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肥薩線 人吉~吉松

【第2回】肥薩線 人吉~吉松


肥薩線の人吉〜吉松は、矢岳峠を越える日本でも有数の山岳路線だ。ループ線やスイッチバックがあり、肥薩線のハイライト区間といえる。平成16(2004)年3月より新たに投入された観光列車「いさぶろう」に乗車し、山越えを楽しんだ。

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人吉駅から急勾配のループ線区間へ

デアゴスティーニ編集部

スイッチバックの大畑に入る「いさぶろう」。立ちはだかる山越えの苦難に明治の人々は当時の技術の粋を集めて取り組んだ。その結果、大畑にスイッチバックと日本で最初のループ線が導入された。

人吉駅で平成16(2004)年3月より新たに投入された「いさぶろう」に乗り込む。
木材を各所に使用した室内は、新車(アコモ改造だが)特有のケミカル臭はなく、新品の家具のような匂いが漂っていた。
人吉を出発し市街地を抜けると、列車は大きく右にカーブを切り、球磨川第三橋梁を渡る。八代を出てから約52kmに渡って寄り添ってきた球磨川を「くま川鉄道」に譲るようにして別れ、列車は南に進路をとる。線路は次第に勾配が急になり、木々の緑が車窓を流れる。「いさぶろう」は、肥薩線の乗客を奪った九州自動車道とわずかに並走。この付近の勾配はすでに25‰と急である。
人吉から5つ目のトンネルが横平トンネルで、ここからが大畑ループの始まりだ。トンネルの遥か頭上をループ線の上段が通っていることになる。そんな位置関係をイメージしていると、列車は横平トンネルを抜けて大畑駅に到着した。

肥薩線と大畑駅の切っても切れない縁

デアゴスティーニ編集部

肥薩線開業当時の駅舎が今も使われている大畑駅。山線区間では矢岳、真幸の駅舎も昔のままだ

肥薩線を語るうえで、大畑の存在を忘れてはならない。
肥薩線建設の目的とされた「九州縦貫線」のルートが、水俣、川内などの海岸線(後の鹿児島本線)を通らずに、現在の肥薩線ルート(「山手線案」と呼ばれた)に決定したが、待ち受けていたのは、この矢岳峠越えの勾配との闘いだった。
現在なら1万mにも及ぶ長大なトンネルを掘削することにより、難なく峠を克服してしまうのだろうが、明治時代には建設機材などほとんどなく、人力によるトンネル掘削は困難を極めた。そこで、標高537mの矢岳まで登り詰めた後、全長2096mの矢岳第一トンネルを掘って峠を越えるルートが採用された。
しかしその結果、人吉と矢岳の高低差が約430mにもなり、25〜30.3‰の急勾配が連続することとなった。当時列車を牽引していた蒸気機関車にとって、急勾配区間を連続して運転することは至難の業だった。そこで、山間のわずかな平坦地にスイッチバック駅を設け、機関車が小休止するための駅とした。それが大畑駅なのである。
列車が大畑に停車している間、蒸気機関車は火床の整理をして、水を補給。そして、十分に蒸気圧を上げ、矢岳までのさらなる勾配区間に備えるのであった。
そんな経緯で設置された大畑駅周辺には、今でも人家は少なく、かつて蒸気機関車に水を補給した給水塔の土台部分が構内に静かに佇んでいる。またホームには噴水のような形の水盤が残っている。湧き水が溢れる洗面台では、長旅の乗客たちが、機関車の煙で煤けた顔や手を洗ったことだろう。
そして何といっても、この大畑駅を有名にしたのは、日本で初めて採用されたループ線だろう。ループ線の途中にスイッチバックを組み込んだ線路設計は、日本では、唯一ここだけなのである。

