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宗谷本線 稚内〜音威子府

【第6回】宗谷本線 稚内〜音威子府


日本最北の鉄道路線・宗谷本線。音威子府(おといねっぷ)以北の鉄路は、天塩川に育まれた森が行く手に立ちはだかり、太古の昔から変わらぬ風景が延々と続く。その山中に埋もれたような駅へひとつずつ停車していく単行気動車は、自然の深き懐の中へ、人間の息吹をわずかに伝えているかのようだ。

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凍土の大陸を目指して北への路は続く

デアゴスティーニ編集部

稚内から市街地を抜け、原生の香りが吹き抜ける丘をいくつか越えると、右手にゆったりとした面持ちの海岸線が続く日本海が一瞬広がる。遠くに霞む利尻富士は北紀行におけるとびきりの絶景だ。

早春。北辺の陽光にも勢いが感じられるようになったとはいえ、日の出から間もない稚内の駅はまだ静寂の中。路上一面を覆う積雪が、家並みの輪郭をかろうじて縁どっている。冷たく蒼い空気の中、上りの始発である名寄行き4326Dが凍てついた鉄路の精気を揺り起こすように発車した。
最北の駅を出てから5分ほどで到着する最初の停車駅、南稚内。ここはかつてその駅名を「稚内」と称していた時代がある。それは宗谷本線が天塩北線を名乗っていた頃のことだ。
現在、宗谷本線を形成している道程は259.4km。このうちの音威子府から天塩中川、幌延を経て南稚内へ至る区間は、当初は天塩線として建設された。
宗谷本線の建設は、明治31(1898)年8月12日に開業した北海道官設鉄道天塩線旭川〜永山間に始まる。名寄以北は官設鉄道として建設が進められ、大正元(1912)年11月5日に恩根内〜音威子府間が開業する。以降、路線建設は浜頓別、鬼志別など、オホーツク海側の町を結ぶ経路で行なわれた。この区間はのちに北見線(さらにのちに天北線と改名)と呼ばれ、宗谷本線とは別路線扱いとなっている。
そして宗谷本線の線路は、当時日本領であった樺太(サハリン)との間に就航していた連絡船への乗継ぎの便を図るべく、昭和3(1928)年12月26日に稚内(現・南稚内)〜稚内港(現・稚内)間2.7kmが延伸された。こうして30年の歳月を経て、宗谷本線は全通する。
昭和5(1930)年4月1日には天塩線が宗谷本線へ編入、代わって音威子府〜浜頓別〜稚内間の149.9kmが別線扱いとなって北見線と命名される。北見線は昭和36(1961)年4月1日に天北線と改名され、平成元(1989)年5月1日に廃止されるまで宗谷本線の支線として営業した。

利尻富士を眺めつつ列車は兜沼へ

デアゴスティーニ編集部

熊笹が生い茂る丘陵地の窪みに沿って敷かれたレールを頼りに、ひとりぼっちの気動車はひたすら進む。孤独な旅を孤高の秀峰である利尻富士が後ろからそっと見守っていた。

南稚内を発車した上り列車は、かつては並行して天北線が延びていた、いにしえの宗谷路へ背を向けるように、駅構内にほど近い踏切を渡る。その後、右方向へ大きくカーブを描いて、クトネベツの丘陵地帯へと躍り出る。線路の周辺には稚内の市街地に隣接しながらも、熊笹と潅木で覆われた原野が広がる。単行の気動車は小さなカーブをいくつも刻みながら、丘を掻き分けるようにして進む。
やがて、車窓に日本海の青い水面が垣間見られるようになる。すると、水平線の向こうにゴツゴツとした男性的な表情を持つ山頂付近から、ゆったりとした稜線を広げる優美な山容が姿を現した。標高1721mの利尻岳である。宗谷本線を彩る北辺の情景が、最高潮に達するときだといっても過言ではない。
最果ての地・稚内を代表する風景のひとつである日本海越しの利尻岳だが、気象条件の厳しさから車窓よりその姿を楽しめる機会はことのほか少ない。特に冬季は月に数日、白銀の勇姿が姿を見せる程度。晴れの日でも、山自体がつくり出す、雲や海から湧き上がる靄が視界を遮ってしまうことも多い。
海辺の絶景を堪能したのもほんの束の間、列車は荒涼とした笹原を抜海へと突き進んで行く。いくつも続く丘の間を抜けると勇知、兜沼。風雪をやっとしのげるばかりの待合室をしつらえた小駅が、ぽつりぽつりと現れる。構内に列車を待つ人の姿はない。

大陸の鉄路を彷彿とさせる雄大な景色

デアゴスティーニ編集部

兜沼から豊富までの沿線は酪農が盛んな地域。車窓からは随所で放牧された牛の姿が見られる。広々とした丘や野原をゆっくりと移動しながら草を食む様子は、北海道らしい大らかさを感じさせる。

兜沼ホームの南側には、駅名ともなっている沼の水面が見える。陽光に照れされて湿地帯が続いていく。ここは、1年の大半は風が山野を揺らしていく音、野鳥のさえずりが時折聞こえてくるばかりの、人影とは縁遠い原野だ。
駅周辺では北国特有のきつい傾斜の屋根を持つ民家や、酪農の施設と思しきサイロなどが散見できる。しかし、人の営みを車窓からしっかりと感じ取れるようになるのは、国道40号線が線路へ寄り添ってくる豊富の手前辺りから。しかし、それでも線路や国道の周囲1kmばかりの範囲に建物が集まるだけのことだ。南へ向かう列車の左手には奥深い天塩山地へと続く丘が常に屏風のように連なっている。
このあたり、ペンケ沼、パンケ沼などの湿原を形成している下サロベツ原野は、夏には緑色、冬には真綿色の絨毯で覆われ、その車窓風景は、大陸鉄道のそれを彷彿とさせる。
この区間の鉄道建設があと回しにされた理由がわかるように思われる。

