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石北本線(上) 遠軽〜留辺蘂

【第57回】石北本線(上) 遠軽〜留辺蘂


石北本線新旭川〜網走間234kmの中でも、遠軽〜留辺蘂は湧別軽便線の一部として建設された経緯を持つ。また標高約345mの常紋トンネルをサミットとする常紋峠を越える区間でもある。蒸気機関車の時代より難所とされてきた常紋峠は、建設にまつわるさまざまな悲しい歴史が残る、人家も稀な寂しい峠路である。

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特急列車も遠軽で方向転換 峠の手前の生田原で普通列車に

デアゴスティーニ編集部

常紋峠を上る特急「オホーツク」。札幌〜網走間で運転されている。

遠軽で方向転換した特急「オホーツク」は、北海道の野辺を安国、生野と軽快に進む。もと仮乗降場の生野は、遠軽方面への上り普通列車が1日わずか1本停車するだけの秘境駅だ。特急「オホーツク」は両駅ともあっさりと飛ばして生田原に停車。ここで一旦、特急列車を降りた。
この先には、蒸気機関車の時代より乗務員を苦しめてきた急勾配の難所が待ち構えている。常呂と紋別の郡境を越える「常紋峠」だ。その人家も稀な深い自然に囲まれた山中に、石北本線の線路はか細くうねりながら敷かれている。
この常紋峠越えの区間は、特急列車で通り過ぎるのはもったいない気がして、生田原で普通列車に乗り換えることにした。

半径300m、急勾配に急カーブ、鉄道が最も苦手とする線形を行く

デアゴスティーニ編集部

秋口から春先にかけて運転される石北本線の臨時貨物列車。最盛期には3往復の列車が設定される。ゆっくりと確実に峠を上ってくるDD51重連の姿は、多くのファンの心を捉えて止まない。

遠軽からの網走行き普通列車は、深い森林に抱かれるように常紋の山道に分け入って行く。列車の速度は目に見えて落ちた。単行のキハ40の速度は30km/hくらいだろうか。車窓風景がゆっくりと流れていく。勾配は25‰で、さらにうねうねと急カーブが続いている。路傍の標識は半径300mを示す。急勾配に急カーブ、鉄道が最も苦手とする線形ではないだろうか。
この常紋峠の鉄道建設にはさまざまな逸話が残されている。とりわけ明治末期に人跡未踏の山中に初めて足を踏み入れた、実測調査隊の話は興味深い。
北見地方東北部の鉄道建設は、網走より湧別、紋別、興部を経由して名寄に至るものとして計画された。しかしこの時、網走から湧別までのルートに関して、2派に分かれての鉄道誘致合戦が巻き起こった。網走からサロマ湖畔を通る「海岸線案」と、網走線としてすでに着工していた網走〜野付牛(現・北見)間を使用し留辺蘂から遠軽を経由して湧別に至る「山手線案」である。
それぞれの地域の陳情を受け、現地調査に乗り出すこととなり、鉄道院技師の森安、安田の2人が北海道に派遣された。その際に常紋峠を越えた模様が、遠軽と生田原の町史に記録されている。
 これを現代風に要約すると……。
明治42(1909)年8月13日、湧別よりサロマ湖岸を調査してきた一行が留辺蘂に到着。この晩は温根湯に1泊した。翌14日、乗馬による30人前後の調査隊は温根湯を立ち、奔無加(「ぽんむか」金華の旧地名)沢より常紋郡境の人跡未踏の原始林に踏み入った。

