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十和田観光電鉄

【第64回】十和田観光電鉄


基地の街、三沢から西方の内陸部へと延びる鉄道として、地域交通を支えてきた十和田観光電鉄。温泉街を抜け、三本木原の丘陵を越えて稲生川沿いに十和田市を目指す経路には、宅地化の波と昔ながらの農村集落が混在する、のどかで新しいみちのく情景が綴られていく。

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手狭な駅舎内の様子が昭和半ばの時代へと誘う

十和田観光電鉄は青森の米どころである三本木原を巡る旅。八甲田山麓に広がる火山灰が堆積してできた平野は江戸時代に行なわれた引水工事によって、地域有数の穀倉地帯に生まれ変わった。

ホームの上に駅舎が覆い被る橋上構造が、今様な都市部の主要駅という雰囲気を放つ東北本線三沢駅の改札口を出て、左手にある十和田観光電鉄の三沢駅へと向かった。駅舎玄関の重い引き戸を開けて構内に入ると、先ほど通ってきたJR駅とは明らかに異なる年代の香りを放つ空間が広がる。「鰻の寝床」という表現が当てはまる細長い待合室部分と駅事務室の間は、大部分が木製の壁で仕切られている。板張りになっている部分はかつての手荷物扱いや案内所の窓口。駅利用者の接客にはほどよい距離感だったのかもしれないが、長椅子に腰掛けて列車を待つ間、正面に聳え立つこの板壁の存在はいささか窮屈にも見える。
列車が構内に接近すると、それまでホームへの入口を閉ざしていた大きな引き戸が開けられ、改札が始まる。その改札口のすぐ横にはなぜかコンクリート造りの流し台が備え付けられている。小さな蛇口の風貌がローカル私鉄らしい、生活感のある駅を演出しているようだ。
そんな改札の向こう、前方のホームに控えているのは、ステンレスのボディが眩しい元東京急行電鉄の電車である。

温泉街の中に静かに潜むちょっと不思議な鉄路空間

三沢駅を出た列車は丘陵地に造られた渋沢庭園の脇を走る。たくさんの落葉樹が植えられた沿線は自然の森さながらの荘厳な雰囲気だ。木漏れ日の中で、盛りを迎えた見事な紅葉が車窓に彩りを添える。

三沢駅の構内を出ると、すぐ前方に数棟の多層階建てビルが視界に飛び込んできた。線路の両側には広い駐車スペースが設けられ、平日にもかかわらず遠方からの観光客を乗せてきたと思しき大型バスの姿があちこちに見受けられる。この一帯は、駅南側に広大な敷地を持つ古牧温泉の施設が集まる「三沢のリゾート地」となっているのだ。ホテル街を過ぎると、車窓は鬱蒼とした木々の中に包まれる。この「森」もホテルの所有で、木立を隔てた向こう側は池やモニュメントのある散策路。十和田観光電鉄の線路は三沢から1kmあまりにわたり、古牧温泉の敷地内を通っているのだ。
列車は進み、線路沿いに植えられたカエデの紅葉が目立ち始めた辺りで、左手に本線から分岐している軌道を見つけた。森影の奥に聳えるホテルの方へと続いている線路は、分岐点から10mほど進んだところで落ち葉に被われる。レールの一部分は、すでに使われていない施設であることを示すように、いびつに浮き上がっていたりする。それでも木々の間に消えていく1067mmの軌道を見ていると、未だ現役の奥羽の山中で、人知れず生息している森林軌道のような息吹を感じる。鉄路の後部に聳えるホテルとの取合わせは、あたかも温泉街発の特別列車用に設えた専用線を想像させる、そんな面持ちなのだ。
実はこの線路、十和田観光電鉄が貨物営業を行なっていた時代に設けられた旧国鉄の三沢駅構内との連絡線である。貨物営業は国鉄の経営合理化のあおりを受け、昭和61(1986)年11月1日をもって廃止となったものの、敷地内の線路はほとんどが放置されたまま残り、事情を知らない旅人にとっては、想像力を掻き立てられるミステリーゾーンとなっているのだ。
 もう決して切り換えられることのない山中のポイントを跨いだところで、列車はモーター音の唸りを高めた。ちらりと姿を見せた勾配票に記された数字は22.1‰。おまけに電車は右へ左へと小さなカーブに体を揺さぶるので、ちょっとした山越えの気分を楽しめる。

十和田市への道のりは稲生川の流れを遡る旅

大曲からほぼ全線にわたり、寄り添うように流れる稲生川。不毛の大地・三本木原へ「命の水」を注ぎ込むために作られた人工河川である。開業から現在に至るまで、どれだけの旅人と出会ったのだろうか。

