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コロンブスの航海 その2   ~執念で探し続けたインドへの航路

【第3回】 コロンブスの航海 その2 ~執念で探し続けたインドへの航路


最初の航海で、未知の新大陸であるアメリカに到達したクリストファー・コロンブス(1451〜1506)は、まだ見ぬインドへの航路を求めて、再び大海原に乗り出します。彼はハイチ島を大陸だと信じ、キューバのことは中国だと考えていました。しかし、探し求めていた黄金はいっこうに発見されません。南アメリカ大陸のアマゾン川にまで達したコロンブスですが、インドへの航路を見つけようとする執念は尽きず、スペインとポルトガルの政治に翻弄されつつも3度目、4度目の航海に出発することになるのです。

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夢に捧げた生涯

デアゴスティーニ編集部

幾つかの資料を基に作られたサンタ・マリア号の模型。ラティンセールが張られているのはミズンマストだけで、メインマストには方形帆が使われています。フォアマストに掲げられた旗には、聖マルタ騎士団の十字と、イサベラ女王、フェルナンド王の頭文字IとFの字が描かれています。

クリストファー・コロンブスの生涯については、現在でも明らかになっていない部分がありますが、イタリアのジェノバ生まれであることはほぼ間違いないようです。1451年に羊毛職人の息子として生まれた彼の夢は、当時のジェノバの若者の多くがそうであったように、船乗りとして有名になることでした。
海洋国家であった当時のジェノバは、同じイタリア半島のベネチアや、イベリア半島のスペインと熾烈な海上覇権争いを行っていました。コロンブスもそんな状況の下、若いころから地中海を航海するガレー船に乗り組んで経験を積んでいきます。まず最下層の水夫として船に乗り込んだ後、20歳で士官になった彼は、やがて海戦にも参加するようになりました。
1472年、ナポリ王国の王位を巡る戦争でコロンブスは、スペイン北東部のバルセロナ攻撃に参加した他、北アフリカのチュニスでスペインのガレー船「フェルナンディーナ号」を拿捕する戦果を挙げています。このとき彼は、他の乗員たちが敵を恐れて南に向かうのを嫌がったため、夜の間に方位磁針に細工し、北に向かっているかのように装いました。こうして彼は、船を敵のいるチュニスまで進めたのです。
ポルトガルに移住したコロンブスは、そこで人生の転機を迎えたとされますが、ポルトガルで過ごした年月についてはあまりわかっていません。この時期の行動で知られているのは、1476年8月13日にセント・ビンセント岬で遭難事故に遭ったことと、1477年から1480年にかけて、北アフリカ西方のカナリア諸島やマディラ諸島、ポルトガル西方のアゾレス諸島を盛んに探検したことぐらいです。
ラテン語の読み書きができたコロンブスは、1478年にフェリパ・モニスと結婚したころからダイイやピッコロミニ、トスカネリなどの著作に興味を示すようになっていきました。そして彼が「このうえなく明白な奇跡」と呼ぶ、大西洋を西に向かえばジパングに着くはずだという着想を得たのもこの時期のことです。こうして西回りでのアジア到達を確信したコロンブスはその後、ひたすらそれを実現するために突き進んでいきました。

2度目の航海

デアゴスティーニ編集部

ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャル。コロンブスの2度目の航海で、キューバ沿岸の調査を命じられた人物です。この版画にはベラスケスの肖像画とともに、彼がキューバ南岸に建設したサンチアゴ市が描かれています。