白樺越しの天塩川の流れ 原生林が語る厳しい気候

デアゴスティーニ編集部

佐久から筬島にかけて天塩川がつくり出した谷はいよいよ深くなる。凍結した川はその表情さえも雪の下に隠す。

サロベツ南部の中心地である幌延からは、西側に道北の大河である天塩川が迫ってくる。
日本に流れる河川で4番目の長さを誇る天塩川は、道央と道東にそびえる天塩岳(標高1558m)の山中を水源としている。長さ約256kmの壮大な旅を経る清水は、留萌支庁内の天塩町で日本海へと注ぎ込む。宗谷本線にとっては、幌延から名寄近郊の風連付近まで、消えては現れる渓流だ。このあたりの鉄路は、渓流を上り下りする旅という印象を与える。
幌延から4つめの駅となる雄信内は、交換施設が健在。現在も1日に数回、上下列車が交換する様子が見られ、下り「スーパー宗谷1号」は稚内発名寄行きの4328Dと交換する。冬季には無人駅でありながら、ポイントの保守で職員が常駐する、厳寒の地ならではの側面を持っている。
雄信内の先には、左手からせり出した小山に掘られた下平隊道が口を開けている。1256mの延長を持つこのトンネルは、道北の山間部を縦断している宗谷本線で、意外にも唯一のトンネルだ。
トンネルを抜けると平成13(2001)年7月1日に廃止された上雄信内駅跡を通過。小さなホーム1面の周囲に「道らしきものがないこと」で有名であった究極の秘境駅は、すでに駅の痕跡を探すことすら難しい。
糠南付近では天塩川の支流である問寒別川が線路と絡む。山裾にいくつかの橋梁が架けられた路線形状は、悠久の水面をより身近に感じさせてくれる。宗谷本線に客車急行が健在であった頃には、山沿いに走る列車を一望できたが、周辺の木々が高く成長した今ではそれも難しくなっている。

黎明期の鉄道技術偲ばせる渓谷沿いに蛇行する鉄路

デアゴスティーニ編集部

キハ400型気動車で組成されていた時代の急行「宗谷」が蛇行を繰り返す天塩川の岸をトレースしていった。

鬱蒼とした原生林の中を大蛇のようにうねる天塩川。この大河は屈指の暴れ川でもある。支流となる大きな川こそ少ないものの、かつての「暴れ具合」を彷佛とさせる、置きざりにされた沼や湿地は数知れない。
そんな天塩川の流れをなぞる音威子府までの道は、「今どきの鉄道」にありがちな直線的な経路ではない。幌延から問寒別にかけては、ほぼ東に向かって線路は延びているが、問寒別から佐久までの区間では進行方向はほとんど南。ここからトンネルで山間を抜いて行けば、かなりの距離が短縮されるように思われるが、天塩川が再び東西に流れを変えると、それに従って鉄路も向きを変える。乗客にとっては木々の間から季節感溢れる表情を見せる川面が長く見られる。
天塩中川から筬島にかけては川幅が狭まって、深い渓谷を生み出している。鉄道黎明期の技術では、わずかに刻まれた谷筋にルートを見出すしかなかったのであろう。
左右に切り立っていた樺の木の森が開けたら、列車は川岸からしばし離れて、道北の中継所である音威子府の街へと滑り込んで行く。低い家並み越しにはガソリンスタンドやコンビニが見えてきて、日常の生活圏へと戻ってきたような気分になる。秀峰と原野と大河に彩られた宗谷本線の旅も、一段落するかのように。

木の温もりに包まれた音威子府

デアゴスティーニ編集部

高い天井が印象的な音威子府の駅舎内。先代駅舎と同じく、お座敷で列車を待てるゆとり空間も健在なり。

平成2(1990)年に改築された音威子府駅は、地域の特産品である木を基調とした明るい駅舎。旧駅舎時代には改札を出ると、入口付近の左手に畳が敷かれた空間が設けられていた。深夜に到着した夜行急行から厳寒の地に降り立った身には、寝不足の身体を横たえる仮眠所のように映ったものだった。今はカーペット敷きに変わったが、同様なスペースはほぼ同じ場所にある。利用客は今もここで近隣の小駅へ向かう一番列車を待つのだろうか。しんしんと雪の降る午後に訪れたお座敷は座る人もなかったが、窓際に生けられた一輪挿しが、人気のない待合室に、ほのかな温もりを醸し出していた。
現在の音威子府駅は鉄道駅であると同時に、枝幸やオホーツク海沿岸経由で稚内へ向かう特急バスが集まる道路交通の要所ともなっている。それらの便には音威子府での乗降客も目立つように感じられる。高い天井が気持ちのいい待合室で、運行列車の数以上に活気づく時間帯が長く感じられるのも、どうやらそうした駅のターミナル的性格が関係しているのだと思う。
多くの路線が廃止され、宗谷本線が北へ向かう孤高の鉄路となってしまった道北地方。だが、そこに人の営みがある限り、残された駅は姿を変えながらも集いの場として存在し続けていくのだろう。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2013/06/11


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