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津軽線 蟹田〜三厩

【第42回】津軽線 蟹田〜三厩府


青森から津軽半島東海岸を北上し、津軽半島の最果てを目指して走る、全長55.8kmの津軽線。レールは竜飛岬の手前約20kmの三厩(みんまや)まで通じる。青森〜蟹田(かにた)間は幹線の様相を見せるも、非電化運転区間の蟹田〜三厩間は最果ての旅情誘う路線である。

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非電化のローカル線が本州と北海道を結ぶ大動脈の一部

デアゴスティーニ編集部

静けさに包まれた早朝の大川平に、上り一番列車が入線。通勤・通学の乗客が数名乗り込んでいった。

海の風景が窓いっぱいに広がって、列車は津軽線の主要駅である蟹田に到着した。青森から乗車した701系電車もここ蟹田まで。この先、蟹田から三厩の区間はディーゼルカーに乗り換える。もちろん青森〜三厩間の津軽線全線を通して走る列車もある。しかし、それもわずかに1日1往復のみの運転だ。
青函トンネルが通る津軽海峡線。この名称はトンネル部分の海峡線(中小国〜木古内間)を挟み、津軽線、江差線、函館本線の一部区間を繋ぎ合わせた路線の総称である。
このうち、青森から中小国までは、もともと非電化のローカル線だった津軽線の一部を使用。海峡線の工事と合わせて、津軽線青森〜中小国間は電化・軌道強化され、本州と北海道を結ぶ大動脈の一部となった。
これに対し、これから訪ねようとしている中小国(蟹田)〜三厩間は、非電化のまま取り残されている。津軽線は中小国を境にして、その性格を大きく二分されたのである。

風の町・蟹田から分岐点の新中小国信号場へ

デアゴスティーニ編集部

津軽線と海峡線を分ける、営業上の分界駅である中小国。田園の中に、静かにポツンと佇んでいる。

発車を待つ三厩行きのディーゼルカーに乗り込むと、車内には4人掛けのボックス席が並ぶ。やっぱり列車の旅はこれがいい。最果てへの旅情が、がぜん増してくる。蟹田駅のホームには「蟹田ってのは、風の町だね」と刻まれた看板が建ち、さらに気分を盛り上げてくれる。この言葉は太宰治の小説「津軽」の中の一節。「津軽」は、青森・金木町出身の太宰治が、昭和19(1944)年に自分の故郷である津軽地方を旅して書き上げたものだ。看板に感化されたわけではないが、心なしか風が強まってきたような気がする。
そんな風の町・蟹田をあとに、列車はホームを離れた。車両はディーゼルカーだが、まだ架線の下を走っている。海峡線への分岐駅は、営業上は次の中小国である。しかし実際にはその2.3km先の新中小国信号場が本当の分岐点だ。

我が国最初の森林鉄道に遠く思いを馳せながら

デアゴスティーニ編集部

津軽森林鉄道の動脈となったトンネルは今もその姿をとどめている。

新中小国信号場を通過。右手に新幹線規格の海峡線の高架を眺める。いつしか列車の頭上から架線がなくなっており、ローカル色が一気に深まってくる。枕木は木製、レールの継ぎ目も多く、ジョイントを刻む列車の響きもなんだか懐かしい。
車窓左手には、緑萌える津軽山地がなだらかに横たわっている。山々はヒバの名産地。緑の山々を眺めながら、この地でヒバを運んで活躍した、軌間762mmの小さな森林鉄道の姿を思い浮かべていた。名前は「津軽森林鉄道」。津軽森林鉄道は日本で最初の森林鉄道として明治42(1909)年に青森〜蟹田間が開業。大正〜昭和初期に輸送の最盛期を迎えた。やがて路線網も拡大し、昭和30年代初頭、その総延長は約254.6kmにもおよんだという。森林鉄道の線路は、津軽半島全域に葉脈のように建設されたのである。
今、乗車している津軽線が蟹田まで開業したのは、昭和26(1951)年(三厩までは昭和33年)になってから。つまり、この地では森林鉄道の方が先輩格といえる。
津軽線開業以前、木材はもとより生活物資の輸送や、時には急病人の搬送もこの小さな鉄道が行なったという。森林鉄道は津軽半島の人々にとって、重要な交通手段となっていたのである。
森林鉄道の本線の一部は、蟹田から西に進路を変え山間に分け入っていた。津軽山地を横断し、十三湖畔から金木や西海岸の小泊まで通じていたという。そんな隆盛を極めた津軽森林鉄道も、道路の整備でその使命をトラックに譲り、昭和42(1967)年に全線が廃止された。その線路跡は、今でも津軽線沿線の至るところに残っている。

