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帆走軍艦とガレオン船の誕生~海上での覇権争いの時代へ

【第4回】帆走軍艦とガレオン船の誕生~海上での覇権争いの時代へ


16世紀に入ると、帆船は大きく進化しました。そのなかから大砲を搭載した帆走軍艦が登場し、ガレオン船へと発達していきます。
ガレオン船はアメリカ新大陸開拓と植民地獲得において、カラック船やカラヴェル船に代わる主役となっていきました。同時に軍艦もガレオン船が主流となり、大洋を航海するガレオン船艦隊が編成されるようになったのです。

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大砲を装備した帆船の登場

デアゴスティーニ編集部

16世紀のドイツの軍艦。大砲が装備された高い船首楼と船尾楼は、海が荒れたときには船の安定性を著しく低下させていました。

15世紀末にヨーロッパは、スペインとポルトガルに先導される形で大航海時代を迎えました。3本のマストのうち、フォアマストとメインマストに方形帆を、ミズンマストにはラティンセールを張るという大型帆船の艤装の基本形は、この時期に完成し、ヨーロッパ中に広まったといえます。この艤装方式は、19世紀に大洋航海用の大型帆船で新しい方式が採用されるまで、ほとんどそのまま使用されました。
大砲を装備した帆船が初めて登場したのは、14世紀半ばのイギリスでした。これは帆船の船体構造を大きく変化させただけでなく、その後の果てしない重武装化競争の第一歩ともなりました。これ以降4世紀の間、帆船は大砲の搭載数を増やすために発達を続けていくことになります。当時、海のかなたの土地を目指した船乗りたちは、開拓や交易といった目的に関係なく、船に大砲を搭載して航海していました。新しく発見した土地は発見した国の領土となるため、ヨーロッパ諸国の間では海上の覇権争いが熾烈を極めていたからです。こうして各国が巨額の予算を投じて新しい形式の軍艦を次々と建造していったため、次第に軍艦と商船は明確に区別されるようになっていきました。

兵士の数か大砲の数か

デアゴスティーニ編集部

16世紀の軍艦を描いた絵。デッキだけでなく、檣楼にまで兵士がひしめき合っています。海戦において使用される戦術は、中世の攻城戦の方式がそのまま船の上に持ち込まれていました。

しかし各国とも初めのうちは、帆船に重い大砲を搭載することには消極的でした。大砲本体に砲弾と火薬、砲手を加えると、その重量は大変大きなものになります。それより銃を持った兵士を乗せた方が、戦闘力を高められるのではないかと考えたためです。実際、15ポンド(約6.8キロ)から20ポンド(約9.1キロ)の砲弾を発射する初期の大砲の重量は、1門当たり2トンにも達しています。また搭載位置が船首楼と船尾楼だけで、大砲が高い位置に装備されるため船が不安定になるという問題もありました。その後大砲が多数搭載されるようになると、その重量増加に対応するために、船は大型化していきます。軍艦として建造されたカラック船の場合、排水量は250トンから1,000トン前後へと4倍にもなりました。
やがて大砲が船首楼と船尾楼だけでなく、舷側の喫水線近くにも装備されるようになると重心が下がり、船の安定性がいくらか改善されます。こうして大砲の搭載数が増え、その威力が増大した結果、海戦戦術も大きく変化しました。軍艦は、敵艦に乗り移らせて白兵戦を行うための兵士を運ぶ船から、大砲を撃って敵艦を撃破する船へと変化したのです。同時に陸上への攻撃力も持つようになった軍艦は、沿岸部の都市や港にとって大きな脅威となりました。港や沿岸都市が軍艦の砲撃を受けないようにするには、海に向けて強力な大砲を設置した砲台を築く以外に方法がなかったため、沿岸都市や港には防御用の砲台が設置されるようになったのです。

イギリス海軍の創設とマリー・ローズ号

デアゴスティーニ編集部

マリー・ローズ号と同時代のイギリスの軍艦。この絵に描かれた船は、巨大な船首楼と船尾楼を持っていますが、引き揚げられた残骸などから、実際にはもっと低かったと考えられています。

