ホビー好きが集まる、ホビコム by デアゴスティーニ

横浜高速鉄道こどもの国線

【第55回】横浜高速鉄道こどもの国線


都心にほど近い、自然豊かな遊戯施設のアクセス路線として親しまれ、最近では周辺環境の変化とともに沿線の通勤客を運ぶようになった横浜高速鉄道こどもの国線。そのルーツは、かわいらしい路線名とは裏腹な、特異なものを持っている。

ブラボー0 お気に入り登録0   ブラボーとは


色鮮やかな電車がお目見え ちびっ子たちの歓声とともにさあ出発

デアゴスティーニ編集部

うららかな春の日、こどもの国駅の傍らで大きな5匹の鯉のぼりが体を目一杯伸ばし空を泳いでいる。そこへ多くの家族を乗せた電車が到着。こどもの日の象徴である鯉のぼりとこどもの国線。小さな子が主役の路線らしい光景だ。

ある日曜日。地下鉄から東急田園都市線へと乗り継ぎ、都心を抜けること約40分、東京と神奈川のほぼ境に位置する長津田駅に到着した。駅には田園都市線の広大な車庫と横浜線との乗換えがあり、ホームが何本も肩を並べ、乗降客も多い。賑わう駅構内の片隅には、横浜高速鉄道こどもの国線専用の片面ホームがポツンとある。いかにも「支線」という閑散とした場末的な雰囲気はなく、20分に1本の頻度でやってくる電車の到着を、まだかまだかと待ちわびている人々の姿が見られる。そのほとんどが家族連れ。目的地は、路線の終点「こどもの国」である。
こどもの国は、元からあった雑木林を活かした豊かな緑の中で遊べる、広大な敷地を持つ施設である。観覧車もジェットコースターもないが、かわいい動物がいたり、自然の中を縦横無尽に探検できるとあって、休日ともなれば多くの家族連れで賑わいを見せる。そこにアクセスしているのが、横浜高速鉄道こどもの国線である。長津田を起点とし、終点までの路線長は3.4kmと、ごく短い。
電車を待つことしばらく、2両編成の車両がゆっくりと到着した。ドアが開くと、待ちきれないかのように人々が乗り込み、車内はまたたく間にちびっ子たちの歓声に包まれた。ほのぼのとした空気に満たされた車体には、色鮮やかな青と黄色のストライプが絡まった塗装がなされ、どこか、子どもの頃にクレヨンで書いた電車の色合いを思い出させてくれる。これからわずか十数分の旅だが「洟垂れ小僧」に戻った気分で乗り込んでみることにしよう。

発車数分で景色は一変 宅地化された郊外の風景もなかなかのもの

デアゴスティーニ編集部

線路端に大きく枝を広げたケヤキが新芽を息吹いている。空き地に何か建っていたのだろうか、ケヤキの根元はコンクリートを飲み込んでいた。樹齢はわからないが、こどもの国線を永らく見守ってきたのには違いない。

電車は、ゆっくりとホームをあとにする。住宅がひしめく急カーブを忍び足ですり抜け、今度はノッチを上げたかと思うと一気に加速し、分譲マンションの壁際を突っ切って行く。すると景色が一変、いきなり空が広くなった。電車の大きな前面ガラスと側窓から、春うららかな陽光が車内を明るく照らす。電車は、まるで平野に着陸する飛行機のように、高い築堤から徐々に高度を下げる。眼前には、新興住宅地が建ち並ぶ現代的な丘陵地帯が広がっているものの、電車の築堤の周りにはまだまだ田畑も健在だ。アスファルト敷きの小道には駆け遊ぶ少年の姿が目に映る。宅地化された郊外の風景も、なかなか捨てたものではないな、と思う。車内の子どもたちは遠くまで見渡せる景色に釘付けとなり、付き添いの親は少し眩しくなって面食らいながらも、会話を止めて一緒に見入っていた。

こどもの国へ導くだけでなく東急の電車の要衝も担う 

デアゴスティーニ編集部

長津田工場脇を走ると、こどもの国線の先輩7000系と3450型から改造された仲間が休息を取っていた。

築堤を駆け下りた電車はゆっくりブレーキをかけると、やがて東急長津田工場施設に吸い込まれるように進んでいく。まるで工場群の中に「迷い込んだ」ような、妙な錯覚に捕われてしまうが、電車は無事に「工場の外れ」の停車駅、恩田に停車。まるで長津田工場のための駅のようなここは、横浜高速鉄道となった平成12(2000)年に完成した新駅だ。単線のこどもの国線でありながら電車交換を可能にした島式構造で、普段は1編成がピストン輸送するが、ラッシュ時には2編成が交換し、人々を捌く。
ちなみに長津田工場は、もともと東急東横線の元住吉にあった工場の移転に伴い、昭和47(1972)年に竣工されたもの。やがて工場が稼働を始めると、普段は2両編成がコトコト走る線路を、時折見慣れない本線系統の電車が連なって工場へ入出庫していくようになった。こどもの国線は単なる遊戯施設のアクセス路線ではなく、東急の電車を縁の下で支える工場へと至る、重要な路線でもあるのだ。
恩田をあとにした電車は、ところどころ緑の残る丘陵をかすめながら一路終点へと轍を踏む。午後の陽射しが丘陵に林立する家々の屋根を照らし、少々眩しい。電車も負けじと、ステンレスボディを誇らしげに目一杯輝かせ、存在感をアピールしているようだ。車内はといえば、終点はまだかと、子どもたちがソワソワしている。一方の電車はそれを知ってか知らずかマイペース。まるで、ぐずる子どもをおんぶして、あやすかのようである

