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山陰本線 城崎温泉~餘部

【第4回】山陰本線 城崎温泉~餘部


開通からおよそ100年の歳月を経て、2010(平成22)年にその役目を終えた初代・餘部鉄橋。かつては東洋一の高さを誇り、山陰本線の象徴でもあったこの鉄橋は、日本海沿岸の特異な地形と気候との激闘の末、着工から2年半の年月を経て明治45(1912)年に完成されたものだ。現在の近代的なコンクリート橋に変わる前に旅した、貴重な記録をお届けしよう。

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京都から山陰本線を城崎温泉へ

デアゴスティーニ編集部

山陰本線は旧型客車が最後まで活躍した路線。赤い鉄橋と青い海に、赤いDD51に牽かれた茶色とブルーの客車が良く似合う。

古くから山陰本線の京都口には、よく整備された梅小路機関区(現・梅小路運転区)の美しい蒸気機関車が、1番ホームに静々とやってきては、京の奥座敷である嵯峨、嵐山といった沿線を誇らしげに走り抜けていた。
風光明媚な保津川沿いを、白煙をたなびかせて走る姿はどこか幻想的ですらあった。今では嵯峨野観光鉄道がそのあとを引き継ぎ、いにしえのロマンを継承している。
雅やかな京都をあとにした列車は、山間を縫うように走り、蒸気機関車の時代、山陰本線と福知山線の合流する一大基地だった福知山に着く。この駅は現在でも当時の面影が色濃く残っている。長大編成を連ねた列車が昼夜を問わず機関車を付け替え、また旅立っていった光景が今でも目に浮かぶほどだ。
この先、山陰本線の起点となる京都駅からなら特急で2時間25分、温泉と志賀直哉の小説「城の崎にて」で有名な城崎温泉までは電化されており、快適に走破できる。
しかし城崎温泉から先は非電化。今まで乗ってきた快適な電車特急とは明らかに違う、2両編成のディーゼルカーが、ガーッという轟音とともにホームにやって来て停車すると、唐突に扉が開いた。
指定席やグリーン車などない車内は、思ったより明るく、昼間の時間帯であるせいか乗客もまばら。4人席を一人で確保するという贅沢ができることが何よりも心地よく、特急の快適さを至福と感じていたことに気まずさを感じる。
ホームの端に設けられた喫煙コーナーで煙草をふかしていた数人の乗客が発車の合図とともに車内に戻り、列車はまた轟音とともに単線の非電化に向かってスタートを切った。

突然目に飛び込んできた絶景の大パノラマ

デアゴスティーニ編集部

餘部鉄橋撮影のベストアングルとして知られるこの場所は、駅ホームから細い山道を十数メートル上がった場所に位置する。鉄橋を行く列車はかわいらしくも美しい。

車体の揺れがかなりひどい。座っていても腰が左右にぐらぐらするのが分かるほどだ。窓に肘をかけて頬杖を突こうとしても揺れが激しくて、どうもうまくいかない。仕方なく腕組みをして窓の外を眺めることにしたが、レンガ作りのトンネルと掘割が続き、車窓風景はあまり面白くない。いっそ眠ってしまおうと瞼を閉じかけた時、進行方向右手がさーっと開けた。そこには青い空と白波が横一直線に連なる日本海が姿を現していた。
その後は、絶壁とレンガ造りのトンネルを繰り返す。鎧という小さな漁港と集落のある駅を出て再びトンネルを抜けた時、眼下にとんでもないパノラマが飛び込んできた。
まるでロープウェイか飛行機にでも乗っているような素晴らしい光景。かつて東洋一の高さと規模を誇り、全国の鉄道施設の中でも随一の美しい姿と車窓風景の雄大さで一躍名を馳せた、餘部鉄橋に差しかかったのだ。

波音だけが聞こえる餘部駅の贅沢な時間

デアゴスティーニ編集部

地元の人にとっては、餘部駅も日常の足だ。何事もなかったかのようにひょいひょいとやってきたおばあちゃんが、いつもの席にちょこんと腰掛けていた。

鉄橋を渡ったたもとに餘部駅がある。列車が数時間に1本しかないことなども忘れて、巨大な鉄橋とは対照的な小さい駅に降り立った。列車は無機質なエキゾーストノートを響かせ、線路の上を滑りながらテールランプを灯しつつ立ち去った。
山の斜面に土を盛った、数十メートルの簡素なホームが鉄橋のすぐ脇に設けられている。打ち寄せる日本海の波音と、ときおり聞こえる「キーキー」という鳥の声以外、乗降者も駅舎もメインの駅名表示も、そして券売機や売店、自販機さえもない餘部駅に佇み、しばし、何もないという贅沢な時間の中に同化する。
この駅から地上に降りるには高低差41.5mの道を下らねばならず、足場の悪い細い道を行き交うしか手がない。
現在もその景観が観光名所になっている餘部鉄橋との邂逅は、開業当時からなんら変わることのない駅へのアプローチから始まった。

