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青梅線(前編) 立川〜青梅

【第13回】青梅線(前編) 立川〜青梅


東京西郊の拠点のひとつ、立川から多摩川沿いに奥多摩まで37.2kmを結ぶ青梅線。当初は木材や石灰石の輸送のための産業鉄道として開業したが、近年、青梅までの区間は変貌を遂げ、マンションやショッピングセンターが建つ住宅地が広がっている。しかし、当時の面影は今も見ることができる。

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未来都市に変貌した立川 モノレールの下から出発

デアゴスティーニ編集部

青梅線ホームの上を、ゆっくり多摩モノレールが跨いでいく。まるで子供の頃に見た未来の想像図のようだ。

新宿から中央線の快速電車に揺られること約30分。距離にして27.2km西に位置する立川は、都心に通う人々だけでなく、青梅線、南武線との乗換え駅で、各方面の流れが交錯する東京西部・多摩地方の拠点である。かつては歩道も狭く歩きづらかった駅前バスターミナルも、平成12(2000)年の多摩モノレール全通と前後して再開発事業が行なわれ、見違えるほど近代的になった。平成19(2007)年には、駅構内のいわゆる「エキナカ」にも新たなショッピングタウンが開業。人々の動線として、着実に変化を遂げている。
その立川駅を起点に、ここから北西に位置する青梅を目指す旅が始まる。今度の列車は中央線からの直通列車、乗り場は八王子方面と同じ6番線からだ。ホームから見ると、八王子、青梅方面に伸びるレールは3方向に分岐。右側が青梅方向、真ん中を走るのは中央線。左側には青梅とは反対方向に緩やかな斜面を描き、逸れていくレールが敷かれている。
6番線から発車した電車は、青梅方向とは逆の「一番左手」の坂道を登り始めた。まるで、滑走路から離陸した飛行機が旋廻するかのように緩やかな曲線を切って上がる感覚は、軽やかであるものの、やや頼りない動きをしながらガーダー橋をゴトゴトと渡る。その橋の下には真ん中を走っていた中央線が、八王子方向に交差する。「こちら」もすでに右側の青梅方向に進路を向けている。どうやらお互いに「正しい方向」に向かい出したようだ。住宅の軒下をすり抜けるように走っていく線路は単線だが、間もなく右方向からやってきた複線の線路に合流、西立川駅に到着する。合流したのはさきほど立川駅ホームから見た「右側」の線路、青梅線の本流である。

産業鉄道として開業 紆余曲折の路線建設

デアゴスティーニ編集部

かつての分岐駅、武蔵上ノ原駅があった場所には、60年以上経過した現在もホーム跡らしき盛土が残されていた。

今来た経路、つまり中央線からの直通列車が辿ってきたのは、俗に「短絡線」と呼ばれるルートである。この変則的なルートの背景には、かつて、立川〜西立川間に歴史的な経緯から生まれた「2つの経路」が存在する。
これから向かう青梅は、江戸時代の五街道の1つである甲州街道の脇往還として機能した青梅街道の宿場町であり、織物や石材などを取り扱う物資の集積地としても栄えていた。江戸との交流も盛んであったことから、鉄道建設計画は早い段階でも持ち上がり、青梅線の前身に当たる青梅鉄道が明治27(1894)年に立川〜青梅間を開業し、大正12(1923)年に電車運転を開始。同鉄道は、明治22(1889)年に開業した甲武鉄道(現・中央本線)に乗り入れることを前提に建設、開業当初から青梅と東京市(現・23特別区)と結び、現在のような中央線との一体輸送が考慮されていた。
一方の短絡線は、ライバル会社であった五日市鉄道(現・五日市線)の名残である。
大正14(1925)年に拝島〜武蔵五日市間を開通させていた同鉄道は、沿線で採掘された石灰石や砂利を川崎など京浜工業地帯へ輸送するべく、関係の深かった南武鉄道(現・南武線)との接続を前提に、昭和5(1930)年に青梅電気鉄道(前年に青梅鉄道より改称)と並行した別ルートで立川〜拝島間を開業。さらに、翌昭和6(1931)年に南武鉄道が、五日市鉄道の立川寄りに位置した武蔵上ノ原から分岐、青梅電気鉄道との連絡を目的に西立川まで伸びる線路を敷いた。この「立川〜武蔵上ノ原〜西立川間」が、現在の短絡線なのだ。
西立川で電車を降り、短絡線に沿って戻ってみると、武蔵上ノ原駅の遺構らしきものを今でも見ることができる。同駅の廃止は昭和19(1944)年、すでに60年以上経過しているが、ホームの跡らしき盛り土がしっかりと形となって残されているのだ。駅が存在した痕跡は、その名も「上野原踏切」の脇から拝められる。

