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只見線 小出~大白川

風光明媚なローカル線、メインルートとしての使命を終えた幹線などなど、鉄道の旅を追体験します。沿線の名情景は、鉄道ジオラマを作る時にも、お役立ちです。


日本有数の豪雪地である奥魚沼を走る「ローカル線の王者」、只見線。全線135.2kmのうち、会津若松〜只見は会津線として建設され、小出〜大白川26.0kmの区間は最初から只見線の名称で建設された。雪深い奥魚沼を走る只見線の新潟県側を辿る。

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2番列車の発車は13時17分 超閑散ローカル線の現実

デアゴスティーニ編集部

福島、新潟の県境に聳える山々を背にして小出行き普通列車がやって来た。雪晴れの中、キハ40型のエンジンも軽やかに響く。線路際の雪も壁を作るほどではない。暖冬で例年にない少ない積雪量という。

上越線小出駅から只見線の旅を始めようと思う。上越新幹線開業以前、特急「とき」や急行「佐渡」などの優等列車が頻繁に通行したこの駅も、旅客列車の激減した現在は人影もまばらだ。
昼下がりのゆったりとした空気の中、駅本屋から離れた4番線ホームでキハ40型2両編成が静かにアイドリングを響かせている。13時17分発、会津若松行き430D。本日、小出を発車する只見線の2番列車だ。
只見線の1番列車は5時30分発なので、実に6時間半以上も運転間隔が開いていることになる。この極端な運転本数の少なさも、只見線が「ローカル線の王者」である証なのだろうか。とはいえローカル線の旅を楽しむ者にとって、この運転間隔はあまりにも開きすぎている。上越新幹線に接続し、10時頃に浦佐駅を出発して只見線へ直通する観光列車など、週末限定で運転してもらいたいと願うのである。例えば五能線の「リゾートしらかみ」のような列車が走っても良い。それほどに只見線は魅力的な路線なのだから。

例年にない暖冬の風景と豪雪との闘いの歴史

デアゴスティーニ編集部

会津若松行きの列車がゆっくりとフレームを横切った。乗客も越後三山を車窓に眺めているのだろう。

車掌の笛の音を合図に小出を定時発車。すぐに右にカーブを切り、豪快に鉄橋を鳴らして魚野川を渡る。流れる水は清冽である。車窓右手の遠方に目をやれば、越後山地の山並みが青白く輝いている。初っ端から惜しみない絶景を見せてくれる只見線に、早くも期待が募る。
魚野川を渡り、国道をくぐり抜ければ田園地帯に抜ける。一面の雪景色が陽の光を反射して眩しく輝く。遠くの山々も今日はクッキリと見える。
列車は薮神を経て越後広瀬へ。本来なら線路の両側には雪がうず高く積み上げられているはずであるが、今年は「豪雪地」という感じがしない。温暖化がこの沿線にも影響をおよぼしているようである。
 「今年は楽だな。まだ1回しか屋根の雪下ろしをしていねっけ」
隣のボックス席のお年寄りが話している。この地方の住民にとって、時に豪雪に見舞われる冬場の生活は苦労の連続であろう。雪景色を楽しみにしてきた旅人は、住民の会話に恐縮するような、複雑な心境となる。只見線といえば新緑や紅葉の美しい路線として有名であるが、冬場は豪雪に見舞われることでも知られる。特に小出〜大白川の奥魚沼地方は、時としてひと晩に身の丈以上の降雪があるほどの日本有数の豪雪地帯なのである。

今も語り継がれる「三八豪雪」の記憶

デアゴスティーニ編集部

委託の駅員氏が列車を迎える昼下がりの越後須原駅。降りた乗客は、わずかに2人のみであった。

これまで、歴史に刻まれた記録的な豪雪である昭和38(1963)年のいわゆる「三八豪雪」では、只見線沿線も豪雪の影響を受けた。
昭和38(1963)年の年頭は1月16〜31日までの16日間に奥魚沼地方では940cmもの降雪量を記録し、積雪量は510cmにも達したという。たちまち寸断された道路の代わりに、奥魚沼の生命線として持ちこたえてきた只見線も1月22日には除雪が追いつかなくなり、小出〜大白川間の26.0km全線が運休に追い込まれたという。只見線という唯一の交通路を絶たれた沿線は孤立状態となった。食料、日用必需品、ローソクなどの物資が次第に底をついてきて、住民は危機的な状況におかれた。一刻も早い只見線の復旧が望まれた。
そんな中で地域住民が結束し、小出〜越後須原間から除雪が開始された。5mという雪の下から線路を掘り起こす、必死の作業であったという。作業には守門、入広瀬の村民のべ900人が出動し、2月4日に越後広瀬までの区間が復旧した。
残る大白川までの13.9kmはさらに雪深く、積雪は5〜6mに達していた。守門村からは消防団や青壮年会の男衆約400人、入広瀬村は一世帯に一人の割り当てで約230人の合計約630人が除雪作業を行なった。大人が3人立っても届かないほどの積雪量で、3段に雪を切り取って、下段部分は雪の塊を底から引っ張り上げる作業だったという。
2月6日から始まった越後須原〜大白川間の除雪だったが、2月8日には大型のロータリー除雪車が投入され、9日には入広瀬までが開通、翌10日には大白川までの全線が復旧した。只見線は運休から23日振りに運転が再開されたのだった。