後に一大海軍国として世界の海を席巻することになるイギリスは、意外にも中世末期までは、ほとんど海外に目を向けていませんでした。しかし、海上覇権の重要性をいち早く認識したのもまた、イギリスでした。
16世紀初め、イギリス国王ヘンリー8世(1491〜1547)は大砲を搭載した大型軍艦を何隻も建造し、後のイギリス海軍の基盤を築きます。ヘンリー8世時代最初の軍艦は、1505年に建造されたマリー・ローズ号でした。王の妹の名を付けられ、200人の乗組員の他に185人の兵士と砲手30人を乗せたこの船は、フランスとの戦いで数々の武勲を挙げ、1536年にはヘンリー8世の命により、大砲91門と小型砲多数を搭載できるように改装されています。
このマリー・ローズ号は、舷側に砲門を設けて大砲を装備した最初の船でした。一番下層の大砲を、喫水線からわずか41センチの高さに搭載することで重心が低くなり、船の安定性は格段に向上しています。しかし大砲を低い位置に搭載することは、同時に海水が浸入しやすくすることでもあり、これが仇となってこの船は最期を迎えています。1545年、フランス艦隊に対抗するためにイギリス艦隊を率いて航行中、船体がわずかに傾いたときに左舷の砲門から浸水したマリー・ローズ号は、ヘンリー8世の目の前で沈没してしまったのです。直ちに艦隊の他の船が救助に当たりましたが、乗員のなかで救助されたのは、たった40人でした。
この事故のすべての原因が、喫水線近くに砲門を設けた設計のせいというわけではありませんが、一因となったことは事実です。大砲がしっかりと固定されていなかったので、左舷の大砲が動いたために船体が傾き、左舷側の砲門が水面下になって浸水してしまったのだと考えられています。
またこのときは、本来の乗員に加えて兵士を700人も乗せていたこともバランスを崩して傾いた原因の一つといわれています。1836年に海底からこの船の大砲が引き揚げられ、現在ロンドン塔内の博物館に展示されています。また1982年には船体の残骸が回収され、船体の復元が試みられました。

「浮かぶ砲台」─グレート・ハリー号

デアゴスティーニ編集部

グレート・ハリー号。この船は同時代に建造されたマリー・ローズ号とよく似た形の船でした。この絵では、船首楼がかなり誇張されて描かれています。

ヘンリー8世時代の有名な船としては他に、1514年に建造された「アンリ・グラサデュー号」があります。一般には、グレート・ハリー号という名で知られたこの船の船体は、当時の大型カラック船を参考にして建造されました。建造当初のグレート・ハリー号は純然たる軍艦で、商船として使用することは考慮されていなかったといわれています。その大きさは全長50メートル、幅15メートル、キールの長さは39メートルで、排水量は1,400トンにも達し、当時、他に類を見ない規模の巨大船でした。1933年に船体が引き揚げられたときには、その大きさに学者たちが驚愕しています。
グレート・ハリー号の船首楼の床は、海面から16メートルの高さにあり、太さ2メートル、高さ60メートルのメインマストの重量は90トンもありました。搭載されていた大砲の数は151門に達し、そのなかには敵艦の兵士や艤装を攻撃するための小型砲130門が船首楼と船尾楼に装備されていました。また、重量2トンもある巨大な大砲2門や、250ポンド(約113.4キロ)の砲弾を発射する臼砲も含まれていました。高い船首楼や船尾楼から敵艦へ集中砲火を浴びせることのできるグレート・ハリー号は、巨大砲こそ少ないものの強力な攻撃力を持ち、浮かぶ砲台ともいえる強大な軍艦でした。
しかし、重装備のために重量が増し、4本のマストに合計12枚の帆を張っているものの操船性は悪く、波が強くなると、さらに操船性が悪化しました。この欠点を改善するために、1536年から1540年にかけて大がかりな改装工事を行って船体の高さを低くし、全長を短くしています。
この壮大なグレート・ハリー号は、乗組員400人、兵士260人の他に大砲の砲手40人を乗せることができましたが、実戦でその力を発揮することはありませんでした。フランスの侵略に備えるため、沿岸を巡回する必要のあった当時のイギリス海軍は、大型戦艦よりも高速の出せる小型艦を必要としていたためです。
こうして実戦に使われることのなかったグレート・ハリー号ですが、イギリス南部のワイト島で起きた反乱事件に遭遇するなど波乱の生涯を送っています。1547年にエドワード6世(1537〜1553)が即位するとそれを記念して「エドワード号」と改名され、ワイト島の対岸にあるハンブル川の河口を母港とするようになりますが、エドワード6世が死んだ1552年に、落雷による火災で焼失してしまいました。
結果的にグレート・ハリー号は軍艦として実戦では役に立ちませんでしたが、艤装に関して得られた経験は、次世代の船の設計に取り入れられています。この船の存在によって、それ以降のイギリスの造船技術が大きく向上したのです。

