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予土線 北宇和島~若井

【第39回】予土線 北宇和島~若井


清流として名高い四万十川に沿って敷かれる予土線。車窓に映し出される四万十川の育む風景を、存分に楽しむことができる路線である。愛称名は「しまんとグリーンライン」。四国南西部の複雑な地形を走ることも、この路線を印象深いものにしている。

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予土線敷設の歴史を辿り 宇和島から旅を始める

デアゴスティーニ編集部

清流・四万十川の生み出した河原の風景。その自然風景の中にしっとりと溶け込むように予土線は走っている。川霧に霞む風景というのもまた、どこか幻想的なものを感じさせてくれる。

予土線は土佐くろしお鉄道の若井を起点に、予讃線の北宇和島まで73.6kmを結ぶ。本来ならば起点駅から乗車するのが話の筋ではあるが、今回は宇和島方から上り列車に乗車した。その昔、予土線の線路は宇和島から建設された、その歴史を辿るためだ。
予土線の上り列車は、朝の江川崎始発の列車を除きすべて宇和島から出発する。宇和島駅を出た列車は予讃線を1.5km走り、隣の北宇和島に到着。ここからが予土線の旅の始まりだ。北宇和島は宇和島郊外の静かな分岐駅。列車は右にカーブして予土線に進入する。

分水嶺を目指す隘路はハイライト区間のひとつ

デアゴスティーニ編集部

北宇和島〜務田間の窓峠越えの区間には半径160mという急カーブが存在する。その地形を物語るように標識が立つ。

予土線に入り北宇和島〜務田の一駅間は、早くも予土線のハイライト区間のひとつである。列車は海辺の街に別れを告げるように、緑生い茂る山間部に突入する。最急勾配30‰、最急曲線半径160mという隘路である。単行で走るキハ32のエンジンは唸りをあげ、車輪は「キーッ、キーッ」とフランジを擦る。
上り坂の先にあるのはサミットの窓峠。何と予土線は、分水嶺の峠へと進んでいたのである。瀬戸内に面した宇和海の海岸から直線距離でわずか8kmのところに分水嶺がある。その高低差は約140m。果たしてこのような特異な路線がほかに存在するだろうか。その複雑な地形に目を見張る区間だ。
実はここも含めた予土線の一部は、民営の「宇和島鉄道」という軌間762mmの軽便鉄道が開業した区間だった。宇和島鉄道は大正3(1914)年10月18日、宇和島〜近永間に線路を開業。その後、大正12(1923)年に吉野(現在の吉野生)まで延伸した。
この宇和島鉄道、愛媛県下では2番目に早い開業である(1番目に開業したのは、四国で最初の伊予鉄道)。南予地方の地形は複雑で、陸上交通の発展が遅れた。中心都市の宇和島は周囲を山地に囲まれており、「陸の孤島」と呼ばれた時代もあったという。そんな事情が、住民に鉄道建設へ対する強い願いを募らせていったのだろう。
列車はなおも勾配を上る。狭軌時代には北宇和島〜務田間に高串と光満の2駅があったというが、すでに面影はない。宇和島鉄道は昭和8(1933)年に政府によって買収され、鉄道省の宇和島線となった。「国営の軽便線」は全国でも珍しい存在だった。宇和島線は8年後の昭和16(1941)年に1067mmに改軌。松山方面からの予讃線の工事が進み、宇和島からも卯之町へと線路が延び、幹線として締結が急がれた。この工事と同時に改軌したのだが、一部を除いて軽便時代の路盤がそのまま使用された。曲線半径160mの急カーブはその名残である。
列車が警笛を軽く鳴らして全長210mの窓峠トンネルに入った。このトンネルは改軌の際に新設されたもので、軽便時代のトンネルは北側にあり、不法投棄のゴミに埋まっているという。やや呆気なく抜けたトンネル出口が窓峠のサミット。エンジンの唸りが止むと、列車は間もなく務田に到着した。

