DeAGOSTINI デアゴスティーニ・ジャパン

紀勢本線(前編) 亀山~紀伊長島

【第47回】紀勢本線(前編) 亀山~紀伊長島


紀勢本線という言葉の響きから思い浮かべる、黒潮打ち寄せる紀州路のイメージとはほど遠い、東海道の城下町にある駅から紀伊半島を一周する旅は始まる。深山へのアプローチとなる伊勢平野を南下する道は、高出力エンジンを搭載した軽快な気動車が案内役だ。

ブラボー0 お気に入り登録0   ブラボーとは


再び参宮線との繋がりが深くなった亀山発の列車

デアゴスティーニ編集部

下庄から曲がりくねった線形で軟勾配の続く区間を抜けると、津の市街地へ至るまでは線路界隈にのどかな田園地帯が広がった。近くには鎮守の森や雑木林も垣間見られ、童謡に謡われそうなふるさとの光景をしばし楽しめる。

亀山を発着する列車から華やかさが失せて久しい。もともとこの駅は、地理的にも「紀勢本線と関西本線が交わる鉄路の要所」という表現が今日でも極めて正しく聞こえるのだが、幹線駅らしいゆったりとした広さを保った長大なホームに滑り込んでくる列車は、単行かせいぜい4両編成程度の一般型気動車や電車。そこに湊町(現・JR難波)、名古屋、紀伊勝浦方面へ向かう急行列車が顔を揃えていた頃のターミナル駅が醸し出す喧騒を見出すことは、もはやできない。
紀勢本線の旅は、3面あるホームのうち、駅舎から最も離れた4・5番線乗り場から始まる。主力車両であるJR東海版の軽快気動車キハ11の小振りな姿が、現在の閑散線区の印象をより強くしている。
駅の構内を離れた列車は右手に大きくカーブを切ると、関西本線と並ぶように流れる鈴鹿川を渡った。橋の上から左手に車窓を望むと、河岸段丘上に家並みが連なる亀山の市街地があり、駅が市の中心部である旧城下から若干離れた位置にあることがわかる。列車は川岸に民家が並ぶ阿野田町地内を抜け、全長200mほどのトンネルを潜る。三重県の中西部を南北に縦断している伊勢平野を少し西側に入ると、今度は端山が重なる丘陵地が続いている。亀山から一身田へ至る区間は、そんな丘の只中を縫って走る起伏に富んだ経路だ。
トンネルを抜けると周囲の景色は街中から山中の様相へと一変した。列車は左右へ頻繁に向きを変えながら深緑の中を進む。山麓に水田がつくられた森影を通り抜けると、列車は最初の停車駅である下庄に着いた。

思わぬ丘陵越えが続く伊勢平野西部の旅

デアゴスティーニ編集部

雲出川の周辺には広々とした田園地帯が広がっている。鎮座する田の神様が、行き交う列車を見守っていた。

人気のない下庄駅前には、学生の通学用の自転車が山のように並んでいた。数十年前の私がそうであったように、彼らにとっても学校へ向かう行程で列車に乗ることは、ささやかな「旅」であり得るのだろうか……。駅舎はキューブ状のコンクリート建てとなり、名物だったヒョウタンの棚は取り払われ、鉄道旅の魅力を語るにはいささか殺風景になってしまった構内を横目に、ふとそんな思いが頭をよぎった。
駅を出ると、線路の周辺は再び森の木立で覆われた。車窓に映る木立の間からは小さな水田が見え隠れしているものの、丘の向こうの津と関を結ぶ旧街道に、古くからの住宅が連ねているとは思えないくらいに鬱蒼としている。キハ11ならではのすっきりとした前面展望も、急曲線が行く手の眺望を遮っている。こうなると気分はすっかり、紀州路のはるか先で展開される山越えのノリである。もっとも列車は70km/hほどで快走を続けているから道のりの険しさは感じられないのだが。
下庄から3分ほどの小さな「山越え」を終えると、前方には農村部らしい田畑の風景が開けてきた。一方で、線路を横切る2本の立派なバイパス道路がのどかさとは対照的な雰囲気を醸し出し、鉄道のすぐ脇で日々拡充されていく道路網の活況を想像させられる。
線路は関街道の旧道を潜ると、亀山側における最初の開業区間の末端となる一身田に着いた。

