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身延線 富士〜甲府

【第41回】身延線 富士〜甲府


富士の国と武田信玄の郷を結ぶ富士川に沿った静かなローカル線、身延線。川の流れを辿るように南北に走る路線は、駿河と甲斐国境付近で様相が二分される。それは異なる文化圏を結んでいるからだけではなく、そこを境にした2つの区間の成り立ちに、微妙な違いがあるからだった。

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日本人がこよなく愛する名峰・富士山が車窓を彩る旅

デアゴスティーニ編集部

日本人がこよなく愛する霊峰・富士の優美な山容を背景に、特急「(ワイドビュー)ふじかわ」が快走する。

東京から東海道本線を下ること140kmあまり、日本一の名峰の名を採る駅「富士」から身延線は始まる。駅構内の北端、1、2番線が身延線用のホーム。1番線に停まる313系の2両編成へと足を運ぶ。区間運転の多い身延線だが、この電車、3629Mは終点の甲府まで直通する各駅停車だ。
10時50分、発車のチャイムが鳴り終わると、VVVFインバータ制御車特有の軽やかなサウンドとともに、3629Mは富士駅をあとにした。
東海道本線の北脇を並行して静岡方面にしばらく進むと、身延線の線路は右に緩いカーブを描いて進路を北向きに変える。身延線の旅の魅力は、なんといっても富士山を間近に、そして永い間眺められること。早速、前方左手にその秀麗な山容が姿を現した。
3駅目の入山瀬の手前で東名高速を、そして駅の先では建設中の第2東名高速をくぐって列車は進む。富士山はいつしか右手の車窓に見え隠れするようになっていた。

富士宮を過ぎると上り勾配の山岳線の様相があらわに

デアゴスティーニ編集部

列車運行上の山場は甲駿国境の峠越え。警笛を山々に響かせながら、列車は次々とカーブをきって勾配を上っていく。

富士駅を出てから20分弱で、沿線の主要駅の1つ、富士宮に到着。さすが駿河一ノ宮・浅間大社の門前町だけあって、駅の規模も大きく、駅前も賑やかだ。ここで列車はしばらくの停車となった。本来はすぐの発車なのだが、遅れている特急「(ワイドビュー)ふじかわ5号」をここで待避するためだ。
「(ワイドビュー)ふじかわ」の通過を見送り、たくさんの乗客の乗り降りが終わると、やや遅れて3629Mは再び走り始めた。駅を出てすぐに何本もの側線が広がっているのが見える。かつて各地から頻繁に富士宮にやって来ていた団体列車のための留置線のようだ。
複線だった線路は、富士宮から単線に変わる。そして徐々に上り勾配を上って行く。富士宮を境に、急に山岳線の様相を呈してくる。

悠々と流れる富士川を見ながら 次々と通過するトンネル群

デアゴスティーニ編集部

寄畑トンネル隣の島尻トンネルはJR基格より小さなトンネルが並ぶ身延線の中でも最小。パンタも折り畳まれんばかり。

次の西富士宮から沼久保に至る間に、列車は大きく左カーブを描く。それにつれて車窓の富士山は、右手から左手へとわずかな時間で移動し、どちら側に座っている乗客にもその優美な姿を披露してくれる。しかしそれを最後に、日本人が愛する秀峰は身延線の車窓から消えてしまう。代わって今度は、悠々と流れる富士川が左手の車窓に現れてくる。しばらく身延線は、その川筋を遡りながら進んでいく。列車は川の蛇行に合わせるように、右に左に頭を振る。山間を行くため、芝川を出た辺りからトンネルが急に増え出した。
よく見ると、次々とくぐって行くトンネルの開口部が、他線区よりもなんとなく小さい気がする。それもそのはずで、身延線はJR東海管内で、最小の車両限界を持つ路線だったのだ。それは、身延線の成り立ちに由来していた。

