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紀勢本線(後編) 紀伊長嶋~新宮

【第48回】紀紀勢本線(後編) 紀伊長嶋~新宮


永きにわたり鉄路の進展を許さなかった険しく雄々しい南紀の洞内巡りは、行けども行けども尽きないようなトンネルの闇が続く。木々のざわめきは潮の香りをすぐそこまで運んでいるのに車窓からでは薄い海の影。海を想い、海を目指す紀勢本線東部の路は、旅人に対してあまりに思わせ振りだ。

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山・トンネル・海・トンネル~山中模索で始まった南紀の序章

デアゴスティーニ編集部

尾鷲峠の相賀側では山越えのアプローチ付近にゆったりとしたカーブを描くコンクリート橋梁が横たわっている。

キハ47とキハ48という国鉄型気動車が手を繋いだ普通列車は、大きくカーブした赤羽川橋梁を渡ると国道42号線を潜り、すぐに長島トンネルへと突入していった。500mほどのトンネルを潜ると陽射しの入ってくる左手車窓に江ノ浦の海原がきらめいている。前方には大型クレーンの重厚な姿が目を惹く造船ドックなどが望まれ、旅が海辺の街へと差し掛かったことを実感する。海岸通りが足早に過ぎていくと、行く手は緑濃い山中となり、木々の濃度が最高潮に達したところで列車は再びトンネルへと吸い込まれる。
ほどなくして白日の下に飛び出すと、今度は山の斜面につくられたみかん畑の城壁と白砂の向こうを水平線が横切る紫紺の太平洋が代わるがわるに出迎えてくれた。紀伊長島の周辺で車窓から太陽と緑が織りなす、南紀らしい爽快感を堪能できる古里海岸だ。窓を一杯に開けて潮風を感じたいところだが、ほとんどはめ殺し状態に「更新」されている車両が恨めしい。しかも列車は絶景を横目にしながら徐行サービスの気配もなくずんずんと進んで行くので、視界は1分としないうちに再びトンネルで遮られてしまう。
紀勢本線の中間部を巡る車窓は、リアス式海岸が入り組む地形を直線的に貫く道のりゆえ、こんな具合に闇と光がせわしなく交錯することとなる。紀伊長島から三野瀬に至る区間はその序章だ。

馬越峠を抜け尾鷲トンネル~尾鷲駅へと抜ける

デアゴスティーニ編集部

尾鷲峠の相賀側では山越えのアプローチ付近にゆったりとしたカーブを描くコンクリート橋梁が横たわっている。

三野瀬を過ぎて三浦トンネル付近を峠にした小さな山越えを終えると、沿線はつかの間の田園風景となる。右手に望まれる山並みは日出ケ岳や池木屋山など、紀伊山地の懐深くまで延びる稜線が連なり、険しい表情は紀伊長島以北の山里風景よりも迫力を増す。ただ、そうした遠くの山容を楽しめる区間も三野瀬よりふた駅先の相賀までのこと。相賀と尾鷲の間には急峻な馬越峠が立ちはだかっているのだ。
相賀を出てすぐに高架区間のような構造のコンクリート橋を渡ると、銚子川沿いの谷へと分け入る。線路の周辺は先ほどよりもさらに鬱蒼としてきた。しかし峠とはいっても、鉄路は並行する国道42号線や旧熊野古道のような高所ではないので、ベテランの域に達したキハ47・48であっても急勾配にあえぐことなく軽快に木々の間を縫って走る。本来、峠となる部分も、長大な尾鷲トンネルであっけなく駆け抜けてしまった。
トンネルの尾鷲側には地域の中心地らしく黒瓦の家並みが平坦部一杯に広がる。海と山の狭間を行く紀勢本線の旅もここで小休止といったところか。2面のホームと3線の乗り場を持っている尾鷲の構内だが、現在では1、2番線乗り場の2線のみが使われている。特急列車は乗降の利便性を考慮して、上下列車に関わらず駅舎に近い1番線乗り場から発着しているようだ。こうした状況が、街の規模に比べるとやけにこぢんまりとした駅のように見せていた。それでも峠を隔てて地元民の流れは大まかに分けられているのだろう。紀伊長島からほとんど人の姿がなかったシートは、明るい話し声とともに車内へなだれ込んできた乗客で埋まっていった。