荒れ果てた線路は復活し通勤路線へと発展する

デアゴスティーニ編集部

恩田駅北側の小さな橋には、軍用線時代の短いガーダー橋が赤錆びたまま60年以上の時を刻んでいた。

まもなく終点に差しかかる頃、車窓に並ぶ家々の軒から、こんもりとした鎮守の森と「洞穴」らしきものが垣間見えてきた。洞穴は、今から60年以上も前の太平洋戦争中、艦載機や爆撃機の襲来に備えて造られた防空壕としてつくられたものだ。戦時中、鎮守の森の神社一帯は「田奈弾薬庫」という陸軍の弾薬製造貯蔵施設があった。今でこそ、春うららかな陽気がよく似合う「こどもの国」も、弾薬庫の跡地を利用して開業した施設なのである。弾薬庫があれば当然、運搬には鉄道が必要となる。陸軍によって敷設された非電化軍用引込線が、この路線の前身なのだ。
戦後、軍用引込み線は道床が流され枕木は浮き荒れ放題となり、ボロボロとなったまま近隣住民の生活道と化していた。しかし、昭和37(1962)年に、弾薬庫跡を活用した「こどもの国」が起工されると、アクセス路線として廃線同然の線路に白羽の矢が立った。当初、こどもの国推進委員会は、輸送だけでなく修学旅行電車を国鉄から乗り入れる構想をしていたが、国鉄と折合いがつかずに頓挫。そこに、名乗りを上げたのが、田園都市線を含む多摩田園都市構想を計画していた東急だった。結果として、地方鉄道免許は特殊法人こどもの国協会(のちに社会福祉法人化)が取得し、東京急行電鉄に線路を貸与する形となる。その後、昭和39(1964)年に着工されると線路は電化され、見事に蘇った。そして、こどもの日間近の昭和42(1967)年4月28日、五月晴れのもと、赤と白を基調とした2両編成の専用電車が走り始めたのである。
電車は多くの子どもたちを乗せ、休暇中には5両編成の臨時が走るほど活躍する。ただし、ダイヤは開園時間に合わせた設定で、まさに「こどもの国のための路線」であった。その特殊なダイヤの状況下、沿線では年々宅地化が進行、当然のごとく、沿線住民により通勤路線化の声が上がる。しかし鉄道事業者である社会福祉法人こどもの国協会が、通勤路線化を行なっては営利目的となるため、横浜市を介して平成9(1997)年、鉄道事業免許を第三セクターの横浜高速鉄道に譲渡することに決定。こうして、平成12(2000)年にダイヤを通勤対応に拡大、通勤路線として再スタートを切ったのだ。

気さくに声をかけてきた老人は弾薬庫で働いた過去を語った

デアゴスティーニ編集部

こどもの国駅の駅舎は、永らくお伽話のようなかわいらしい建物だったが、通勤路線化の際に近代的に建て替えられた。

電車は、こどもの国駅ホームへゆっくり滑り込んだ。気持ちが迫り早足に先へと急ぐ人々の波を避け、ゆっくりと改札を出てみる。駅前に続く桜並木がきれいだ。戦争のために使われた線路には今、子どもたちの歓声を乗せた電車が走っている。かつての線路は、終点からさらに園内の中央広場まで続いていたが、今は桜並木へと変貌を遂げている。弾薬を運んだ線路跡に、子どもを肩車に乗せた家族連れが歩いていく。
その様子をただ、何となく見つめていると「電車を見てるのかい?」と、散歩途中らしきおじいさんに声をかけられた。「こどもの国線を探訪しているんです」と話すと、おじいさんは2両編成の電車が去った線路を遠い目で見つめ、優しくもどこか哀し気な表情で話を始めた。
 「私はね、弾薬を詰めていたんだよ」
ほのぼのとした空気の流れる空間に身を置いていただけに、一瞬、その言葉にどきっとした。
 聞くところによると、太平洋戦争のさなか、こどもの国の前身である田奈弾薬庫に学徒動員で働いていたのだという。弾薬庫には多くの人々が徴用や学徒で従事。戦局が悪化した戦争末期は食料も乏しく、過酷な状況だったそうだ。
 「昔は蒸気機関車だったんだよ。時代も周りもずいぶんと変わったね」
そう言い残すと、おじいさんはゆっくりと歩いていく。その言葉は、軍用からこどもの国へのアクセスへと復活し、やがて通勤路線としての性格を持ち……と、時代とともに変化してきた線路を、ひと言で表しているかのように聞こえた。
 「こどもの国って弾薬庫だったんだねぇ」
帰りの電車の中、ふと、とある家族連れの会話が聞こえてきた。弾薬庫の意味を知らない子どもは、それでも親が話す言葉に熱心に耳を傾けている。現在のこどもの国にも、弾薬貯蔵庫の重厚な扉は、いくつか残存している。この家族も、その扉を見たのだろう。
電車は長津田駅に着いた。遊び疲れたのか、家族連れはゆっくりとした足取りで、乗換え階段を登っていく。人々の流れに逆らい、構内外れに架かる跨線橋に向かってみた。橋の下には急カーブの線路が鈍く光っている。この急カーブは通勤化で線路設備が向上したものの、線形は軍用線時代からほとんど変わっていない。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2017/07/29


ブラボー0 お気に入り登録0   ブラボーとは



コメント0件


コメントを書く1,000文字以内

Ms_noimage

コメントを投稿するにはログインが必要です。