開け放たれた窓の向こうは樹海の風景 森林浴を楽しむ

デアゴスティーニ編集部

樹海の真っただ中を列車はエンジンを唸らせて小国峠へと上って行く。列車に乗りながらの森林浴のような爽快さ。

津軽線は大平を出ると、分岐した海峡線の高架を車窓右手に望む。海峡線は大平トンネルへと入っていくのが見える。こちら津軽線は小国峠へ向けて14‰の上り勾配に入る。列車は「津軽ヒバ林」の山中をエンジン全開で走る。
車窓はすべて樹海の風景。大きく開けた窓からは、実に爽やかな風が吹き込む。まるで列車に乗りながらにして森林浴でもしている気分だ。津軽線のディーゼルカーは冷房装置を持たないので、こうして窓を開け放ったままで列車の旅を楽しむことができる。エアコンが普及した現代、思えば窓が開く列車自体が、今や貴重な存在になった。普通列車でもトロッコ列車並みの爽快感を味わえるのだから、それだけでも乗る価値が高いといえないだろうか。

車窓から吹き込む津軽海峡の潮風とともに遠く北海道を望む

デアゴスティーニ編集部

津軽浜名を出て終着駅の三厩に着く手前で、津軽線の車窓には津軽海峡の青き海原がいっぱいに広がる。ヒバ林が生い茂る濃緑の樹海から潮風吹く海辺まで、津軽線の風景は変化に富み旅人を魅了する。

やがて全長1010mの左股(品川)トンネルに吸い込まれると、車内にはひんやりとした空気が吹き込んできた。
左股トンネルを抜ければ下り勾配に変わる。列車の走りが一転して軽快になった。樹林帯を抜けると、再び海峡線の高架が寄り添ってきた。津軽二股に到着。併設する海峡線の駅は、JR北海道の津軽今別となっている。複雑な戸籍の駅だ。海峡線の列車とは接続している気配すらない。
田園に佇む大川平、今別と列車は丹念に停車。駅のすぐ傍に高校がある津軽浜名を出てしばらく走ると、車窓に右手に津軽海峡が広がってきた。ついさっきまで樹海の風景を映していた窓から、今度は潮風が吹き込んできた。青い海原の向こうには北海道の渡島半島のシルエットがはっきりと望まれた。山から海へ、変化に富んだ津軽線の旅は、最後にこんな劇的なシーンを残していた。

最果ての終着駅三厩 有人駅の温もりを宿す

デアゴスティーニ編集部

北の果て竜飛岬は間近。駅前から三厩村営バスが連絡する。

海の香りを車内に残して、2両編成のディーゼルカーは、ゆっくりと三厩駅に滑り込んだ。下車しようとデッキに出ると、開いたドアから強い風が吹き込んできた。海から吹きつける風は、ビュンビュンと音をたてて木々を揺らしている。
待合室に逃げ込むように、ほかの乗客に交じってホームから改札へと急ぐ。
「今日は病院かい?」
改札口で、駅員がお年寄に声をかけている。交わされる何気ない津軽訛りの会話が温かい。この三厩駅は駅員が常駐する有人駅なのだ。駅の無人化が進んだ近年では、こうして駅員が常駐することが、ずいぶん珍しいと感じられるようになった。ましてやここは「最果ての終着駅」三厩である。
列車の到着に合わせて、竜飛方面へ接続するのは三厩村営バス。風に吹かれながら駅前で発車を待っている。三厩から竜飛岬までは、バスで約1時間の距離だ。

幻と終わった津軽半島周回列車の計画

デアゴスティーニ編集部

津軽半島「最果ての終着駅」三厩では、駅員が列車を出迎える。駅の無人化が進んだ昨今では貴重な光景である。

大正11(1922)年に公布された「改正鉄道敷設法別表」によれば、「青森県青森ヨリ三厩、小泊ヲ経テ五所川原ニ至ル鉄道」という計画が記されている。当時の計画によれば、レールはここ三厩から津軽半島の北側を回り込み、小泊を経て、すでに開通している津軽鉄道と結ばれる計画であった。津軽鉄道は言わずと知れたストーブ列車で有名な民営鉄道で、昭和5(1930)年に開業している。
しかし津軽半島を周回する夢の鉄道は、現実のものとなることはなかった。せめて、竜飛や小泊を走る列車の姿を想像し、思いを巡らせてみることとしよう。
小さな待合室に、折返しの蟹田行きに乗車する地元の人々が集まってきた。
 「ヨッコラショ……」
腰を上げてお年寄りがホームへと向かう。ホームに続く通路脇の花壇には、色とりどりの花が咲き競う。この花々は地域の方々が植え、手入れしているのだという。鉄道への信頼感と、駅への愛情が感じられた。
やがて蟹田行き普通列車の発車が迫る。すると、今まで切符を販売していた駅員が、今度はホームに急いだ。
「ヨシ!」
時計を睨み車掌に発車の合図を送る。紫煙を上げてディーゼルカーがホームを離れると、駅員氏はその姿が見えなくなるまで列車を見送り続けた。そのピンと伸びた後ろ姿が、最果ての駅の印象をより強く心に刻んでくれた。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2016/07/01


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