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上田交通別所線 上田〜別所温泉

【第44回】上田交通別所線 上田〜別所温泉


信州の鎌倉として知られる風光明媚な塩田平を2両編成の電車が走る。上田から名湯・別所温泉へと至るローカル路線は、廃止されたほかの路線とともに、かつては上田を中心とした生活圏に一大路線ネットワークを形成していた。

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意外な都会的風景から旅はとつとつとはじまる

デアゴスティーニ編集部

一日のはじまり、昇る太陽が沿線に生命を吹き込む。別所温泉駅で折り返し、5時56分発の一番電車となるための回送列車が、静寂をついて姿を現した。今日一日、終電までの間に約30往復が上田交通の線路に足跡を残す。

第三セクター・しなの鉄道が起点の軽井沢駅を除いて唯一、長野新幹線と接続するのが長野県上田市の上田駅。ここが上田交通のスタートとなる。国鉄時代からJRにわたり、永い間、信越本線の改札口を間借りしていたのだが、新幹線開業直後の平成10(1998)年3月29日、上田交通の高架化完成により独自の改札口を持つようになった。
1面1線の行止まり式高架ホームに、シルバーに輝く2両編成のステンレス製電車がちょこんと停まっている。しかしこの電車、ローカル線には似つかわしくない、どこか都会的なデザイン。首都圏の人ならピンとくるであろう、東急電鉄の7200系なのである。ラインカラーこそ異なるものの、コンクリート製の高架駅に停まる元東急車両、車内に入れば並ぶ座席はロングシート。一瞬、ローカル線だということを忘れてしまいそうだ。実は上田交通は東急グループの一員。そのため、東急の中古電車を購入して走らせている、というわけだ。
2灯式のシンプルな信号機が青を示すと、電車は短いホームを離れはじめた。「首都圏的風情」はもうすぐ終わり、次第に高架から下りはじめ、左に大きくカーブを描くと、線内随一の鉄橋、千曲川橋梁を渡る。5連のトラス橋をゴトンゴトンと音を轟かせて渡りきると、列車交換設備のある城下駅に停まる。交換列車はなく、すぐに発車。2連電車はコトコト走り、三好町、赤坂上と無人駅を経て上田原駅に到着。この駅も列車交換ができるのだが、残念ながら交換はなし。ほかの駅となんら変わりなく、電車は再び動き出す。

学生たちの乗り降りでにぎわう「大学前」

デアゴスティーニ編集部

大学前駅のカーブしたホームを上田行き上り電車が離れる。朝夕、長野大学の学生で賑わうこの駅では乗客誘致の新しい試み、「パーク&ライド」が行なわれている。電車利用者は駅前駐車場を無料で利用できる。

上田を出てからずっと住宅街の間を抜けるように走っている。これは昨今、どこでも見られる光景。ローカル線といえども沿線の宅地化はかなり進んでいるようだ。ちょっと、寂しい。
長野大学の最寄駅、その名も「大学前」に近付くと車内が急に騒々しくなった。上田交通は一部の列車を除きワンマン運行、出入りは運転士のいる一番前のドアからしかできない。乗客の大半が大学に通う学生だったようで、みんな車両先頭部に移動しはじめたのだ。
大学前駅で半分以上の乗客を吐き出し、身軽になった電車は、中間地点であり最大の駅、下之郷へと向かう。

廃線の危機に対抗する鉄道会社と民と官

デアゴスティーニ編集部

旅の記念にもなるヒノキ製の木札は、なんと本物のきっぷ。1500円で2日間乗り放題のフリーきっぷなのだ。

この旅ではフリー乗車券「想い出切符」を利用した。安価で便利、それに何よりも楽しいのは、きっぷが細工したヒノキの板できていること。組み紐が取りつけられ、ペンダントのように首から下げることができるのだ。
上田交通ではこのほかにも、硬券の復刻乗車券や各種記念グッズを発売するなど、活発な営業活動を行なっている。またコンサート列車などの運行、地元とのタイアップ・イベント、さらには乗り心地向上のための台車交換などなど、積極的なサービス向上、安全対策も施している。
これらの乗客誘致活動の裏には、決して楽観視できない上田交通の台所事情がある。高度成長期、全国の鉄道のほとんどがそうであったように、モータリゼーションの波を受け、上田交通別所線でも廃止が取り沙汰されたことがある。実際、それはかなり「決定的」だったにもかかわらず、地元の民間、行政のあと押しで辛くも回避した。
しかし、ここにきて再び廃止問題が持ち上がってくる。
問題の種は鉄道総研による「地方鉄道の安全性評価」。これにより、指摘されるであろう箇所の補修に、15億円もかかることが判明したのだ。上田交通自身はもちろんのこと、地元の民間、行政問わず、さまざまな支援団体が発足し、廃止を避けようと努力しているのだが……。