容易に全通を許さなかった海辺の山越え区間

デアゴスティーニ編集部

トンネルの連続区間で列車を待っていたら、陽炎の向こうに保線区員氏の黄色いヘルメットが浮かび上がった。

尾鷲から熊野へ至る区間は、紀勢本線の経路で最も深層部に当たる。
多気からの紀勢東線、和歌山からの紀勢西線が双方より路線を延伸し1本の路線として手を結んだのは、紀伊の入り江に息づくささやかな漁村を、星座のように繋いだ三木里〜新鹿間の開業によるものだった。昭和34(1959)年7月15日の全線開通は、本線としては最も遅い部類に入る。建設そのものは第2次世界大戦以前より進められてきたが、戦局の深刻化に伴い、尾鷲〜紀伊木本(現・熊野市)間の工事が一時中断されたことがその大きな要因だ。戦後になって鉄道建設に予算が計上されたのは、昭和27(1952)年のこと。沿線に大量の鉄道輸送が見込まれるほどの人口がなかったことと、計画ルートではトンネルの続く難工事が予想されたために、関係者としても壮大な鉄道回廊を現実のものとするには躊躇があったのだろう。
尾鷲市の郊外となる大曽根浦より西の区間では、そうした産みの苦しみを実感させられるような光景が30kmあまりにわたって続いている。地下鉄をも彷彿とさせるトンネルの連続なのだ。
駅を発車した列車は構内を離れるとすぐに車窓が闇で閉ざされる。暗がりの中から伝わってくるほのかな熱気は地下鉄の坑道そのものである。ゆっくりと規則正しいジョイント音が続き、周囲がにわかに明るくなったと思ったら目の前には駅のホームが流れていく。短い停車時間で駅を離れた列車の先には再びトンネルとなる。こんな道程が大泊まで8駅間も繰り返されるのだ。駅間は必ずしも1本のトンネルで結ばれているわけではない。しかし、いずれの区間も1km程度の長さがあり、すべてのトンネルには名前がついている。思いがけず変化に乏しい漆黒の旅中では、出入口付近で車窓を一瞬横切る銘板を確認するのも楽しみのひとつとなる。九鬼、名柄、亥ケ谷、曽根、逢神坂、甫本、大吹と続く白抜き文字は、いずれも山越えにちなんで付けられた名称だ。
また、トンネルの作り出す闇が深いだけに、その間で垣間見られる山塊の雄々しさは格別である。いずれの駅でも構内の三方に屏風のような緑が聳えるのだ。その様子は海へと落ち込んでいる紀伊山地の険しい稜線を間近で見るだけあって、まさに「見上げるような」高度差である。中でも三木里、賀田辺りは構内のベンチから視界の先の景色を眺めながら「何もしないひととき」を楽しむには格好の静かな佇まいだった。次の列車までの間延びした時間が少し脳裏をかすめたが、列車の扉が開いた次の瞬間には、身体はすでにホームへと飛び出していた。

二木島へ向かう迂回経路に人々の鉄道への想いが宿る

デアゴスティーニ編集部

山腹の国道からは二木島駅を一望できる。海が迫る山間の僅かな平地に造られた集落からは、人間の生活する香りが伝わってくる。夕刻の列車が二木島駅のホームに着く頃、辺りの家にポツリ、ポツリと明かりが点り始めるのだ。

トンネルだらけの「地下鉄っぽい区間」にあって、二木島の駅周辺は敷設された路線形状から、建設当時における沿線住民の鉄道誘致に対する切望ぶりを特に感じられるところだ。賀田を出た列車は、紀勢本線の建設で最も厳しい工事だったとされる曽根トンネルへ入っていく。線路はやや南へ進行方向を振りながら暗闇の中を西進し、二木島湾岸に開けた集落の高台へと顔を出す。ここが二木島だ。
駅の先で路線はまっすぐに西を目指すように新鹿へ続く。この様子を地図で見ると、本来はより直線的に短距離で結べる賀田と新鹿の間を、やや大回りとなる二木島集落経由のルートを取っていることがわかる。実際に同区間で鉄道建設が計画された際、当初の予定では賀田と新鹿の間は途中に駅を設けることなく、1本の長大トンネルで貫かれるはずだったが、それを耳にした二木島の住民から、「ぜひ町内へも鉄道を通して欲しい」という陳情が当局へ繰り返されたという。当時の二木島地区と外部を結ぶ陸路は、隣町へ行くにも険しい山越えの小道しかなく、遠方への交通手段は船舶が中心。どこへ行くにせよ、集落の外へ出ることは大変な時間と労力を要する一大旅行だったに違いない。