青森県東部に位置する2つの市を結ぶ鉄道は大正11(1922)年9月5日に十和田鉄道として、古間木(現・三沢)〜三本木(現・十和田市)間の14.9kmが開業した。当初は762mmのナローゲージであったが、昭和26(1951)年6月20日をもって1067mmに改軌されるとともに、全線が直流1500Vで電化となった。同年12月31日に、社名を現在の十和田観光電鉄と改称した。なお、昭和61(1986)年11月1日の、貨物営業廃止以降の路線は、旅客営業部門を集約した「とうてつ駅ビル」に隣接する鉄道乗り場ホーム先端部までとなった。その結果、現在の延長距離は開業当初よりも200m短い14.7kmとなっている。
さて、ちょっとした山越えを終えた列車の車窓には、第二みちのく道路を潜った辺りから並行する県道との間に家並みがちらほら見えるようになり、沿線は「田舎の近郊路線」という風合いを醸し出し始めた。右手に県道が寄り添ってきたところで、三沢から最初の駅である大曲の構内に入った。現在は短いホームが1面置かれただけのごくシンプルな構造だが、かつては交換施設を備えていたという。その名残か、ホーム横には軌道を2線ほど敷設できそうな空き地がある(ただし、現在の任務はレールなどの資材置き場だ)。駅前は道路になっており、加えて周囲の民家もまばらとあれば、元は信号場としての開設という生い立ちもうなずける。そんな中、まるで当然のように乗降客がないまま、列車は先を急ぐように走り出した。
大曲を出ると踏切をひとつ過ぎてから線路は右手に90°近いカーブを描く。この線形が最寄駅につけられた名前の由来だろうか……などとひとりごちてみる旅人はさておき、列車は、2両編成ながら先頭の車窓から後方の車両を確認できるくらいに列車が急角度をつくり、床下からは車輪の軋む金属音が鳴り響いてくる。それでも勝手知ったる道といわんばかりにほとんど速度を下げることなくカーブをクリア。すると、鉄道と同じく三沢と十和田を結ぶ県道を潜った先で、左手に両岸を台形の土手で縁取られた小川が迫ってきた。
稲生川である。江戸時代に不毛の大地であった三本木原へ水を導くべく建設されたこの人工河川は、現在も地域の農業振興に欠かせない存在だ。先ほどの古牧温泉の界隈を除くと、十和田観光鉄道沿線の南側には、ほぼ全区間にわたり、稲生川が横たわっている。しかし、川が線路のすぐ横を流れるようになっても、その水面を列車から望むことはしばらくの間叶わない。川岸には背の高い堤防が築かれているからだ。そのかわり、傍らを走る電車の横には、堤防に根付いた名もない山野草の一群が、次々と流れていく。

線路際に迫る農家の庭先で季節を愛でるひととき

小さな、小さな「ふみきりにちゅうい」の看板は、沿線に点在している簡易踏切専従の番兵なのだ。

県道が踏切となって線路の南側に移ったところで、ようやく、河岸が線路よりも低い位置にきた。しかし、車窓からわずかに覗けるようになった水面と同時に、河岸がコンクリートの壁で垂直に被われていることもはっきりとわかった。いかにも「用水路」という風体で田園の中を流れる小川という牧歌的風景にはほど遠いものである。ただし、左手に流れる車窓風景に目をやると、農家の庭先で垣根の役割を果たしている竹林のざわめきや、さりげなく線路際の空き地に植えられている除虫菊の明るい黄色が自然と目に飛び込んできて、ほのぼのとした雰囲気にどっぷりと浸れる。
川のほとりに設けられた柳沢駅を過ぎると、線路は県道から離れて右に緩やかなカーブを切っていく。ほんの短い間、南側の視界を遮った針葉樹の林が途切れたと思ったら、列車は七百駅に到着。ここは現在、路線内唯一の交換駅となっていて、先行してやって来た列車のほとんどが数分間停車する。前方に対向車の姿は見えず、構内の下り方に設置されている踏切警報も鳴る気配がなかったので、ホームへ出て小休止を取ることにした。
構内の駅舎が建っている側には車両区の庫や変電所などが並び、この鉄道の主要施設が一堂に会している様子だ。模型化したローカル私鉄駅をそのまま実物大にしたような小ぢんまりとした構内に人影はなかったが、ホームから見える車両たちが気になって、次の下り列車が来るまでのひとときを過ごすことにした。次の発車時刻まではおよそ50分。沿線随一の見どころを備えた駅の周囲を一通り見て回れば、暇をもてあますこともあるまい。