7200系を使った人気者の「まるまど号」

デアゴスティーニ編集部

新しい看板列車「まるまど号」。7200系をラッピングにより、かつての人気者モハ5250型風に仕立てたもの。

こんな状況の中、乗客誘致活動の決定版ともいえる「まるまど号」が登場する。昭和61(1986)年10月に架線電圧を1500Vに昇圧する以前の750V時代、上田交通には「丸窓電車」の愛称で全国の鉄道愛好家の注目を浴びたモハ5250型という電車があった。在籍した3両すべてが保存されているため、引退後も復活を望む声は高かった。さすがに実現とはならなかったが、その雄姿を再び、と満を持して登場したのが、「まるまど号」だ。現行車の7200系1編成を今はやりのラッピングにより、モハ5250型と同じクリームと濃紺のツートンカラーにし、丸窓まで再現している。
内装も木目シールでレトロ調に仕上げ、シートモケットまで同じえんじ色に変更、昭和初期の広告を再現して吊るすなど、徹底した「丸窓電車」ぶり。一連の改装費用一切を近隣の企業が受け持ったという点も注目に値しよう。土・日を中心に上田〜別所温泉間を往復している。

駅員はいても駅舎のない変わり種・下之郷

デアゴスティーニ編集部

「日本の典型的な里」といった風景が展開する下之郷駅周辺。映画のセットのような駅名板がその中に立つ。

下之郷駅に到着した2連電車は、上り電車と交換の最中。この駅は起終点の上田、別所温泉を除いて唯一常時駅員が配置されている駅にもかかわらず、駅舎はない。きっぷの販売や運行作業は待合室に隣接した駅員事務室で行なわれる。
上り電車をやり過ごし、発車する。駅員と運転士が挨拶を交わす。駅を出るとすぐに右手には車庫が見えてくる。2線式の庫内には2編成の7200系が体を休めている。電車はそろそろと走りながら、右に急カーブを切る。
今度は車庫南側に、見慣れぬ湘南顔のステンレス製車体が見えてきた。動いている気配がない。倉庫として使われているのだろうか。実はこれ、日本初のステンレス製車両として昭和33(1958)年に誕生した「ゆたんぽ」こと元東急の5200系。昭和61(1986)年10月より上田交通で走りはじめ、平成5(1993)年5月まで活躍。ステンレス製の車体は朽ちることなく、現役時代と変わらぬ輝きを放つ。

塩田平の光景や温泉への期待が旅を盛り上げる

デアゴスティーニ編集部

八木沢駅を出た下り電車が最後の一区間を走行する。しかし終点の別所温泉駅に至るには、路線最大の40‰を含む急勾配の連続を克服しなければならない。背後には、ここまで駆けて来た広大な塩田平が広がる。

線路が直線に変わると、両方の車窓が一気に開け、遠くには美しい山並みが横たわる。電車は塩田平と呼ばれる田園地帯を進む。この辺りは「信州の鎌倉」ともいわれ、鎌倉時代に北条氏によって開かれた古社、古寺が点在する。次の中塩田までの区間が同線における、車窓のクライマックスである。
木造の重厚な駅舎を持つ中塩田駅を過ぎると、再び住宅街の間を通り抜ける。塩田町、中野、舞田と1面1線のホームに停車を繰り返して、八木沢に到着。ここもやはり1面1線のホームを持つ駅だが、木造の小さな待合室だけのひっそりとした佇まいが、これぞローカル線の駅! といった雰囲気だ。
電車は勾配を徐々に登ってきており、だいぶ山間に近付いた感がある。
八木沢を出ると、あと1駅。この先に最後にして最大の難所が待ち受ける。40‰もの急坂を上るのだ。さすがに、あえぎながら登坂していく。逆S字形の線形をなぞり、直線に入ると左前方に静態保存されている丸窓電車モハ5250型2両の連なった姿が見えてくる。
電車はなおも上り続ける。丸窓電車の横をすり抜け、勾配を登りつめたところでブレーキが掛かる。終点の別所温泉駅に到着だ。上田を出ること1時間あまり、全線11.6kmを乗り終えた。全線走破を祝い、駅裏の温泉でひとっ風呂、というのも悪くはないが、それでは終われない……。そんな気が、する。