特急と快速線の登場で亜幹線らしさが戻る津以南

デアゴスティーニ編集部

多気までは平野部を南下する伊勢路の旅。行程の句読点を飾るべく櫛田川には、プレートガーダ−の橋梁が架かる。

一身田を出てほどなく、伊勢鉄道が左手から寄り添ってきた。それまで左手にいた名古屋線は津駅の直前で紀勢本線を跨ぎ、駅構内で両線の東西関係が入れ替わった。ここからは伊勢鉄道経由の特急「南紀」と、名古屋と参宮線の伊勢市、鳥羽とを結ぶ快速「みえ」の乗入れがあるので、線内は若干華やいだ雰囲気となる。
街中では近畿日本鉄道との並行区間が続く。高茶屋までは市街地区間。平野部らしいゆったりとした田園風景は、雲出川を渡り津市から松阪市へ移った辺りでいよいよ登場となる。直線区間が続くうちに列車はさらに加速し、窓直下の風景などは小気味よい直線となって次々と流れていった。
小津町の町外れの6軒を過ぎると、正面に四方を水田で囲まれた近畿日本鉄道山田線の築堤が見えた。複線のガーダー橋を潜ると、右手には松阪と伊勢奥津を結ぶ名松線の線路が現れる。列車の運転頻度は2時間に1本程度の閑散線区だ。しかし、この辺りでは珍しく直線的に敷かれた名松線の線路へ、まるで紀勢本線がカーブを描きながら寄り添っていくような線形なので、一見すると名松線の方が本線らしく見えるのが可笑しい。
紀勢本線と名松線は3kmほどの距離を複線区間のように並行しながら松阪の市街地へ入って行った

昭和10年代の華やかだった鉄路 その様子を偲ばせる松阪界隈

デアゴスティーニ編集部

多気以南で、沿線情景は徐々に山里の色合いを濃くする。特急「南紀」が足早に緑の風景を切り裂いて行った。

松阪はJRが3面4線のホームを有している。さらに、ホームの東側に建つ保線区のモーターカーなどを収納する車庫や貨物扱いが行なわれていた頃の側線跡などは、駅の付随施設として現在も目立つ存在だ。そのためか、構内は新宮までの区間で最も地方幹線らしい表情だ。それだけにここへ来る列車がすべて短編成であることは、駅の持つ本来の魅力を存分に発揮できていないように感じられる。紀勢本線東部の顔である特急「南紀」でさえも通常は普通車のみの3両編成なのだ。ただし、松阪〜多気間は紀勢本線の非電化区間で最も運転密度の高い区間ではある。
松阪〜徳和間では第2次世界大戦時まで存在した複線区間の形跡を見ることができた。旧・参宮線内の複線区間は阿漕〜高茶屋間にも存在するが、松阪周辺の方が近畿日本鉄道と工場に挟まれた国鉄用地の転用が難しいこと、さらに宅地開発等が緩やかに進展したため、より軌道跡らしさを感じさせる空き地が残っているのだ。また、徳和ではホームの真上を県道が跨いでいるが、その橋脚付近にかつての鉄道施設と思しき石積みも健在だ。これは昭和17(1942)年まで営業していた関西急行鉄道伊勢線の軌道跡である。
車窓に鉄路の歴史を感じさせる寸景がチラチラと流れ、この先は再び小さな丘陵越えとなった。シンプルな構造が美しいプレートガーダー橋梁で櫛田川を渡ると、列車は軟勾配を惰行気味に多気へと滑り込む。亀山を出発してから1時間あまり。紀州路を巡る旅は、まだほんの序章を走り抜けたに過ぎない。

田んぼ・茶所・杉林……景色は里山から山里へ

デアゴスティーニ編集部

三瀬谷駅の近くには、清流宮川をせき止めたダムがある。そしてダムの放水堰と対峙する位置には、紀勢本線の雄大なアンダートラス橋が架けられている。轟音とともに橋を渡る列車の姿は、紀勢本線東部を象徴する光景だ。

参宮線へ入る列車との連絡待ちでしばしの小休止を取っていた下り列車は、多気駅構内をゆっくりとした足取りで抜け出し、右方向に大きくカーブした。前方に幾重にも連なる紀伊山地の端山が遠望される。ここからが新規開業時に「紀勢東線」を名乗っていた区間で、いわば生粋の紀勢本線とでも呼ぶべき経路なのだ。
多気以南の区間が紀勢東線として着手されたのは国内の鉄道網が随時整備された頃で、本線系の路線としてはかなりの後発組だった。大正12(1923)年3月20日に相可口(現・多気)〜栃原間が開業したのを皮切りに紀伊半島を南下する鉄路は、川添、三瀬谷、滝原、伊勢柏崎、大内山と小刻みな延伸を経て、昭和5(1930)年4月29日には経路の中で随一の難所である荷坂峠を克服、紀伊長島までの区間が開通した。ちなみに明治24(1891)年には既存の営業路線となっていた亀山〜相可口〜宮川間は当時、参宮線を名乗っていた。
町役場や大型スーパーマーケットが近くに建つ相可を過ぎると、車窓には茶畑が目立ち始めた。ヨーロッパに見られる庭園のように、よく手入れされた茶木のうねりがかたちづくる造形美は川添辺りまで楽しめる。
 紀勢本線と対峙する位置にある伊勢自動車道が開通して間もない道路周辺は、削られた山肌や切り倒された木立が続き、それまでの穏やかな山里風景とはかなりの違和感を感じる。いずれここもまた、今、旅を続けている鉄道沿線と同じように、豊かな自然は、人間の構造物など数十年の営みのうちにすっぽりと覆ってしまうだろう。
真新しい道路の橋脚が線路を跨ぎ、三瀬谷の集落越しに続く高架道路を目で追っていくと、気動車はつかの間の平坦区間を軽快に飛ばし、吸い込まれるように三瀬谷へ入っていった。駅の裏手には大規模な駐車場を備えた「道の駅」が設けられていた。施設内では特産品販売が行なわれており、平日とはいえなかなかの盛況ぶりだ。
 「やはり、車社会なのかなぁ……」
そう思った。駅の本家であるJR三瀬谷の駅舎もいつしかログハウス風の外装に化粧直しされ、その姿は「道の駅」にあつまる観光客を駅前へ呼び込もうとしているかに見えた。

