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京浜急行電鉄 大師線

【第60回】京浜急行電鉄 大師線


周囲を高層ビルに囲まれた京急川崎。2面4線のホームの堂々たる駅の高架下から「京浜の盲腸線」=大師線は出発する。この路線には、さまざまな表情があり、意外な歴史の数々も相まって興味は尽きない。

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政令指定都市の中心駅が起点 紆余曲折を経た歴史を持つ

デアゴスティーニ編集部

再開発が行なわれ、高層ビルが立ち並ぶ京急川崎駅周辺。近代的な街並みの中、大師線の線路は、どこか懐かしさを感じさせてくれる。そんな中、名車のひとつに数えられている1000型(初代)が小島新田に向けて出発する。

都心の山手線から、あらゆる方向に路線が伸びる首都圏の鉄道。路線図を眺めていると、よくもこれだけの路線を敷いたものだと、しみじみと感心してしまう。そんな中に、短い盲腸線もいくつかある。特に気になるのが、京浜地区の大動脈・京浜急行電鉄本線の京急川崎から分岐する大師線。東京都と神奈川県の間を流れる多摩川に沿い、東京湾の方向に延びている路線である。対岸の東京側にある空港線は、空港連絡輸送で盛況なのに対し、大師線の方は、失礼ながら、あまりイメージが湧いてこない。
それならば、百聞は一見にしかず。「とにかく行ってみようではないか」と、平日の朝に京急品川駅を目指した。
京急川崎駅で、本線の高架ホームから、地上の大師線のホームに降りると、そこには4両編成の1000型電車が止まっていた。
中心部から外に向かう「下り」だというのに、発車3分前ですでに満員。車内は通勤客ばかりで終始無言。路線長や駅の数を考えると乗車時間は短いはずだが、新聞や本を読む人もかなりいる。わずかな時間も無駄にしないのが、我が国の企業戦士ということなのだろうか。そんな、朝の通勤時の独特の空気が車内を包む。

駅間はおおむね1km 地元に密着した通勤の足路線

デアゴスティーニ編集部

京急川崎駅の高架の本線ホームの下で、その存在を誇示するかのごとく、大師線の案内看板が強く主張する。

発車した電車はゆっくりと進み、大きく右にカーブを描く。第一京浜国道をくぐると、最初の駅・港町に到着。「みなとまち」ではなく「みなとちょう」と読む。周囲には大小の工場が多いものの、住宅も結構な割合を占めている。朝の大師線は、沿線から通勤に行く人と、沿線に通勤して来る人の、両方向で混雑するのである。京急川崎からここまでの距離は1.2km。これが大師線で最長の駅間で、ほかの駅間はすべて1km未満。短い間隔で駅の続く「電鉄」らしさがなんともいい。
緩やかにカーブを描く港町駅を出ると、線路は直線となり、次の鈴木町までの駅間は800m。途中、運河を越える鉄橋を渡るのだが、運河とその周囲が埋めつくされているために「鉄橋」も今は昔。「効力」はあまりない。それでも鉄橋部分が高く盛りあがっていることに、思わず笑みが漏れる。
鈴木町に着くと乗客の半分近くが下車するので、つられてこちらも降りてみることにした。黙々と歩く人々の流れにまかせ、ホーム後端の改札から外に出る。そのまま先に進もうとすると、降車客の列はまるで申し合わせたかのように右に曲がり、大きな工場の敷地に吸い込まれて行く。列の先に聳える大きなビルには「AJINOMOTO」という赤いロゴ。調味料でお馴染みの、食品メーカーの工場である。
改めて駅構内を振り返ってみると、ホームは対向式に2面2線。たった今通り抜けた下りホーム端の改札は、「朝のラッシュ時専用口」。終日開いているのは「上りホームの端の改札」で、上下のホームは改札内の踏切で結ばれている……という仕組みである。つまり、一企業の工場だけのために「朝のラッシュ時専用口」を設けているというわけだ。「さすが、日本の食卓に欠かせないものを生産しているだけのことはあるなぁ……」などと妙な感心をしていたら、早くも次の下り電車がやってきたようだ。