ループ線を上りサミットの矢岳へ

デアゴスティーニ編集部

ノスタルジックな書体の矢岳駅の駅名板。木造駅舎に良く似合う。矢岳駅付近は民家も少なく、静かな佇まいである。

列車は大畑で小休止した後、来た向きと逆に発車。クロッシングを渡るとゆっくり停車した。運転士が車内を通りエンド交換。再び向きを変えると直径600mの巨大な弧を描くループ線の上段部に向けて25‰を力強く上る。サミットである矢岳までの標高差は、まだ242mある。
「まもなく大畑駅が見えます」の車内放送が流れ、列車は勾配の途中でサービス停車。車窓左手の遠方に給水塔の土台とスイッチバック部分の線路が見える。
こんな勾配の途中で停車し、軽々と再起動できるとはさすがディーゼル動車である。まだD51が補機を従えて峠を越えた時代には、勾配の途中で列車を止めたら最後。再び発車することなど、到底不可能だったであろう。
横平トンネルの上を通過し、勾配は30.3‰に達する。これも難工事だったと思われる約30mの大築堤を越える頃、遠くの山々が霞んで見える。かなり高度が上がったようだ。杉林の間を進み、短いトンネルをいくつか出ると、狭い耕地の広がるわずかな平地に抜け出た。サミットの矢岳である。
矢岳駅には「人吉市SL展示館」があり、肥薩線の「さよならD51」を牽引したD51 170が今にも動き出しそうなほど美しい姿で保存されている。矢岳駅前に住む、旧国鉄熊本機関区OBの得田徹さんによってメンテナンスされているおかげだ。丁寧に油が注され、磨かれた車体には、まるで魂が宿っているようにさえ感じる程である。「いさぶろう」は矢岳駅でしばらく停車するので、乗客たちはこの雄姿にゆっくりと触れることができる。
肥薩線が全線開業した明治42(1909)年に建てられた矢岳の駅舎も風格漂う。かつては16名の駅員が交代で勤務したという。矢岳駅一帯はまるで時代を遡ったような雰囲気を醸し出している。駅の西にある旧駅長官舎は文化財登録されているという。

矢岳第一トンネルで歴史の重みを感じる

デアゴスティーニ編集部

難工事だった矢岳第一トンネルの吉松側出口に掲げられた、後藤新平の筆による石額を「しんぺい」の車内から見る。石額には「引重致遠(重い物を引いて遠くへ至ることが出来る)」と刻まれている。

矢岳を出ると間もなく「いさぶろう」は、肥薩線最大の難工事だった矢岳第一トンネル(2096m)に吸い込まれる。このトンネル工事だけで3年2カ月が費やされたという。トンネル内は出水が多くあり、排水ポンプを動かすための発電所が設けられたほどだった。また坑内で建設資材運搬の作業をしていた馬が転倒し、排水溝に流され溺れ死ぬ事故もあったと記録されている。
このトンネルが貫通し、肥薩線が全通した明治42(1909)年11月21日に、日本を縦貫する鉄道が晴れて締結したことになる。この時の喜びを表すように、切石で頑丈に組まれたトンネル入り口の上部には、時の逓信大臣・山縣伊三郎の筆による「天険若夷」(まるで敵のように厳しい難所)の石額が掲げられている。もちろん「いさぶろう」のネーミングは彼から取っている。また、吉松側の出口にある「引重致遠」(重きを引いて遠くに到す)の石額は当時の鉄道院総裁・後藤新平の筆となっており、それを眺める上り列車には「しんぺい」の名が付けられている。
「いさぶろう」の列車前方にはカメラが設置され、映像が車内のモニターに流されている。運転台下に新たに増設されたライトは、このカメラ用の補助灯ということだ。その効果あってか、レンガで組まれたトンネル内部の様子がよく見えた。これは思わぬ発見だった。

矢岳越えは日本三大車窓の大パノラマ

デアゴスティーニ編集部

狩勝峠、姨捨と並ぶ日本三大車窓を展望する。屋根まであるワイドな窓が、新「いさぶろう」「しんぺい」の特徴。乗客は雄大な風景に釘付けだ

さて、矢岳第一トンネルを抜けると列車の左側には日本三大車窓の大パノラマが広がる。列車はまたまたサービス停車。珍しく桜島まで見える好天に、運のいい乗客たちが盛んにシャッターを押している。
新生「いさぶろう」「しんぺい」の車両中央には、カウンター式のフリースペースが設けられており、屋根の曲線付近まで張り出した大型の窓から展望が楽しめるように設計されている。以前の「いさぶろう」「しんぺい」は国鉄末期に製造されたキハ31のシートを向かい合わせにして、畳を敷いた簡易的なものだったが、こちらは本格的な設計だ。
雄大な景色を堪能した列車は勾配を下り、スイッチバックして真幸に到着。宮崎県で最初にできた駅がここ真幸だという。石庭を模した庭は、駅の無人化で一時は荒れていたが、現在ではきれいに掃き清められている。控え目に手入れされた木造駅舎も清々しく、気持ち良く旅人を迎えてくれる。
真幸のホーム上にある岩石は、昭和47(1972)年に発生した山津波で、駅が土砂で埋もれてしまった時の「置き土産」だという。
こうして肥薩線の数々のエピソードを辿りながら、「いさぶろう」は明治時代と変わらない山越え区間を終え、終点の吉松を目指す。
吉松では、折しも鹿児島方面からの特急「はやとの風」が到着したばかりで、華やいだ雰囲気だ。駅弁の立ち売りが復活したのも嬉しい。「いさぶろう」は26分後に「しんぺい」となり、再び矢岳峠を目指し旅立った。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2013/02/26


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