衰退ぶりは顕著でも地域に根付いた生活の足としての鉄路

デアゴスティーニ編集部

波田須は集落のはずれで、草木に埋もれて佇む無人駅。しかし、ホームは潮騒が囁くビューポイントである。

鉄道の開通で旅の利便性は、飛躍的に向上することが明らかで、住民にとっての鉄道駅は、未知なる世界に続く入場券売り場とさえ映っていたはずである。二木島と同様、尾鷲〜熊野市間に設置された駅のひとつひとつは、地元民にとって陸の孤島暮らしから脱却したいという想いの中で、望まれ生まれた駅なのだ。
そうした期待に応えて、全通後の各駅では旅客とともに貨物の扱いも盛んに行なわれた。鉄道の隆盛を裏付けるかのように、尾鷲と木本(熊野)の間に就航していた定期船と、矢ノ川峠経由で運行されていた路線バスは紀勢本線の全通後に廃止となる。しかし、全通から半世紀を経ようとしている現在、国道42号線、311号線を中心にした周辺道路の整備は、交通の主役を鉄道から自動車へと変貌させた。
その結果、沿線を旅して目の当たりにする鉄路の衰退ぶりは顕著だ。開業当初より単線非電化の紀勢本線であったから、運転される列車本数自体に大きな差はない。国鉄時代と比べれば、日中2往復程度運転されていた貨物列車が姿を消した程度のことである。むしろ看板列車の特急「南紀」は、不定期列車を含めて最大6往復と、「くろしお」1往復の時代に比べればその勢力を大きく拡大しているのだ。にも関わらず、沿線にひなびたローカル線の空気が漂っているのは、車窓を流れていく駅の枯れた姿によるものだろう。近年まで交換施設を備えていた駅の多くは、乗り場ひとつの無人駅となってしまった。側線が引き込まれていたホームの欠取り部は、貨物扱いが廃止されてから20年以上の歳月を過ぎて、もはや遺構の様相を呈している。大曽根浦のように駅舎が取り壊されたところもある。昼間に運転されている普通列車は2両の小編成、車内の人影はまばらである。
それでもわずかな乗客にとっては、紀勢本線の汽車は今も生活に欠かせない存在となっているのだ。駅や車内で出会った方々と話せば「週に1回、木本の病院へ診てもらいに行くんです」、「尾鷲のスーパーへちょっと服を見にね」、「昼まで松阪で商売して今はその帰り」とのこと。鉄路の歴史とともに人生を歩んできたと察せられる歳のお客さんたちの生活に、鉄道はまだまだ根付いているのだ。

南紀の奥座敷・新鹿はトンネルの狭間の絶景劇場

デアゴスティーニ編集部

新鹿は波静かな内海の町。列車の後ろに見える漁港の対岸は、白砂が三日月状に続く美しい浜になっている。

全通までは紀勢西線の東端部だった新鹿の近くまで来ると、ようやく線路の左右がわずかに開けた雰囲気となってきた。新鹿の手前、列車が集落を跨ぐコンクリート橋梁を渡る際には、優雅に弧を描く白砂の浜を望まれた。「日本一きれい」と地元が自負する海岸は、夏になれば海水浴客などで結構な賑わいを見せる。また特急「南紀」が2往復、シーズン中の休日を中心に新鹿駅で臨時停車するので、南紀の奥座敷とも呼ばれる海辺の街へは名古屋方面からも訪れやすくなる。
沿線でさらに隠れ里的雰囲気を味わいたければ、隣の波田須周辺が頭に浮かぶ。ホーム1面のみの無人駅からは、はるか上方の国道311号線まで続くつづら折りの小道が延びている。「波田須の道」と書かれた標識に従って歩いていくと、眼下にカーブした線路が現れ、背景には切り立った磯場と外海が絵のように収まる。山容は高く、おいそれとは人を寄せ付けない天然の城郭を形成している。この辺りは車窓からも紀勢本線の非電化区間で、海を最も近くに感じられるところでもある。ただし、例のごとくトンネルの狭間にある絶景劇場は、感動が頭をもたげた次の瞬間には終了してしまったが……。

熊野市以南は燦々と降り注ぐ太陽の下でミカンの里を走る

デアゴスティーニ編集部

三重県と和歌山県を隔てる熊野川を長大な橋梁で渡る。背景には新宮の街並みが広がり、その向こうでは太平洋が水平線を視界一杯に伸ばしている。ゆっくりとした足取りで進む普通列車の刻む通過音が、町中にこだました。

しかしそんなトンネル巡りも、熊野市郊外の観光名勝である鬼ケ城から続く稜線を貫く木本トンネルを潜れば完了だ。熊野市は三重県の最も南に位置する市で文化、行政ともに紀南地域の中心地。構内へ進入する列車からは、混沌とした表情の街を見渡せた。
そんな日常的な光景を眺めていると、トンネル鉄路の東側入口である尾鷲を出発してから1時間程度しか経っていないのに、ようやく闇と緑の異空間から下界へ舞い戻ってきたような気になった。熊野市では再び3分の2ほどの乗客が入れ替わり、約1分の停車ののちに列車は新宮を目指し発車した。市街地を抜けると「もう一丁!」といわんばかりにトンネルへ入るが、その先には果樹園と水田で覆われた平野部が広がっている。陽光の下を行く列車は足取りも軽やかだ。遠望される山肌には木々を縫うように小道が張り巡らされ、そこがみかん畑であることを教えてくれる。
山と反対側の車窓へ目をやれば、熊野市を出てから延々と続いている松並木が、国道越しにちらちらと見える。松並木の向こうは七里ケ浜と呼ばれる延長約20kmにおよぶ砂浜だ。気が付けば、列車は海岸沿いを南下しているのだ。ただし、車窓からではゆっくりと黒潮躍る太平洋を満喫することはついにできなかった。
そんな鬱憤を若干解消してくれたのは終点も間近となった頃、列車が熊野川に架かるトラス橋に差し掛かった時だった。太平洋に向かってぽっかりと口を開けた大河の先に、ピンと張った水平線が青空との境目をはっきりと描き出していた。
南紀の海を実感できたのは、図らずも紀勢本線が三重と和歌山の県境を越える瞬間だったのだ。川を渡り切った先には、構内に架線を張り巡らされた新宮駅が待っている。さあ、ここから先はJR西日本の電車に乗り換えて、車窓いっぱいのシーサイドクルージングを楽しむとしよう。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2016/12/31


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