継ぎはぎだらけの独特な上屋 不思議なプレートと開業年度

デアゴスティーニ編集部

東中神駅の西口駅舎に掲げられていた建物財産標。開業当時からの歴史を今に伝える「語り部」である。

短絡線を足で辿っているうちに、どうやら立川駅近くまで戻ってきてしまった。再スタートである。さて、今度は「青梅線内の折返し」で、2番線からの出発だ。列車はホームをゆっくりと離れると、すぐに「本来」の右方向に向かい始める。
どこかスッキリとした気持ちで、国立昭和記念公園の緑の並木道を横目で見ながら再び西立川を経て東中神に向かう。車窓に続く並木道は、今では平和な象徴のようにも感じられるが、以前はここにまったく逆の存在ともいえる軍事基地が存在していた。戦前は旧・日本陸軍の立川飛行場が置かれ、戦後も昭和52(1977)年までアメリカ軍が占領し立川基地として使用された。きれいに区画整理された現在となっては想像しにくい、殺伐とした場所だったのである。
次の駅、東中神も日本が戦争に向かっていた動乱の時代である昭和17(1942)年7月に開業。今でこそゆったりとした、どこか素朴な駅も、元は軍関係者の利便のために増設されたものなのだ。歴史を感じさせるホームの上屋は継ぎはぎだらけ、まるで成長を繰り返した樹木の年輪のようにも見える。
立川寄りの上屋や西口の駅舎は年月を経た木造にもかかわらず、青梅寄りはがっしりとした鉄骨造りで、平成19(2007)年3月に稼動したばかりのエレベータまで備え付けられている。対照的な古い木造部分はいつ頃建てられたものなのか……そんなことを考えながらしげしげと上屋を眺めていると、1枚のプレートが目に入った。そこには「建物財産標 昭5年7月30日」と書いてある。東中神駅開業の12年も前の日付に、「?」マークが3つ4つ頭の中を駆け巡る。が、冷静に考えれば、この年号は五日市鉄道拝島〜立川間の開通年だ。駅員に尋ねるも、後日資料を漁ってみるも、詳細は不明。しかし、おそらく平行路線として役目を終えつつあった旧・五日市鉄道のいずれかの駅から、戦争に向けて重要度の増しつつあった東中神に移築されたものだろう。幹線鉄道の鉄橋を架け替え、地方ローカル線に移築した例は、日本各地で枚挙にいとまがない。より軽く組立てが簡単な木造建築の駅舎が、戦争の動乱期に移築されても、不思議なことではない。

地図上に描かれた曲線を辿り 「あの頃」の時代を垣間見る

デアゴスティーニ編集部

立川基地の北西端跡地に残る転轍機と古レールのモニュメント。ここに線路があったことを示す「証」である。

東中神駅の改札を抜け、北西の方向へ足を向ける。この地域には軍事基地時代に、隣の中神から分岐する貨物用の引込線が延びていたのだ。昭和記念公園の西側に位置し、再開発の進んだエリアだが、地図上には、住宅地には似つかわしくない曲線道路が書き込まれている。何か手掛かりになるものがあるのでは、そんな期待を抱きつつ住宅街の中を歩いてみる。
東中神の駅から約5分、その名も「中神引込線通り」なる標識の道が現れた。道は地図の通りの曲線だ。どうやら、再開発の際に線路敷きをそのまま道路に転換したようだ。まじまじと道路標識を眺めていると、おばあさんが不思議そうに話しかけてきた。もしかすると以前の姿を知っているかもしれない。こちらの事情を説明し「引込線が走っていたのはこの道ですか?」と尋ねてみた。すると「あら、そうよ」とおばあさん。話によると、元号が昭和から平成に変わる直前まで、線路が残っていたという。基地返還から10年以上はそのまま放置され、地域開発には若干の年月を要したようだ。言われてみれば、駅周辺のいかにも昭和40(1965)年前後に建ったと思われる公団住宅に比べ、中神引込線通り沿いには新しい一戸建て住宅が多い。
さらに歩くこと数分。先ほどの地点から500〜600mほどの距離だろうか、基地時代の「北西端」辺りには、レールや転轍機の操作テコを再現したモニュメントがしっかりと置かれていた。米軍占領時代の航空写真とともに、引込線のあらましが記載された石碑もあり、レールが走っていたであろう形状もそのままに確認することができる。左に伸びる「道路」に少しだけ「あの頃」を見たような気がした。

日本の中の小さなアメリカ 特殊任務を行なう引込み線

デアゴスティーニ編集部

通勤列車ばかりの青梅線にあって、極めて目立つ存在の特急型電車E257系。平日朝上り1本、夕方下り2本のみ「青梅ライナー」として入線してくる。拝島駅の立川寄りには留置線が広がり、観光列車の「四季彩」も待機している。