山間部に分け入って 仮乗降場だった柿ノ木駅

デアゴスティーニ編集部

只見方面へ向かう上り列車は、上条付近から秘境とも呼べる六十里越えに向けて、次第に山間へと入ってゆく。山里の入広瀬を出れば山々も間近に迫ってくるようだ。

立派な駅舎の建つ越後須原は委託駅となっており、駅員が下車するお年寄りを迎えている。かつて島式ホームを挟んで2線あった線路の駅舎寄りの一本は撤去され、交換施設が廃止されているのが確認できた。
越後須原を発車すれば、魚野川支流の破間川を鉄橋で越えて上条へ。次第に車窓両側に山が迫ってくる。山間を大きく蛇行する破間川の流れに沿って、線路は右に半回転ほども回り込んで入広瀬へ到着した。山間の駅は駅舎改築の際に「雪国観光会館」と併設された。展示の中には只見線コーナーも設けられているという。
これまでの駅では1〜2名の乗客が下車。乗車する利用者は一人も見当たらないのは、当然といえば当然かも知れない。線路はこれから新潟・福島県境の、秘境とも呼べる人煙稀な大自然の中へと進んで行くのだ。
一段と深くなった雪の中、破間川の谷を縫うように走れば5分ほどで柿の木に到着。国鉄時代の時刻表に「(臨)」のマークが付いた仮乗降場だった駅である。短いホームと国道の間には小屋のような待合室がポツンと佇んでいる。柿の木では誰も降りず、誰も乗り込まず、列車は新潟県最後の駅大白川へ向けてエンジンを唸らせた。

紆余曲折の末に開通した只見線の歴史

デアゴスティーニ編集部

大白川は長らく只見線の終点であった。現在も水槽から水を滴らせる給水塔が、当時を伝えている。

只見線の小出〜大白川間が開通したのは昭和17(1942)年11月1日のこと。冬季間は約半年もの間雪に埋もれ、外界との交通が途絶された奥魚沼にとって生命線と呼べる鉄道の開通だった。しかし、只見線が開通するまでには永い年月を要した。
小出からの建設がスタートしたのは昭和10(1935)年。しかし、翌年に発生した「支那事変」により戦時色が強くなると、昭和12(1937)年秋には工事中止命令が出されてしまった。これに対し、大白川で採掘される珪石や、戦闘機の機体の材料とされた良質なブナなどの山林資源は戦時下に必要とされ、異例の工事再開が認められたという。そうして着工から7年という歳月をかけて、小出〜大白川間が開通となった。

かつての終着駅大白川 只見線の頼もしさを垣間見る

デアゴスティーニ編集部

1日数本しか列車の来ない大白川駅。貴重な姿を記録しようと、旅人が停車中の列車にカメラを向ける。

列車はタイフォンを鳴らして、ゆっくりと大白川駅へ進入した。大白川駅は飛沫をあげて流れる破間川に面した静かな山間の駅だ。最近になって通票閉塞が廃止されたばかりで、駅は無人化されてしまう予定だという。
この先、県境に立ちはだかる六十里越を経て只見までがレールで結ばれたのは昭和46(1971)年になってから。大白川は29年間もの間、終着駅となっていたのである。駅構内の外れには、蒸気機関車時代の遺構である給水塔が現在も佇み、永く運転上の拠点として位置づけられたことを物語っている。水槽からは今も水が滴り落ちている。
並行する国道は、ここ大白川から先の県境は冬の間、通行止めとなる。この県境は冬季間、只見線が唯一の交通手段となる。赤字にあえぐ只見線が廃止されることもなく今日まで運行されているのは、そんな特殊な事情にもよる。駅を降りて国道の行止まりへ向かった。道は不意に除雪が途絶え、通行止めとなっていた。その先の国道は雪面と道路の区別がつかないほど深く雪に埋もれていた。
道路から破間川の方を見下ろせば、除雪車によって美しくトレースされた只見線の線路が緩やかにカーブを描いており、国道とは対照的に生命力が感じられた。運転本数も少ない「ローカル線の王者」である只見線が、使命感を背負っていることを実感し、急に頼もしく思えてくるのだ。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2017/11/15


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