペイン南西部のパロス港の著名な船乗りの家系であるピンソン家とニーニョ家から、2隻のカラヴェル船が提供されます。1隻は、方形帆を装備した排水量60トンのピンタ号で、マルティン・アロンソ・ピンソンが船長でした。もう1隻はラティンセールを装備した排水量55トンのニーニャ号で、マルティンの弟ビセンテ・ヤニェス・ピンソン(1460〜1524)が船長を務めています。
2隻のカラヴェル船の他に、方形帆を装備したカラック船が3隻目の船として用意されましたが、この3隻目こそがコロンブスの旗艦として有名なサンタ・マリア号でした。この船は中古船で、正確な大きさは明らかではありませんが、船の全長よりもメインマストの高さの方が高く、ヤードの長さがキールほどもあるなどといった特徴から、典型的なカラック船であったといわれています。

苦労続きの航海準備

デアゴスティーニ編集部

スペイン南西部のパロス港を出港し、西に向かって航行するコロンブスの船団。左からピンタ号、サンタ・マリア号、ニーニャ号です。

クリストファー・コロンブス(1451〜1506)は1492年5月12日、大西洋を西に進んでインドへ到達しようという計画を実行するため、スペイン南部のグラナダから南西部のパロス港に移りました。彼は早速出港準備を始めましたが、スペイン王室をはじめとする各界からの援助資金を受け取る手続きに2カ月もかかったため、3隻の船団が準備を終えたときには、すでに夏になっていました。
しかも迷信深い船乗りたちはコロンブスの計画を狂気の沙汰だと思っていたため乗組員がなかなか集まらず、スペイン王の特赦によって集められた死刑囚がほとんどで、経験豊富な船乗りはいないに等しいという状態でした。このようなコロンブスの苦境を救ったのは、遠征船団でカラヴェル船「ニーニャ号」と「ピンタ号」の船長を務めたピンソン兄弟でした。彼らがその名声を生かして90人の乗組員を集めることに成功したため、船団はようやく充分な数の乗員を確保することができたのです。
この航海でコロンブスは旗艦であるカラック船「サンタ・マリア号」に乗り組み、副官はピンソン兄弟の兄であるピンタ号船長マルティン・アロンソ・ピンソンが兼任で務めました。ニーニャ号にはマルティンの弟ビセンテ・ヤニェス・ピンソン(1460〜1524)が船長として、航海長で船主でもある、ニーニャ号の名の由来となったファン・ニーニョとともに乗り込んでいます。
8月3日の夜明け前にスペインのパロス港を出発したコロンブスの船団は、北東から吹く風に乗って南下し、北アフリカ西方のカナリア諸島に向かいました。パロスからカナリア諸島までの航海では、ピンタ号の舵が外れるというアクシデントがあったものの、マルティンの巧みな操船のおかげで予定通りの8月13日に到着しています。島ではピンタ号の舵の修理と水や食糧の補給が行われた他、ニーニャ号の艤装がラティンセールから追い風時に効率の良い方形帆に替えられました。これらの作業が終了した9月6日に、船団は再び出発します。
コロンブスが立てた航海計画では、カナリア諸島からは貿易風を利用して西に向かい、黄金の国と呼ばれていたジパング(日本)を目指す予定でした。彼はジパングの位置を、カナリア諸島から約4,500キロ程西に進んだ場所だと計算していたため、真西に向かって4ノット(時速約7.4キロ)で進んでいけば3週間程度で到着できると考えていました。この計算に従って4,000キロ程西に向かって航海した後、そこからは危険な浅瀬などを避けるために昼間だけ航海するという方針を立て、これを乗組員たちに説明します。用いられた航法は、緯度を四分儀で測定し、経度は航行距離から推定するという当時の一般的なものでした。
9月6日に大西洋中央のサルガッソー海に着いた船団は座礁しないよう慎重に航行するようになります。彼らは一刻も早く陸地を見つけるため、どんな兆候も見逃すまいとして周囲を観測しましたが、陸地は見つかりませんでした。陸地の影が見つかったと思うと、それは蜃気楼だったり雲の見間違いだったりしたため、その度に乗組員は失望を募らせていったのです。
こうした状況にコロンブス自身も次第に不安になり、10月3日には計算に何か間違いがあったのではないかと思うようになりました。というのも計算上、とうの昔にジパングに着いてなければならないのに、船は陸地を見ないまま西に向かって進み続けていたからです。10月6日にはとうとう、乗組員たちに公表していたスペインからの航行距離が4,400キロに達したため、彼らの間から不審の声が挙がり始めました。しかしコロンブスは、航海期間が予定より延びた場合に乗組員たちがパニックを起こさないよう、航行距離を実際より10%以上短く計算して発表していたため、このとき、実際の航行距離はすでに5,000キロを超えていたのです。そこで船団が北に流されたと考えた副官のマルティンは、針路を西南西に変更することを提案しましたが、コロンブスはこれを却下しました。しかしその夜に、旗艦サンタ・マリア号で小さな規模の暴動が起きたため、彼はマルティンの提案を受け入れ、針路を変更しました。
10月10日には、船団は追い風を受けて7ノット(時速約13キロ)で航行していましたが、順調な航海とは裏腹に、乗組員たちの士気は下がる一方でした。カナリア諸島を出発してからすでに1カ月以上が経ち、いつまでも目的地が見えない航海に対する乗組員たちの不安が限界に達していたのです。コロンブス自身は平静を装い、毅然とした態度を保っていましたが、船内はいつ大暴動が起きてもおかしくない雰囲気でした。こうした状況でマルティンがついに、「あと3日航海を続けても何も見つからなければ、引き返すべきだ」という提案をします。この提案によって生まれたコロンブスとマルティンの確執は、航海中ずっと尾を引きました。