壁画が鉄橋建設当時の様子を今に伝える

デアゴスティーニ編集部

餘部駅は昭和34(1959)年4月16日、地元の人たちの熱意と協力により開業。駅の片隅には今も壁画が飾られる。

日本海に注ぐ餘部川が永い年月を経て谷を作った。やがてそこに人が住むようになり、日常の営みを形成するに至る。しかし、この谷に鉄道を通すようになるまでには紆余曲折があった。海に迫った谷状の地形を迂回して、内陸へ大きく迂回する計画もあったが、それには長大なトンネルが必要になることもあり、ここに橋梁を建設することになったのだった。
そして、この地に鉄道がやってきたのは、明治45(1912)年3月1日のことだ。
当時、陸路では資材の輸送が困難だったため、橋脚用鋼材はアメリカから輸入され、海の静かな時期を見計らって、門司から汽船でこの地に運ばれた。鋼材をひとつひとつ手作業で組み立て、冬にはこの地特有の季節風が吹き荒れる難工事の末、2年半の歳月を重ね、トレッスル型の橋脚を11基規則正しく連ねた。こうして当時、東洋一を誇った高さ41.5m、全長310mの巨大鉄橋は完成した。駅が設けられたのは昭和34(1959)年4月16日のこと。駅建設当時の様子を描いた壁画がホームに飾られており、当時の地元の人たちの期待が伝わってくる。

圧倒的な手作りの橋梁の造形美

デアゴスティーニ編集部

駅に通じる登山道の中腹で鉄橋の下をくぐるが、ここからは規則正しくしっかりと組み込まれた鉄骨が間近に見え、手作りの造形美を堪能できる。

山の斜面と鉄橋との結合部分、駅への出入口となる登山道を下りてみる。
S字にカーブを描く駅までのコンコース(?)はすぐに橋梁の真下をくぐる。規則正しく整列した橋脚が間近で観察できる。ひとつひとつ組み込まれた鋼材とボルトの硬さ、工事に従事した人たちの鉄道に対するロマンと情熱と誇りをこめた作業姿が浮かんでくるようだ。しばし、その場に立ち尽くす。
ここからは、海と狭い谷あいに阻まれた土地にお互いの身を寄せ合うようにして立ち並ぶ集落の屋根が眺められ、そのすぐ向こうには青く澄んだ海が穏やかに広がる光景が眩しく映った。
波音と鳥の声しか聞こえない登山道の途中、ふと鉄橋の対岸から岸壁に沿った奥に、小さな船溜りを見つけたので、道を下ってみる。
地上に降りると真下から鉄橋を見上げることができ、改めてその高さと長さ、形状の雄大さから、先人の技術の確かさに思いを馳せる。首が痛くなるまで眺めていても飽きないこの鉄橋は、芸術作品といっても過言ではない。

目に焼き付けておきたい近代の鉄道遺産

デアゴスティーニ編集部

餘部の冬は風が強く、雪が多く積もることはあまりないそうだが、海からの風に煽られた山肌には、早春の時期を迎えてもなお、残雪が張り付いていた。

登山道から見えた船溜まりはすぐに辿ることができた。ここからは、餘部駅から鉄橋全体と鎧方にあるトンネルと落石除けまでが見渡せる。ロケーションはやはり、「すこぶるつき」である。
堤防の上に目をやると、そこには初老の漁師がじっと海を見ながら立っている。身のこなしも軽やかに堤防から下り、船溜まりの小さな船から網を取り出し、いかつい指先を器用に使って細い網の糸を繕いはじめた。
「このごろの網はすぐ切れよる」
鉄橋の上では列車が唸りを上げて走り抜けていく。漁師は規則正しく網を繕い続けている。ここに全国に知られた鉄橋があることは、この土地に生きる人には当たり前のことであり、列車が通ることも、それを見に来る人も、ただの日常に過ぎないようだ。
完成以来92年間、いつしか山陰の観光名所として定着した餘部鉄橋は、数年後、近代的なコンクリート橋として生まれ変わる予定である。その時、山陰本線の象徴とまでいわれたこの鉄橋は、まだ観光名所としてこの地に存在しているのだろうか。
再び鉄橋の下から見上げ、登山道コンコースを息を切らせながら登り、西に向かう列車を待った。息も切れ切れの旅人を横目に、ひょいひょいと登山道を登ってきた老婆が疲れた様子も見せず、ちょこんと椅子に腰掛け、静かに列車を待つ。その姿は、鉄橋は便利な移動手段である鉄道のただの施設なんよ、と語っているようにも見える。
ロマンチックな旅情の中にどっぷりと浸かりながら、近代の貴重な鉄道遺産ともいえるこの光景を、忘れないようしっかりと目に焼き付けておきたいと思うのだった。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2013/04/16


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