列車は明るい田園地帯へ 軽便の名残がスピードを遮る

デアゴスティーニ編集部

予土線の北宇和島〜吉野生間は、今も軽便鉄道時代の路盤を使用。急曲線の連続が当時の名残を表している。

務田を出ると、予土線は明るい田園地帯に躍り出た。海岸の風景から山間を抜けて、場面チェンジが目まぐるしい。付近を流れる三間川の方向が逆を向いている。三間川の水は四万十川に合流して太平洋へ流れ着く。なんだか狐につままれたような気分である。
大内、深田と列車が走るのは水田の広がる平坦な地形だが、軽便鉄道の名残は色濃く、なおも半径200mの急カーブが連続する。エンジンはそれなりのパワーを持つキハ32でも、なかなかスピードが上がらない。列車の走る路盤が大正時代の設計なのだから無理もないだろう。それにしても、いつまで92年も前の軽便鉄道の遺産を引きずって行くのだろうか。そう思うと「本気でこの鉄道を活用しようとしているのか?……」と疑問が湧いてくる。もっとも先を急がぬ旅人には、のんびりムードが楽しいのだが。
近永、出目といくつかの駅に丹念に停まり、列車は間もなく軽便時代の終点、吉野生に到着。軽便時代は吉野と呼ばれた駅の場所は、ここから少し離れた所にあったという。

県境を越えて愛媛県から高知県へ 伊予と土佐を結ぶ連絡線の夢も……

デアゴスティーニ編集部

乗降が済んでしまうと江川崎駅は再び静寂に包まれる。ただ、エンジンのアイドリングだけが構内に響いていた。

真土を出て、西ケ方の手前で列車は愛媛県から高知県へ入った。車窓には三間川と合流した広見川が寄り添う。走っている列車からも川底が透けて見えるほど水が澄んでいる。四万十川が清流でいられるのも、こんな美しい支流の水を集めるからなのだろう。
やがて列車は江川崎に到着。沿線でも中心的な駅のひとつだが、昼下がりの駅はいたって静かである。駅前には「予土線の灯を消すな」と鉄路存続を訴える看板が佇んでいるのがどこか哀しい。伊予と土佐を結ぶ「予土線」の名称には、愛媛、高知両県を結ぶという使命が込められている。同時に予土線の全通は四国を周回する鉄道の完成を意味していた。
しかし、実際のところ本線から予土線に乗り入れた列車は、高松から土讃線経由で運転された急行「あしずり」の付属編成が、窪川で分割、予土線内を快速運転したにすぎない。四万十川の観光を対象にした列車の運行を除けば、現在までおもに地道なローカル輸送を中心に行なっているのが現状だ。もともと沿線の人口は多くはないので、予土線の経営は厳しさを増す一方だろう。

清流・四万十川と出会う 季節運転のトロッコ列車が人気

デアゴスティーニ編集部

「最後の清流」と呼ばれる四万十川。予土線を訪れるたび、そして四万十川と渡るたびに、川が育む風景全体が、日本人にとって貴重な遺産であることを感じさせられる。

さて、江川崎を出て車窓右手に広がる大河がいよいよ四万十川である。四国カルストの東端、高知・愛媛両県境に位置する不入山の南斜面に発生した最初の一滴が、やがて日本最後の清流と呼ばれる四万十川となる。
四万十川は高知県中西部をウネウネと蛇行しながら流れ、300以上の支流を集めながら大河に成長し、はるか196km先の太平洋を目指すのだ。
これまで予土線とともに下ってきた広見川は江川崎で四万十川に飲み込まれる。予土線は江川崎から若井付近までの区間、四万十川に沿って上流方向へ緩い上り勾配を遡るように走る。江川崎の地形は例えるなら、浅いすり鉢の底に当たるといえるだろう。
車窓に広がる四万十川の水は、周囲の深い緑を水面に映し緑がかった青に染まっている。この川には多種多様な生物が生息していることも特徴のひとつ。また川漁により生計をたてている人々も多いという。ところどころに木造の川舟が係留されているのが車窓からも見える。
さて、この区間に運転されて、人気なのがトロッコ列車「清流しまんと」号と「四万十トロッコ」号である。運転はおもに夏休みの間、と期間が限られており、今回乗車できないのが残念だ。予土線にトロッコ列車が運転を開始したのは国鉄時代の昭和59(1984)年で、現在、全国各地で運転されるトロッコ列車の中で最も古い。トロッコ列車の元祖的な存在なのだ。以前に乗った経験上、これは「絶対に乗っておくべきもの」と断言できる。特に「清流しまんと」号の車両は無蓋貨車トラ45000型を改造したもので、2段リンクばねの原始的な乗り心地も貴重だ。
無蓋貨車にベンチとテーブルを設置し、幌で屋根を張っただけのトロッコ列車。四万十川の風を受けて、川べりを走るのは何とも気持ちがいい。川旅を楽しむカヌーや、川遊びに来た人たちが列車に手を振る。こちらもそれに応えて手を振り返すという、そんな他愛のないことも意外に楽しい。
そんなトロッコ列車に思いを馳せながらも、我が単行のディーゼルカーは半家(はげ)、十川と四万十川上流へと進む。時折、四万十川に架かる欄干のない低い橋が列車からも見える。「沈下橋」である。沈下橋は川が増水した時に水面下に沈んでしまうという面白い橋だ。水に沈んでしまうことで、増水の際に流木などが引っ掛かって橋を流してしまうのを防ぐという。欄干がないものそのためである。四万十川の名物でもある沈下橋は、四万十川の豊かさを表しているようだ。