サンサルバドル島

デアゴスティーニ編集部

サンサルバドル島を占領するコロンブス。この絵に描かれた儀式は当時の探検家の慣習に従ったもので、コロンブスは王家の旗を立て、3隻の船に国旗を掲げています。

10月11日午後10時ごろ、フロリダ東方の海上でコロンブスは、遠くにかすかな光が瞬いているのを発見しましたが、乗組員たちをぬか喜びさせることを恐れて、これを少数の幹部にしか知らせませんでした。一方乗組員たちに対しては、最初に陸地を発見した者に多額の賞金と賞品を与えると発表して士気を高めています。
翌10月12日午前2時ごろ、バハマ諸島付近でピンタ号の乗組員が、月明かりに照らされた島を発見しました。この報告を受けたマルティンは、全船団にそのニュースを伝えるために祝砲を発射します。当時先住民たちからグアナハニと呼ばれていたこの島を、コロンブスは「聖なる救済者」を意味するサンサルバドルと名付け、スペイン王の名の下に島の占有を宣言しました。彼は同時にスペインの海軍提督として、当時の慣習に従って王家の旗と十字架を海岸に立てます。また3隻の船では国旗を掲げて祝いました。
コロンブスはこの島がジパングの近くに位置するインドの一部だと確信していましたが、実際にはインドからは15,000キロも離れた地点にいました。スペイン人がその事実を認識したのは、それから20年も後のことです。コロンブスはその後、島の周辺を15日間調査しましたが、ジパングもその西にあるはずの中国大陸も見つけることはできませんでした。

キューバとハイチ

デアゴスティーニ編集部

ハイチ島に上陸するコロンブス。この島の美しさに魅了された彼は、先住民の族長から黄金を贈られたこともあり、ここをジパングだと思い込んでいました。この島に最初の砦を築いたスペイン人は、そこをナビダード(キリスト降誕)砦と呼んでいました。

サンサルバドル島で案内役として雇い入れた先住民から、クーバ(現在のキューバ)という、船がたくさん出入りする豊かな島があると聞いたコロンブスは、その島こそジパングに違いないと考え、南西に向かいます。しかし10月28日にクーバ島に着いたものの、先住民がいうような豊かな港は発見できませんでした。
島の周囲を探索した後、ここを中国だと考えたコロンブスは、現在キューバのヒバラ港に当たる入り江に停泊して陸地に使節団を送り込みます。使節団はスペイン王から中国の王へ宛てた親書を携えていましたが、何の成果もなく11月6日に戻ってきました。そこでピンタ号船長のマルティンは、自らの判断で船足の速いピンタ号を使って単独行動で周辺海域の探索を行うことにします。
一方、コロンブスは残り2隻を率いてキューバ東方海域の調査を進め、美しい島を発見し、そこをイスパニョーラ島(現在のハイチ)と名付けました。彼らはハイチで、先住民の族長グアカナガリに好意的に迎えられます。グアカナガリはコロンブスたちに可能な限りの援助をしてくれただけでなく、黄金をも贈ってくれました。この黄金は金鉱脈の上を流れるシバオ川の川底で採れたものでした。これを聞いて、そこが伝説の土地ジパングに違いないと考えたコロンブスは、直ちに出港すると島沿いに進み、その後南に向かおうとしましたが、まだ沿岸を離れないうちに、サンタ・マリア号は珊瑚礁に乗り上げて座礁してしまいました。
この事故は、コロンブスが禁じていたにもかかわらず、経験の浅い乗組員に夜間の操船を行わせたために起きたものです。彼はすぐに修理を始めようとしましたが、大波によって珊瑚礁にたたきつけられたサンタ・マリア号は船底とフレームを引き裂かれ、バラバラに崩壊し始めました。コロンブスは、船の重量を軽くしようとしてメインマストの帆を投棄するように命じましたが、それでも船の崩壊は避けられなかったため、やむを得ず船そのものを放棄します。幸い積み荷は先住民グアカナガリの協力によって、ほとんど無事に回収されました。