紀伊山地の入口に見えるどこまでも新たな稜線

デアゴスティーニ編集部

山中に川が刻んだ谷は、紀勢本線が海辺の町へ向かう道標。そこはまた、太公望に人気のスポットでもある。

三瀬谷から滝原方向へ進むと、大規模な堰を備えた宮川ダムがある。鉄道は堰の下流側を雄大な姿のアンダートラス橋梁で跨ぐ。橋の上からは西側の車窓にダム施設を手に取るように望むことができ、まるで鉄道から見物できる小さな観光地である。しかし、列車は思いのほか足早に通過して行った。  
宮川を渡ると列車は一気に深い谷へと入っていく。線路の間際まで植えられている杉の木立は、車窓風景を緑一色に塗り潰す。ちらちらと垣間見られる川向こうの稜線も、ずいぶんと近くで切り立った様相となってきた。ただ、列車のすぐ下には舗装道路が並行し、対岸には国道42号線を行き交う自動車が見られるので、四方を山に囲まれているという印象は薄い。それでも多気から30分ほど進んだ線路界隈は、山が育んだ香り高い空気で満たされていた。
途切れた木立の先が明るくなり前方に畑が広がった……と思ったら、列車はゆっくりと滝原に停車。ここには昔ながらのローカル駅然とした姿の駅舎が残されていた。沿線の駅施設が建て替えられるごとに簡素化されていく中で、今や貴重な存在である。
滝原駅から1kmほど阿曽方面へ進むと、周囲の地形を形作る大内山川の岸辺に大小の岩場が続く。ここは大滝峡と呼ばれる渓谷である。紀勢本線はその川沿いに、ややきつめのカーブを描きトレースする。大滝峡を抜けて短いトンネルを潜ると、線路は梅ケ谷まで山間の田園地帯を左右にうねりながら行く。列車はいそいそと荷坂峠の入口である梅ケ谷まで足を進めていった。

太平洋へ向かって、急坂をオメガループで駆け下りる

デアゴスティーニ編集部

荷坂峠越えは鉄路にとって剣山の懐を綴る腹内回り。山塊が席巻する大自然の中で、鉄道の存在は小さくか細い。

梅ケ谷駅構内のポイントを渡るとすぐ正面にトンネルが口を開けていた。紀勢本線最大の難所、荷坂峠への入口である。もっとも梅ケ谷側から紀伊長島へ向かってはまったくの下り勾配。列車は流しそうめんのようにスルスルと急坂を走り始める。この先、小名倉川付近に至る6kmほどの区間で25‰前後の急勾配が続く。1区間に13カ所のトンネルを有し、オメガループが行程に変化をつけている荷坂峠だが、実際に眺望の効く場所はごくわずか。近年では線路周りの木々の生長が著しく、一段と視界が閉ざされたように感じる。車内から峠の厳しさを実感できるのは、わずかに伝わってくるエンジン鼓動やブレーキシューと車輪の擦れ合う金属特有の焦げ臭さ、という視覚以外の感覚からだった。
窓を開ければ手が届きそうな深い緑が流れ続けて数分ののち、ブレーキの軋む音が消えたと思ったら、視界に港の風景が飛び込んできた。紀伊長島の町外れの、ハマチなどの養殖魚を水揚げする船着場だ。紀勢本線の旅もここで、ようやく熊野路の潮風を浴びるようになった。緑の屏風を数え切れないほど潜り抜けた先で、海は突然にあっけなく現れたのだ。町の南側に開けた海は、逆光の中に波頭が輝く印象的な光景だ。しかし、そんな光の渦も1分としないうちに再び木々の中に消えてしまった。ただし、ここから先は紛れもなく海辺の町を巡る紀州路が続いているのだから案ずることはない。
東長島地区を貫く区間最後のトンネルを抜ければ、目の前には保線施設や側線を備えた大きめの駅構内が広がっていた。列車は、人間であれば登山よりも難しいといわれる下山の大役を終え、しばらくここ紀伊長島で停車する。
さて、明るい陽射しが照らし出す街中を散策してみるとしようか……。
開け放たれた降車口からは、すでに潮の香りが手招きをしていた。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2016/12/01


ブラボー0 お気に入り登録0   ブラボーとは



コメント0件


コメントを書く1,000文字以内

Ms_noimage

コメントを投稿するにはログインが必要です。