コロンブスの2度目の航海準備は順調に進み、1493年9月25日に1,200人の乗員を乗せた17隻の大船団を率いてスペインのカディス港を出発しました。大半が兵士で占められていた乗員のなかには、後のキューバ総督となるディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャル(1465〜1524)も含まれていました。この航海ではカリブ海までを、わずか20日間という記録的な速さで走破しました。これはコロンブスが、1度目の航海よりも南の赤道沿いの航路を取ったため、貿易風を効率良く利用できたことによります。船団はカリブ海東部で、ドミニカ島、マリガランテ島、グアドループ島、プエルトリコ島を発見しながら航海し、11月28日に第1回の航海でハイチに築いたナビダート砦に到着しました。しかしここで砦の守備隊が、彼らに友好的であったグアカナガリ族と敵対する先住民部族によって皆殺しにされていたことがわかります。こうした事態に直面しながらも、彼らは動揺することなく新大陸最初の植民地として町の建設を始め、1494年1月6日にハイチ島に、イサベラ市を設立しました。これ以降、コロンブスの新大陸統治の本拠地となったイサベラ市ですが、住民の間に疫病が流行したこともあって、人口があっと言う間に減少してしまいます。
また、2度目のこの航海で、ハイチは大陸でなく島であることが判明し、ジャマイカ島も発見されたものの、キューバはまだ周囲すべてが調査されていなかったので、コロンブスはここが中国だと主張し続けていました。しかし黄金はいっこうに発見されず、コロンブスに対する不信感は次第に募っていきました。
その後コロンブスは病気になりますが、イサベラ市で静養した後、1494年11月から1495年1月にかけて南アメリカに向かいました。アメリカという名の元となったアメリゴ・ヴェスプッチ(1454〜1512)も加わったこの南アメリカ探検では、アマゾン川付近まで到達しています。このときコロンブスは、アマゾン川流域で真珠貝が採れるのを発見しましたが、そのことを公表しませんでした。これはおそらく彼が真珠の利権を独占しようと考えたためだと思われます。
一方植民地では、スペイン人の統治に反感を持つ先住民たちとの抗争が増加したうえ、本国へ逃げ帰るスペイン人移住者が出るなど、深刻な問題が幾つも発生し、スペイン本国でのコロンブスの評判にかげりが出始めました。そのため彼は1496年4月20日に2隻のカラヴェル船でスペインに向かって出発します。225人のスペイン人と30人の先住民がすし詰め状態となった2隻の船は、この状態で52日間もの間、辛く厳しい航海を余儀なくされました。

3度目の航海

デアゴスティーニ編集部

1500年に「インド航海図」として作られたカリブ海の海図。コロンブスの航海に同行したファン・デ・ラ・コーサが作製したこの海図には、キューバが初めて島として描かれています。

コロンブスに対する周囲の不信感は、当然スペイン王室にも伝わっていましたが、それでも彼は何とか、王室から3度目の航海に対する援助を引き出すのに成功しました。しかし、新しく設立された新大陸の交易管理を行うスペイン交易本部と対立していたため、船団の編成は非常に困難なものでした。加えて、船団を編成する人員にも問題がありました。この3度目の航海は、移民団を新大陸に送ることが本来の目的だったのですが、実際に船に乗り込んだのは、多くが黄金目当ての流れ者だったのです。さらに乗組員には、頭数を揃えるために囚人まで含まれているという有り様でした。
最終的に、船団は300人を乗せた8隻の船で編成されました。コロンブスは船団を二つに分け、3隻はハイチ島に直接向かわせ、彼自身はアジア発見を証明するために、残りの船を率いて南アメリカを目指すことにします。こうしてコロンブスは1498年6月21日にスペイン南部サンルカル港を出発し、しばらくアフリカ西岸を南下した後、赤道付近の無風地帯を、灼熱の太陽にさらされながらゆっくりと西に向かいました。
灼熱地獄を何とか通り過ごしたコロンブスは、カリブ海南東部にあるトリニダード島を経由して、ベネズエラ北東部のオリノコ川河口地帯のパリア湾に到達しました。ここで非常に美しい眺望を持つ大きな川の河口を目にした彼は、この川を伝説にあるナイル川、チグリス川、ユーフラテス川のいずれかに違いないと思い込みました。彼が思い描いていた伝説の地というのは、当時アジアの果てにあるといわれた楽園のことで、この伝説を信じていたコロンブスは、その発見を長い間夢見ていたのです。その後彼は、8月20日に弟バルトロメオが植民地の首都としてサント・ドミンゴ市を建設していたハイチ島に到着しました。しかし首都設立を宣言する直前に反乱が起き、何とか鎮圧できたものの、コロンブスの手腕に対する非難は頂点に達します。それに加えて、彼が2度目の航海で真珠が採れる地域を発見したことを隠していたことも発覚したため、王室からの信用は大きく失われてしまいます。スペイン王は5月21日、ついにコロンブスを新大陸の総督から罷免し、後任にフランシスコ・デ・ボアディーリャを任命する決定を下しました。
1500年10月初め、ボアディーリャはコロンブスを2人の弟や腹心の部下とともに捕らえ、スペインに送還しましたが、彼らはスペイン本国に着くとそれまでの功績が認められて釈放されます。その後南部のグラナダでスペイン王に謁見した結果、金銭的な権利も一部が回復されましたが、政治的な地位は、ほとんど回復されませんでした。