経営難にあえぎながらの全通も「借り上げ路線」経由「国有化」

デアゴスティーニ編集部

富士駅を目指す特急「(ワイドビュー)ふじかわ」10号の車内。沼久保駅を過ぎた辺りで突如、夕日を浴びた富士が車窓を埋めた。

身延線の前身は、富士身延鉄道という民営鉄道だった。もともと東海道本線鈴川(現・吉原)〜大宮(現・富士宮)間には、明治22(1889)年に開業した富士鉄道(開業時・富士馬車鉄道)という馬車鉄道があった。明治42(1909)年には、富士鉄道は富士〜長沢(現・入山瀬)間に支線を開業した。明治45(1912)年、これらの路線を買収し、富士〜大宮間を蒸気鉄道に転換(他の区間は廃止)したのが、富士身延鉄道だった。
富士身延鉄道はすぐに路線を延伸すべく、大宮〜甲府間の敷設工事に取りかかった。長大な路線になるため、大宮〜身延間を第一期区間、身延〜甲府間を第二期区間として分け、まずは身延までの開通を目指した。ところがこの路線は、現在でも地滑りなどを引き起こす、地盤の不安定な地域を通るように計画されたという不運と、不況による資材の高騰に見舞われ、建設は難航した。それでも徐々に路線は延ばされ、計画よりも3年遅れの大正9(1920)年5月18日、なんとか身延に至り、第一期区間は完成された。先に見てきた開口部の小さなトンネル群は、この時に造られたものだった。官設の鉄道とは異なる規格で造られ、それが現在でも使用されているというわけだ。
なにはともあれ富士〜身延間を開業した富士身延鉄道だったが、経営は苦しかったようだ。富士〜身延間三等運賃が、東海道本線東京〜富士間二等運賃に相当するほどで、「日本一高い運賃」という不名誉なレッテルも貼られてしまった。このため沿線からは国有化を望む声が上がり、第二期区間の建設については、富士身延鉄道と国との綱引き状態となってしまった。ところが関東大震災の発生により国庫は逼迫し、結局は国有鉄道の規格に従うことを条件に、富士身延鉄道が敷設することとなった。
大正13(1924)年に第二期区間の工事は開始された。また2年後には電化工事も並行して始まり、昭和2(1927)年6月には富士〜身延間で電車の運転を開始した。第二期区間の工事は、習志野の陸軍鉄道聯隊が演習名目で協力したこともあり、順調に進んだ。そして昭和3(1928)年3月30日、ついに富士〜甲府間が全通。同時に全区間電化が完了し、開業から電車が走り始めた。
ところが全線開通したにもかかわらず、経営状態は改善されなかったため、次第に経営陣の中に国有化を唱える者が増えていった。結局、昭和13(1938)年11月、富士身延鉄道は国有鉄道の借り上げ路線となった。それに伴い路線名も「身延線富士甲府間借入線」に変更された。国電が投入されるなどして、ほとんど国有鉄道化していたところ、昭和16(1941)年5月に国に買収され、正式に国有鉄道の身延線となった。

線名の由来の身延駅 なんとも開放的な風景を行く

デアゴスティーニ編集部

昇り始めた朝陽を背に、313系の富士行き各駅停車が潤井川を渡る。静かな川面が、動き出した通勤時間帯の喧騒と好対照をなす。各駅停車ではほかに115系や123型が、特急列車では373系が今日1日この線を頻繁に往復する。

ちょうど全線のど真ん中、路線名の基にもなっている身延駅。3629Mは、特急「(ワイドビュー)ふじかわ」の遅れの影響を受けて8分も停車したあと、後半の旅へと乗り出した。すでに甲駿の国境を越えているため、どこか車窓を流れる風景も、前半とは異なるようだ。だいぶ山間深くへと入り込んできた感がある。この辺りは沿線に温泉が点在する。そんな中でも、身延駅から3駅目に同名の駅を持つ下部温泉は、名将・武田信玄の「隠し湯」として、古くから知られている。
3629Mはくねくねとカーブを切りながら、進んで行く。市ノ瀬、久那土など山間の小駅を過ぎ、やや規模の大きな鰍沢口に到着。駅周辺は開け、人家もかなり増えてきた。次の市川大門駅は、もう甲府盆地の入口。前方に広々とした風景が一気に開けていく。ところでこの駅舎、なぜか中国風の外観をしていて面白い。どうやら近くにある、中国の名碑を集めた「大門碑林公園」に合わせて造られたためらしい。

列車は甲府盆地の中心へ 善光寺駅を過ぎると終点は間近か

デアゴスティーニ編集部

甲府駅の南端のホームにでかでかと「身延線」の文字。乗り場はここから矢印方向にさらに約90m進んだところ。

線路はしばらく、武田信玄の治水工事で知られた笛吹川の南岸を東に進む。甲斐上野を出たところで北に進路を変え、長いトラス橋で笛吹川を北岸へと渡ると、いよいよ甲府盆地の中心となる。国母、甲斐住吉の両駅では、たくさんの高校生たちが乗り込み、甲府の生活圏に入ったことを実感する。
115系や373系が停まる電留線がある南甲府駅を過ぎると、善光寺駅。甲斐善光寺は、上杉謙信との川中島の合戦の際に信濃善光寺の焼失を恐れた武田信玄が、本尊の善光寺如来などを移すために建立したという。
善光寺駅を出て左にカーブを切り始めると、前方に中央本線が見えてくる。さらに進み、両者が並行すると金手だ。この駅は身延線だけの駅、中央本線側にはない。高校生を一人だけ降ろすとすぐに発車。残すは、あと1区間だけだ。
相変わらず、右手に中央本線を見ながらのラストラン。甲府駅で降りる人、中央本線に乗り換える人、3629Mの乗客たちは間もなくそれぞれの方向へと降り去ることだろう。
乗客で賑わう甲府駅が近づいてきた。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2016/05/30


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