人跡未踏の峠で遭難の危機に瀕した明治期の実測調査隊の苦難

デアゴスティーニ編集部

昭和7(1932)年、石北線が全通した年に新築された2代目の遠軽駅舎。町の玄関口となっている。

老木鬱蒼と昼なお暗くて深い森林地帯は、川伝いに背丈より高いクマザサが生い茂り、これを掻き分けながら馬を進めた。しかし、背の低い道産馬では容易に越えることができない風倒木が重なり合い、葡萄ツルや草ツルなども絡み、一行の行く手を遮った。案内する地元民もこの辺りは不案内だったようで、知らず知らずのうちに沢違いに踏み入ってしまったらしい。
一行は進むことも戻ることもままならないうちに、やがて日が暮れて夜になった。樺の皮を剥いでたいまつ代わりとし、足元を照らしながら馬を進めたが、なかなか予定の郡境に達することができない。皆の疲労と空腹、不安が次第に大きく膨らんでいった事だろう。遭難寸前である。
後送の食料補給隊とは真夜中にようやく連絡がついた。一行は午前2時過ぎに、やっと夕食を口にすることができたという。調査隊を迎える生田原では、到着予定時刻になっても一行が姿を見せないことを不安に思い、山中に馬で迎えを出した。猟銃の空砲を天に放ち連絡が取れて、調査隊は15日の昼近くにようやくイクタラ原野(今の生田原)に辿り着いた。
こうして遭難までしかけた末に標高580mの人跡未踏の高嶺が踏破され、鉄道建設の際には数マイルのトンネルが必要ということが明らかになった。調査隊はその日の夕刻に遠軽へ入るが、遠軽町民は家ごとに国旗や提灯を吊るして歓迎した。沿道は歓迎する人々で埋まり、中には土下座して合掌するものまであったそうだ。
現在の列車でさえ喘ぐ山中に、馬で乗り込んだ明治の人々。その苦労を思いながら車窓に見入った。

軽便鉄道として敷設された常紋峠越えの線路

デアゴスティーニ編集部

標高345mの常紋峠のサミットでもある、常紋トンネル(全長507m)の金華側坑口。さまざまな歴史を秘めたトンネルである。

遭難寸前だった現地調査の結果「常紋国境を越えるに険しい難所のため、海岸線に比較して難工事である」と復命され、海岸線案が優位に立つこととなった。
これを受けて「山手線案」側ではさらに調査を繰り返し、現在の隧道の掘削個所を発見。勾配はどうにか25‰に抑えることが可能と判断された。また中央政府に対して陳情も繰り返された。その努力の甲斐あって、常紋峠を越える山手線案の建設が明治44(1911)年に決定。ただし常紋峠を含む留辺蘂〜遠軽〜湧別間は同時に着工された野付牛〜留辺蘂間が1067mmなのに対して、軌間726mmの湧別軽便線として大正4(1915)年11月に全通した。常紋峠をはじめて通った鉄道は、正真正銘の軽便鉄道だったのである。
軽便鉄道であれ、汽車が初めて通った時の人々の喜びようは計り知れないものがあった。生田原では、村の人々が線路の両側の地面に座り、列車を拝み涙したという。
湧別軽便線は翌大正5(1916)年11月には1067mmに改軌された。結局、762mm軌間だったのは全通からわずか1年間だけだった。

常紋トンネル建設にまつわる歴史

デアゴスティーニ編集部

常紋トンネルの犠牲者を追悼する慰霊碑が、金華駅から徒歩約5分の金華小学校跡にひっそりと建つ。

エンジンを唸らせ続けたキハ40は、タイフォンを吹鳴するとトンネルに吸い込まれた。全長507mの常紋トンネルだ。標高345mの常紋峠サミットでもある。
この常紋トンネルには悲しい歴史が残る。
いわゆる「タコ部屋」と呼ばれた強制労働の存在である。タコ部屋に従事した労務者の多くは、本州の大都市で失業した者や、斡旋業者の巧みな甘言に騙され、一獲千金を夢見て渡道してきた人々だった。契約時には食事などで盛大に歓待されるも、一担タコ部屋に入れられると非人道的な扱いを受けたという。昼夜を問わない監視体制のもと、1日十数時間にもおよぶ重労働を課せられた。 粗末な食事、不衛生な住環境に耐えかねて逃亡する者も多くあった。しかし逃亡が失敗するとリンチを受け、半死半生にされる者や時には死亡する者まであった。また病死する者や熊に襲われる者も多かったという。
常紋トンネルの建設工事では、百数十人のタコ部屋の犠牲者が出たといわれている。遺体は穴を掘って埋められたり、盛り土の下に葬られたのだ。後年、この事実を証明する出来事が起きた。昭和45(1970)年に発生した十勝沖地震でひび割れたトンネル内部の補修工事の際、レンガの壁の陰から一体の人骨が発見されたのである。
完全に手作業だった当時の建設工事。現在では計り知れない悲しい出来事を、心のどこかに思いながら、常紋トンネルを通ることとしよう。
やがてトンネルを出ると、スノーシェッドに囲われて、右手に分岐する線路があった。常紋信号場跡だ。蒸気機関車の時代には多くのファンで賑わったという信号場も平成12(2000)年に廃止となり、今ではすっかり草に埋もれているようだ。
ここからは25‰の下り勾配。キハ40はうって変わって、軽快に駆け降りる。次の金華を出れば、かつて1067mmと726mmの線路が同居したという留辺蘂まで、あとひと息だ

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2017/09/30


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