ガレオン船の誕生

デアゴスティーニ編集部

16世紀後半のスペインのガレオン船。特徴的な船尾形状と、ミズンマスト後方にスペインでは珍しい4本目のマストが設置されていることが見て取れます。

16世紀、イギリスがヘンリー8世の下で大型軍艦の建造を始めたころ、スペインはすでに多数の軍艦を保有して勢力を拡大していました。1571年にギリシャ南方で起きたレパントの海戦ではガレー船が、まさに独壇場ともいえるほどの活躍を見せましたが、その一方で大西洋を横断するアメリカ大陸への航海ではカラック船が活躍し、大洋航海の主役の座をガレー船から奪っていきました。
16世紀の間スペインは、アメリカ大陸の植民地開拓に力を注ぎました。しかし大洋を横断して人や物資を運ぶには、カラヴェル船やカラック船は不向きなことが明らかとなり、各段に性能が向上した新しい形式の船として、ガレオン船が考案されます。こうしてガレオン船が登場し大洋航海術が成熟した結果、各国の軍艦の活動海域が広まり、世界の海で絶え間なく海戦が行われるようになったのです。
ガレオン船はそれまでのさまざまな船の要素を取り入れて生まれた船で、その起源はスペインなのかどうかはっきりとしません。実際に16世紀中ごろには、イギリスやイタリアのベネチアでも建造されています。しかしガレオン船を大きく発展させたのはスペインだったといえるでしょう。とりわけ、優秀な船乗りで軍人でもあったアルバロ・デ・バザンが建造させた船は大西洋横断航海の主役となっただけでなく、それ以降にヨーロッパで建造された軍艦の原形にもなっています。
スペインのガレオン船は、船首が長く伸びた細長い船体に、カラック船より小さな船首楼と船尾楼を設置していました。船体の最後部は、バイオリンのような輪郭を形成しています。この船尾構造によって舵に水が効率よく当たるようになり、操船性が大きく向上しました。
ガレオン船はカラック船やガレー船と比べると非常に巨大な船で、排水量1,200トンに達するものもありました。そのため当時のスペインのガレオン船は、アメリカ大陸への出発港であった南部のグアダルキビール河口で航行しやすいように船体の幅を広くし、喫水を浅くしています。艤装はカラック船とほぼ同じで、フォアマストとメインマストに方形帆を張り、ミズンマストにラティンセールを、バウスプリットにスプリットスルを張るというものでした。
アメリカ大陸への航路が賑わうようになると、銀運搬船と大型軍艦が考案されます。この2種類の船の誕生には、軍人のペドロ・メネンデス・デ・アビレスが提唱した船団の編成方法が密接にかかわっていました。彼は植民地からスペインに財宝を運ぶ運搬船を、海賊や私掠船から守るため、運搬船に船団を組ませてガレオン船護衛を付け、海軍の提督に指揮をさせたのです。護衛の船はそれぞれ、12門の大砲と24門の小型砲を装備していました。
1574年のアビレスの死後、スペインでは次第にガレオン船が建造されなくなり、それに伴い船団を編成する船の質も低下していきます。船の新規建造が途絶えた結果、船団は老朽化した船や、速度のまちまちな船など、雑多な寄せ集めとなりました。こうしてスペインの海上覇権が傾きつつあったころ、イギリスをはじめとする北ヨーロッパでは、より完成度の高い強力な軍艦が発達していたのです。

※この記事は、週刊『セーリング・シップ』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2013/04/24


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