東中神に戻り、再び青梅線の旅を続ける。
ショッピングセンターが駅前に広がり、家族連れの利用客が多い昭島を過ぎると、沿線には、IHI(旧・石川島播磨重工業)や昭和飛行機工業など、灰色に塗られた三角屋根の建物が並んでおり、巨大な航空産業関連の工場施設が目立ちはじめる。それまで続いていたマンションや商店が並ぶ光景とは一線を画した車窓風景となる。
八高線のガードを潜ると、広大な構内を持つ拝島に到着。以前は狭く古めかしい跨線橋があったこの駅も、平成19(2007)年8月に新しい橋上駅舎が完成。側面には大柄なステンドグラスがはめ込まれ、通路には明るい陽射しが入り込んでいる。拝島は、五日市線、八高線、西武拝島線と交わる交点であるほか、駅の前後に留置線があり、中には青梅〜奥多摩間で運転される観光列車「四季彩」も休んでいる。
また、駅の片隅からは貨物用の引込線も分岐している。これも、中神と同様にアメリカ軍関連の施設だが、こちらはいまだに現役、広大な敷地を持つ横田基地に出入りしているのだ。多方面から通勤電車が多数出入りする駅構内とは、まったく性格の異なる枝線を近くで見てみたいと思い、北口から駅構外に出てみることにした。
階段を降りて外に出ると、ロータリーの反対側の不自然な位置に小さな踏切がある。これが件の引込線である。
かつて青梅線は、石灰石や砂利の輸送で数多くの貨物列車が、ガタゴトと独特な音を奏で走り抜けていたが、平成10(1998)年以降は、この引込線を走るジェット燃料の輸送列車が、唯一の存在となった。平日には鶴見線安善駅に隣接するアメリカ軍鶴見貯油施設から、南武線、そして立川の短絡線を経由して1日2往復走っている。黒光りするタンク車が連なって特殊任務に就き、東京の中にある小さな外国に出入りするのは、ここでは当たり前の光景だ。もちろん、そこにのどかな雰囲気を感じることはできない。      
「WARNING!」と赤字で書かれた立て札が建つうえ、その先には鉄条網で厳重に守られたゲートで仕切られている。ごく当たり前の住宅地の中を歩いているだけなのに、進んではいけない緊迫感が存在している。

山岳地帯の入り口に向かって 住宅街の中を一直線に進む

デアゴスティーニ編集部

青梅線の線路は都内とは思えないほど意外に直線区間が多い。福生駅ホーム先端から青梅方向を眺めると、隣の駅の羽村。さらに、2つ先の小作付近まで望むことができた。平坦な武蔵野台地を一直線に電車が駆けていく。

拝島を出発すると、沿線の団地やマンションは高さが低くなり、一方で一戸建ての住宅が増えてきた。立川を出発した時点では、都心とは逆方向に向かう流れであるにもかかわらず、高校生や工場従事者らしき人々で満員だった車内も、空席が目立つくらいにまで空いてきている。
だいぶ身軽になった電車は、ひたすら真っ直ぐに伸びた線路をひた走る。次の駅、福生で下車しホーム先端まで歩き、さきほどの電車が隣の羽村駅に向かう姿を見送る。しばらくそのままで眺めていると、2つの先の小作付近まで一直線に伸びた線路の上を、豆粒みたいに小さくなってしまった電車が行くのが見える。福生〜小作間の駅間距離は4.8km、この距離をスパッと見通せるのだ。もともと青梅線沿線は、開通当時はほとんどが田園地帯だった。加えて、平坦な地形が広がっている。真っ直ぐ切り裂くように敷かれた線路は、そんな青梅線のプロフィールの一端でもあるのだ。
また、福生から河辺にかけては、貨物線が数本分岐し、昭和30年代まで多摩川の砂利採掘が行なわれていた。特に福生には、小作付近の河原にある東京都直営の大規模な採石場があり、ED16などの古典電気機関車が10〜20両の無蓋車を牽いていた。
橋上駅舎に上がり、スーパーマーケットとは反対側、多摩川に近い方の南口から外に出る。駅から100mほど離れた場所、今では線路脇にある駐輪場の地点から、鉄道線路特有の緩やかなカーブを描く道路が伸びている。アスファルトに固められてはいるが、ここが砂利運搬線の跡だろう。駐輪場の管理をしているおじさんに、それを尋ねてみた。
「よく知ってるねぇ。子どもの頃はさぁ、貨車につかまって、よく怒られたもんだよ」
昔から福生に住んでいるというおじさんは、そういって、笑いながら教えてくれた。しかし、つかまって走れるとは、なんとゆっくりした速度で走っていたのであろう。「怒られた」とはいうが、おじさんの笑顔からは、子供時代の楽しかった良き思い出が感じられた。もしかすると、時間の流れも現代よりゆっくりとしていたのかもしれない。
東京西部・多摩地方の拠点として進化を続ける立川から、途切れることなく続いてきた住宅地も、ツインタワーのように聳えるマンションの間に割り込むようにホームのある東青梅で終わる。そこから先は青梅線も単線となる。対向列車との行違いのため、しばしの停車である。やってきたのは201系だ。大半が軽量ステンレス製のE233系電車に置き換わり、201系のオレンジバーミリオンの鋼製車体は逆に新鮮だ。しかし、登場時こそ、軽快な最先端技術の省エネ電車といわれた車両も、四半世紀を経てだいぶ老朽化が進んだようだ。
さて、産業鉄道時代の名残を辿ってきた旅も、残された距離はあとわずか。上下線の線路がまとまり、ラストスパートを開始する。単線になってからは、急に山並みが近づいたようで、細い切通しに入る。しかし、そのような区間もそれほど長い距離ではなく、ほどなく左右に留置線を分け、電車は青梅のホームに滑り込んだ。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2014/01/07


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