はるかなる旅路

デアゴスティーニ編集部

コロンブスはこの4度目の航海で、新大陸に大西洋とインド洋を結ぶ航路があるかを調査するため、ホンジュラスからパナマにかけての沿岸地帯を探索しました

3度目の航海以降、不遇をかこっていたコロンブスですが、起死回生のチャンスが訪れました。これには、ヴァスコ・ダ・ガマ(1469〜1525)の喜望峰回りでのインド航路に代表される、植民地獲得競争におけるポルトガルの攻勢が大きく影響しています。スペイン王室には連日、ポルトガルの華々しい東方航路開拓の実績と、極東進出の計画が伝えられていました。これに危機感を抱いたスペイン王室は、コロンブスに4度目の航海を行い、新大陸に大西洋とインド洋を結ぶ航路があるかどうかを調べるように命じたのです。
コロンブスは1502年5月11日、150人の乗員を乗せたカラヴェル船4隻を率いてスペイン南西部のカディス港から4度目の航海に出発し、北アフリカ西方のカナリア諸島へ向かいました。カナリア諸島で食糧などを補給した後、6月15日にカリブ海に向けて出発したコロンブスは、カリブ海に近づいたときハリケーンが襲来する前兆に気付きます。彼は予定を変更してハイチ島のサント・ドミンゴに寄港すると、新任のオバンドー総督にハリケーンの前兆があることを知らせました。というのもボアディーリャ前総督を乗せた25隻の船団が、スペインに向けて出港しようとしていたからです。コロンブスはオバンドー総督に船団の出港を延期するよう警告しましたが、オバンドーがこれを聞き入れなかったため、財宝を満載した25隻の船は嵐に遭い、ボアディーリャ前総督を含む500人の乗員もろとも沈んでしまいました。一方、ハイチ島の入り江に避難して嵐をやり過ごしたコロンブスの船団は、全く被害を受けずに済んでいます。
嵐が去るとコロンブスはすぐに、インドへの航路を発見するためにホンジュラス方面に向かい、強い向かい風と海流に悩まされながら海岸沿いに東に進みます。この航海は向かい風のため28日間もかかってしまい、苛酷な気象条件のため艤装だけでなく、船体までもが傷み始めました。ホンジュラスの海岸沿いに進んでいた船団は、海岸線が南に見えるようになったため針路を南に変えましたが、今度は強い横風を受けての航海でした。船団は8カ月に及ぶ航海を経てパナマまで到達し、付近の入り江や河口を探索しました。
この長期にわたる航海で乗員たちが疲れ切っていたうえ、フナクイムシによって船底が穴だらけとなっていたため、コロンブスは帰国を決断します。スペインを出発したときは4隻だったカラヴェル船は、先住民との抗争で1隻が失われ、さらにフナクイムシの害で使いものにならなくなった1隻をパナマで廃棄したため、残り2隻となっていました。その2隻もジャマイカまでは到達しましたが、ついにメインデッキまで浸水したため、コロンブスは航海を中止して船を海岸に乗り上げさせます。彼らはここで、浸水を避けてアッパーデッキ上に小屋を建て、そこで過ごさなければならない状況に陥りました。コロンブスは、約200キロ離れたハイチ島にボートを送って救助を要請しましたが、オバンドー総督はこの救助要請を拒否します。そのためコロンブスと部下たちは、ここで7カ月もの間、生きるためのぎりぎりの生活を送らなければなりませんでした。
この生活が長引くにつれ、最初は友好的だった先住民たちとも次第に敵対するようになりましたが、コロンブスは機転を利かせて窮地をしのいでいます。天体観測から月食現象が起こることを知った彼は、先住民たちに月食が起こることを予言し、実際に月食が起きて恐れおののく先住民に対し、食糧と引き換えに月を戻すと言って食糧を得て、苦難を乗り切りました。
8月になるとようやく救助の船が到着したため、コロンブスはインドへの航路を発見できないままスペインに帰還しました。そこで彼は初めて、彼の有力な後援者であったスペイン女王イサベラ1世(1451〜1504)が死の床に伏していることを知ったのです。そしてコロンブスも、自身で「はるかなる旅路」と呼んだ4度目の航海から帰還して2年も経たない1506年5月20日にその生涯を終えました。インドへの航路を発見することはできませんでしたが、夢に掛けた彼の生涯は後の探検家たちのために、大きな扉を開けたといえるでしょう。

※この記事は、週刊『セーリング・シップ』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2013/03/25


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