2つの鉄道会社をルーツに持つ上田交通の歴史

デアゴスティーニ編集部

駅開業時から掲げられているのだろうか、文字の判読もおぼつかない駅名板が、ホーム庇の端っこにぶら下がる。

上田交通は、今を遡ること80余年前、2つの異なる会社からはじまった。ひとつは大正5(1916)年9月に発足した丸子鉄道。もうひとつは大正9(1920)年1月に設立された上田温泉電気軌道(のちの上田温泉電軌)である。
前者は大正7(1918)年11月に丸子〜大屋間(のちの丸子線)を、後者は大正10(1921)年6月に青木線三好町(現・城下)〜青木間、川西線(現・別所線)上田原〜別所温泉間を開業。大正13(1924)年8月に千曲川鉄橋の完成により上田〜三好町間が開通し、現在の別所線に当たる区間が全通する。 
 その後、丸子鉄道は大正14(1925)年8月に大屋〜上田東間を延伸する。一方の上田温泉電軌も大正15(1926)年8月に依田窪線(のちの西丸子線)下之郷〜西丸子間を開業、続いて昭和2(1927)年11月には北東線(のちの真田傍陽線)の一部区間を開業し、昭和3(1928)年5月に全通した。しかし、昭和13(1938)年2月には早くも青木線上田原〜青木間が廃止され(それに伴い、残る上田〜上田原間は川西線に編入)、上田温泉電軌は昭和14(1939)年8月に上田電鉄へ名称変更された。昭和18(1943)年10月、丸子鉄道と上田電鉄は合併し、上田丸子電鉄となる。この時点で4路線、上田を中心とした総延長48kmにおよぶ一大ネットワークが形成されたのだ。
ところが、昭和33(1958)年に東急傘下に入ってからは、各線の廃止がはじまった。まず、昭和36(1961)年、西丸子線が災害のため休止、2年後の昭和38(1963)年11月には廃止に。続いて昭和44(1969)年4月には丸子線が廃止、同年5月には上田交通に社名変更している。そして昭和47(1972)年2月、真田傍陽線も廃止された。

今もなおそこかしこに残るかつての路線網の痕跡

デアゴスティーニ編集部

昭和38(1963)年11月に廃止された西丸子線は下之郷駅から分岐していた。駅構内には、往時を偲ぶ当時のホーム跡がそのまま残っている。

それから……。
かなり年数は経ったものの、遺構、遺物、保存車両などはまだまだ目にすることができる。だからこそ、現存する全線走破だけでは終われない、のだ。合併後に廃止になったこれら3路線の足跡を辿ってみたい。
丸子線の終点、丸子町駅跡は敷地がそのままバスターミナルになっており、そこから通りに出た交差点は、いまだに「駅前通り」を名乗る。丸子線の線路敷跡は生活道路になり、かつての中丸子駅付近には今も小鉄橋の橋台跡が残る。丸子町駅からほど近い丸子町文化会館「セレスホール」前の公園には、貨物列車を牽引していた凸形電気機関車ED251が保存されている。
西丸子線では、別所線との分岐駅の下之郷駅構内に今もそのホーム跡を見ることができるし、終点から2駅手前にあった寿町駅の待合室は寿町バス停の待合室に転用された。馬場〜依田間にあった二ツ木トンネル跡付近には、今は計器を扱う会社の工場が建つが、その敷地内には、もう1両の丸窓電車モハ5253が内外装とも入念に整備され、公開展示されている。上田付近を見てみると、上田城跡公園の二の丸堀には、真田傍陽線の線路敷跡と公園前駅のホームがそのままに残っている。
ざっと挙げただけでもこれだけの数。しかも、線路敷跡が、そっくり道路に転用されているところも多く、そこにバスも運行されていたりするので、比較的足跡を辿りやすい。
別所線に乗り、廃線跡を行くと、上田交通が、上田を中心とした生活圏に果たしてきた役割がおぼろげながら分かってくる。そのとき、最後に残った別所線を守り続けることが、いかに大切かを強く感じるのだ

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2016/08/27


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