最初の航海の帰路

デアゴスティーニ編集部

アメリカ大陸東の西インド諸島に到達したコロンブスは、旗艦サンタ・マリア号を失ったため、ハイチに砦を建設し、この砦を拠点にしてニーニャ号で周辺の調査を再開します。この調査中、彼は半ば反抗的に単独行動をしていたマルティン・アロンソ・ピンソン船長のピンタ号と再会しますが、対立を避けるために、サンタ・マリア号を見失って別行動をしていたという言い訳を受け入れ、2隻で調査を続けます。
調査継続中の1493年1月16日、バハマ諸島で先住民との抗争が発生し、ニーニャ号とピンタ号がともに損傷してしまいます。このためコロンブスは、砦に約40人を残し、自身は修理したニーニャ号に乗船して一旦スペインに帰国することにします。コロンブスは、往路と同じ北緯20度付近で航海すると東風が向かい風となるため、北緯40度付近のポルトガル沿岸を吹く西風を利用することにします。彼がこの航路を選択したのは、西風を追い風として利用できるだけでなく、途中で北アメリカ大陸の大西洋側の調査もできるからでした。コロンブスの計画は、北上してから北緯40度付近で東に針路を変え、追い風に乗って帰還するというものです。
この計画は最良の航路選択でしたが、航海中に「ピンタ号」がミズンマストを損傷し、速度を出せなくなってしまい、ニーニャ号もそれに合わせてゆっくりと北上しなければならなくなりました。2月4日にようやく西風の吹いている北緯40度に到達した船団は東に針路を変え、追い風を受けて航海できるようになります。しばらくは順調な航海が続きますが、2月12日になると、強い西風による大波に襲われます。船倉に積み込まれた食糧などをほとんど消費し切っていたため、船底部が軽くなっていた2隻は、この大波によって転覆寸前まで追い込まれます。ニーニャ号に乗り組んでいたコロンブスはこの状況を打開するために、ワインや水の空き樽に海水を入れて船底に積み、バラスト代わりにしようと考えました。そこで連絡を取ろうとピンタ号に信号を送りましたが、ピンタ号からは何の応答もありませんでした。しかし幸いにも翌日には波風が弱まり、ニーニャ号は2月18日に、ポルトガル西方のアゾレス諸島に無事到着しています。彼らはここで食糧などを補給し、2月24日にスペインに向けて出発しました。
ところが2月26日から3月4日にかけて、ニーニャ号は再び嵐に襲われたため、コロンブスは帆を畳み、リスボン郊外のタホ川河口付近の港に避難しなければなりませんでした。その後、船の修理のためリスボン近郊のレステーヨに立ち寄り、ポルトガル国王ジョアン2世(1455〜1495)に謁見しましたが、これは後にスペイン王室の機嫌を損ねることとなります。そして出港から7カ月と12日経った1493年3月15日、ようやくスペイン南西部のパロス港に帰還しました。こうしてコロンブスは、大西洋の西側にある陸地に上陸して帰還したという名誉を得たのです。
一方、ニーニャ号とはぐれていたピンタ号は、数時間遅れでパロス港に到着しました。2月26日から吹き荒れていた嵐によって、北に流されてしまったことが遅れの原因でした。ピンタ号の船長マルティン・アロンソ・ピンソンは、姿の見えなくなったニーニャ号がコロンブスとともに沈んでしまったと考えていたため、パロス港に停泊しているニーニャ号を見て驚いたといいます。マルティンは、コロンブスに遅れの責任を問われることを恐れ、さらに航海による体力の低下が重なって1カ月後に急逝してしまいます。一方コロンブスはスペイン北東部のバルセロナで、スペイン王から最大級の栄誉をもって迎えられました。そして直ちに2度目の航海の準備に取り掛かるよう命じられ、そのための資金を提供されたのでした。

※この記事は、週刊『セーリング・シップ』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2013/02/26


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