窪江線として開業した路線に時代のギャップを感じる

デアゴスティーニ編集部

予土線と土佐くろしお鉄道を分ける川奥信号場。この信号場が事実上の分岐点となる。

十川から土佐昭和、土佐大正と時代を逆行するような駅名が続く。ところが列車はそんな駅名に反するように、トンネルと橋梁の連続で蛇行する四万十川を串刺しにするように直線的に敷かれている。列車のスピードもおのずと上がる。
旅人にとっては、もっと四万十川の風景をゆっくり楽しみたいのだが、長いトンネルが多くなり暗闇が大半。わずかにトンネルの間に架けられた橋梁を渡る時に、その青き流れが見られるのみだ。
予土線の江川崎〜窪川間は窪江線の名称で、日本鉄道建設公団により建設が進められた。この窪江線が完成し、予土線として全通にこぎ着けたのは昭和49(1974)年3月1日のこと。なるほど、近代的なわけだ。枕木もほとんどコンクリート製が使用されている。
予土線の全通で、それまでバスにより約3時間で結ばれていた江川崎〜窪川間が、55分に短縮されたという。振り返れば、最初に宇和島鉄道が軽便でレールを敷いてから、予土線の全通までにおよそ70年の時間差が生じている。宇和島から通して乗車してくると、そんな時代のギャップが感じられる。そんなところも予土線の楽しみ方のひとつだと思う。
直線のトンネル内では、列車のスピードは90km/hは出ているのではないだろうか。この区間だけを取ってみると、予土線も都市間交通の役目を担えそうな気がしてくる。高速道路ばかりのさばらせておくわけにはゆかない……のである。北宇和島〜吉野生間を改良してスピードアップを図れば、どれほどの時間短縮が可能だろうかと想像を巡らせた。

家地川を出て風景が一変 信号場で土佐くろしお鉄道と合流

デアゴスティーニ編集部

田園風景の中にポツンと佇む若井駅。この小さな無人駅が予土線の営業上の起点駅なのである

土佐大正を出て、仁井田川橋梁を渡れば、四万十川の流れは車窓左手から変わることはない。やがて家地川ダムが現れる。家地川ダムは、四万十川本流に存在する唯一のダムである。ここで取水された水は、四万十川本流に戻されず、佐賀町の発電所に送水される。四万十川の環境保全のために、流域にある幾つかの市長村ではダム撤去を求めているという。そんなダムを横目に列車は家地川に到着。その先の線路は第一家地川トンネルへと続いている。ところが、この第一家地川トンネルを抜けると風景は一変した。それまで川沿いを走ってきた予土線が、今は突然に山奥を走っているのである。
車窓の変化に驚いていると、間もなく別の線路が寄り添ってきた。車窓右手の眼下、谷間に敷かれた線路がカーブを描いている。列車は予土線と土佐くろしお鉄道中村・宿毛線を分ける川奥信号所を通過中である。中村、宿毛方面へのレールは、この信号場からループ線を経由し、さっき見えた谷底のレールに続いている。
さて、予土線の起点駅はこの先の若井となっている。だがすでに土佐くろしお鉄道が合流し、事実上はこの川奥信号場が分岐点となる。この先の若井までは単線の線路を2社が共有しているという構造だ。
全長2135mの若井トンネルを抜けると、営業上の分岐駅、若井に到着。田んぼの真ん中にポツンと佇む無人駅の付近には再び四万十川が流れている。予土線の地形は最後まで摩訶不思議なのであった。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2016/03/31


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