110年以上の永い歴史を持つ京浜急行最古の路線

デアゴスティーニ編集部

川崎大師駅から「味の素」の工場への専用線の跡を見る。踏切には1067mm軌間のレールが今も残っている。

大師線の歴史は、明治32(1899)年に六郷橋〜大師(現・川崎大師)間を開通させた大師電気鉄道に始まる。同年には、社名を「京浜電気鉄道」に改称し、ここに京浜急行のルーツが誕生する。明治35(1902)年には起点側を川崎駅(現・京急川崎)まで延伸。大正14(1925)年には、海岸電気軌道が大師から総持寺間で開業するも、こちらは鶴見臨港鉄道に買収されたのち、昭和12(1937)年に廃止。現在の大師線の川崎大師から産業道路までの区間は、この路線の跡に沿っている。
また、第2次世界大戦中には、現在の終点である小島新田よりもさらに先、京浜工業地帯の奥にある桜本まで線路を到達。しかし戦後は、これら「末端部」が段階的に廃止され、昭和39(1964)年以降は、小島新田が終点となった。ただし、この時点では小島新田からから塩浜までは「休止」扱い。正式な廃止は6年後の昭和45(1970)年のことである。
さて、京急川崎から2駅、その間わずか2kmである。せっかくの下車ついでに、まだまだ潜む沿線情景をゆっくり観察すべく、歩いて京急川崎まで引き返すことにした。
件の社員や関係者で賑やかだった鈴木町駅を離れると、人通りが極端に少なくなる。先きほど電車で通過した、埋められた運河を鉄橋で越える線路を見ながら、工業地帯の中、工場と住宅が混在する場所をぶらぶらと歩いていくと港町駅に帰り着く。こちらは日本コロムビアの工場近くに開設した駅で、我が国の「レコード製造発祥の地」。駅名も、開業当初は「コロムビア前」だった。
また、この駅は川崎競馬場の最寄駅でもあり、レース開催日ともなると、大師線も増発ダイヤとなる。現在進められている再開発後、周囲はどんな表情を見せてくれるのだろう。
京急川崎を目指してさらに歩いて行くと、線路は切通しとなり、第一京浜国道の下をくぐっているのが見える。これこそ、路線開業当初の起点であり、昭和24(1949)年に廃止された六郷橋駅があった場所だ。切通しに、痕跡らしきものが見える。
ここを過ぎると、工業地帯から高層ビルが目立つ大都会へと、周囲の景観が大きく変わる。京急川崎駅を眺めると、いかにも「大手私鉄の幹線」という感じで高架線を長編成の電車が行き交う本線と、地上を4両編成でのんびり行く「昔ながらの電鉄」チックな大師線のコントラストが面白い。

川崎大師参拝の路線 立体化で変わる姿

デアゴスティーニ編集部

平日の昼間の川崎大師駅。広いホームが初詣の時期などに参拝客で大混雑することを想像させる。が、平日はこの通り。

鈴木町から京急川崎まで、普通に歩けば30分のところを、のんべんだらりと2時間もかけてしまった。さてさて、リスタートである。今度は終点の小島新田まで行くべく、京急川崎駅の改札をくぐる。
朝のラッシュは、2時間散歩のおかげでとっくに終わり、ホームは閑散としている。入線した電車は「京急110周年歴史のギャラリー号」と銘打ち、旧型車両風のラッピングを施した1000型だ。車内には京急の歴史を辿る写真が掲示されている。六郷橋〜大師間の開業から、平成21(2009)年で110周年となることを記念したイベントのひとつなのである。
1両に10数人程度の客を乗せた電車はゆっくりと京急川崎を発車。港町、鈴木町と過ぎ、本日未体験の区間に入る。鈴木町から次の川崎大師まではおよそ500m。この間、電車は「工場の脇」を通る。その工場の川崎大師側に、黄色と黒のゼブラに塗られた怪しい鉄扉がある。これは、平成9(1997)年まで使用していた貨物専用線の工場入口跡だ。
貨物列車は、ここから大師線を経由して小島新田まで行き、連絡線で塩浜操車場(現・川崎貨物駅)に接続。そのため軌間1435mmの京急の線路の内側にもう1本のレールを敷き、軌間1067mmの国鉄(JR)貨車の入線に対応していた。「怪しい鉄扉」は、その入口というわけだ。
そんなかつての横顔も見ることのできる川崎大師駅は、初詣など参拝客が集中する際に備え、ホームがやたらと広く、駅舎や駅前広場もゆったりとしている。工場のすぐ先に、門前町の駅があるのというのも、ユニークだ。なんの行事のない通常の平日昼間の駅は、利用者の数に対して「過剰なまでの大きさ」と目に映る。

立体化を目指して工事が進む産業道路駅

デアゴスティーニ編集部

首都高速道路の下を通る、大型車が数珠つなぎの産業道路。そこに踏切があるのだから、立体化が必要というわけだ。

川崎大師を過ぎ、高層マンションの谷間を抜けたかと思うと、車窓には戸建ての家が並ぶ住宅地風の風景が並ぶ。次の駅は東門前。これもまた、門前町らしい駅名だ。工業地帯の中にありながら、川崎大師周辺だけは、やはり別格なのである。
ここから先、周囲の様子は再び大きく変化する。現在、「京浜急行大師線連続立体交差事業」として大師線の線路を地下化する計画があり、その工事が始まっているからである。予定では大師線を一部経路変更し、ほぼ全面的に地下に移すことになっていて、このうち、東門前付近から小島新田付近にかけての区間の工事を優先して進められている。線路の両側の工事も、今後は線路の真下を掘削していくのであろう。
電車は、ゆっくりと産業道路駅に滑り込む。その名の通り、駅に隣接して産業道路の踏切があり、大型トラックが絶え間なく行き交っている。立体化が必要なわけである。

終点小島新田に到着 京急川崎からの所要時間は約10分

デアゴスティーニ編集部

1面1線の行止まりのホームの終点、小島新田駅。住宅と工場が密集した大都会の真ん中に、地方私鉄のような佇まいの駅があるというギャップがこの路線の面白さ。かつては手前のタクシー乗り場の位置を通り、線路は塩浜の方へ伸びていた。

車窓が普通の風景に戻ると線路は単線となり、あっという間に終点・小島新田に到着。沿線風景が目まぐるしく変化し、一瞬、ずいぶん遠くに来てしまったように錯覚するが、京急川崎からはわずかに4.5km、所要は10分ほどだ。たっぷり寄り道をしたのに、今はまだ「午前中」。なんだか得をした気分である。しかし、次にここへ来る時には立体化工事も進み、大師線も姿を変えていることだろう。開業から110年を数えながら、今なお変化を続けている路線なのだ。
さて「現在の大師線」を行く小さな旅はひとまず終了。ここから先は「かつての大師線」を探してみたい。

終点 その先に秘められた大師線の遺構

デアゴスティーニ編集部

小島新田駅の先を、川崎貨物駅(旧・塩浜操車場)を跨ぐ橋上から眺める。右に大きくカーブした道路は、塩浜まで伸びていた大師線の路盤の跡をなぞったものだ。

あの頃……。東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開業した昭和39(1964)年のこと。国鉄塩浜操車場(現・JR貨物川崎貨物駅)建設のために営業を休止し、昭和45(1970)年に正式に廃止となった、大師線の小島新田以遠の区間の遺構が、今も残っているはずなのだ。
小島新田の改札口を出ると、目と鼻の先に川崎貨物駅の広い構内が広がる。それを跨ぐ道路橋に登ると、貨物駅を挟んだ向こう側に、カーブした道路が見える。小島新田で途切れた大師線の線路の、まさに延長上だ。これが「廃線跡」である。
頭の中で、貨物駅で分断された大師線と廃線跡の道路を点線で繋ぐ。全盛期、この先に伸びた線路は工業地帯を突き抜けて3.5kmほど先の桜本まで到達し、川崎市電に接続していた。これが昭和32(1957)年、塩浜(小島新田の1つ先の駅)〜桜本間を廃止して川崎市電に移管した。
この時、川崎市としては市電で環状ルートを作るべく「大師線全体の譲渡」を望んだが、京浜急行側が川崎大師を控えて利用率が高いうえに、自社発祥の地であるということもあり、これを断った経緯もあったという。ちなみに、川崎市電は昭和44(1969)年までに全廃されているから、もしも大師線が全部川崎市電に譲渡されていたら、今は川崎大師に行く鉄道は、なかったかも知れない。
現在の大師線も立体交差化で生まれ変わろうとしているのだから、将来は、今日辿ってきた路線を「廃線跡」として探ることになるのだろうか。開業から110年の歴史を持ち、今もなお新たな歴史を刻み続ける、京急大師線。小さな路線の中にも、多くの過去とこれから始まる未来がある。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2017/12/17


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