ゆったりとした七百駅構内には「トテツ」の魅力が凝縮されていた

七百駅は沿線中、唯一の交換駅である。定期仕業に着く電車2編成は、必ずここで顔を合わせる。

七百構内の三沢方に設けられた車両区は閑散としていた。通学生で賑わう朝の時間帯はとうに過ぎていたが、小世帯の陣容でがんばっている車両たちは軒並み本線上へ出払っているようである。それでも2線仕様となっている単形庫の正面へ回り込んでみると、7700型が1両ずつに切り離されて庫に身を収めていた。鉄道線の運用は2編成の電車があれば賄えるので、今日は彼らが予備に回っているのだろう。
庫の前には、小さな凸形電気機関車がパンタグラフを下ろして眠っていた。日立製作所製のED300だ。貨物運用が華やかりし頃には十和田市での入換え仕業に従事していたが、貨物営業が廃止された今日では、年季の入ったモーターが小気味よい回転音を上げる機会は稀になってしまった。いつ声が掛かるとも知れないお座敷を待ちわびて側線に佇む姿は、どこか寂し気に見えた。
ホームから見て車両区のさらに奥には、鉄道線の電力を一手に賄っている変電所が建っている。部分的に石積みとなっているコンクリート造りの建物の外側には、派手な大型トランスや碍子などといった、いかにも「電気施設」な機器類が見当たらないので、ここが変電所とすぐにはわかり辛い。それでもラフなつくりの柵とは裏腹に、「高圧電流につき、関係者以外の施設内への立ち入りを禁ず」という立札が外部に向けて数カ所に立てられているのは、重要かつ危険な部署であることの証である。
立入り禁止と謳われている場所の近くに長居するわけにもいかない。薄暗い待合室が少々おどろおどろしい無人の駅舎を抜けてホームへ戻った。ふと、線路と並行している稲生川の方へ目をやると、ホームからも読みやすい位置に、川の歴史などを記載した説明板が立っているのに気づいた。やはりここは旅人が途中下車せずにはいられない魅力を備えていることを「鉄道側」もよくわかっているようだ。水路建設のいきさつや延長距離などについての「うんぬん」をひと通り読み終えたところで、東側から警報機の音がかすかに流れてきた。

桜並木は「秋の装い」目で追いながら終点へ

踏切であった旧十和田市駅への路線縮小部分。列車の来ない現在ではもちろん、一旦停止は無用である。

列車は、七百から道路より一段高くなった築堤上を、背の高い木々が並ぶ森に沿って進んで行く。すると左右の展望が開けて民家が目立ち始めたところで古里駅に到着した。何とも郷愁を誘う名を持つ駅は、短いホームに上屋だけの待合室が乗っかった素朴な面持ちだ。その、住宅地の片隅にひっそりと佇んでいる飾り気のなさが、かえって「どこか遠くへ行きたい」という旅心をくすぐってくれるから不思議なものだ。
古里から先、終点の十和田までの駅数は5つ。そのうち3駅には学校の名前が付けられている。十和田市に宿を取った翌朝、少し早起きして文字通り、駅のホームから校舎を望むことができる工業高校前駅で列車を待った。8時台の列車は、制服で窓の向こうが見え辛くなるほどの盛況ぶりである。もっとも、登校時間ぴったりに設定されている列車はこの1本のみで、ダイヤは朝夕に盛りスジが立てられることもなく、1日を通してほぼ1時間に1往復の割合で、淡々と設定されている。並行する県道にはスクールバスが運行され、自転車通学者も多い状況では、この学園通りに沿う鉄路が喧騒に包まれたのは一瞬であった。
ピンポイントのラッシュアワーを見送ってから再び十和田へ向かった。稲生川の岸辺がコンクリートから石や盛土となり、用水路から小川の風情になると、土手には桜の並木が目立ち始めた。国道4号線を潜ると、その数はより密度を増していく。桜のアーケードは、終点近くの十和田市街地へ入るまでほとんど途切れることなく続くのだ。花の季節にはさぞかし見事な車窓となるのだろう。訪れた秋の盛りの中では、桜の代わりに黄桃色の紅葉が帯のように続き、それはまた丹念に育てられた並木道を華やかに飾っていた。車窓を彩る柔らかな色に魅せられているうちに、列車は終点十和田市に到着した。
ホームの先には車止めが設けられ、軌道はそこで終わっていた。しかし、構内の片隅からは2条のレールが、さらに市街地の方へと延びていた。その行方がいかにも気になり、駅を出て稲生川を渡り、線路の敷かれている方向へ歩いてみた。十和田駅の旅客施設が現在の駅ビルに統合される前は、現ホームより数百メートル先に旧・十和田駅があったのだ。しかし、駅があったと思しき西方を望むと、その辺りには数軒のビルが建ち、もはや鉄道の面影はなかった。それでも何か旧線の足跡が見つかるのではと思い、駅の先へと足を進めてみた。
当の軌道は草生した狭い空き地を抜けると、人や車の往来が激しい道路を跨いでいる。踏切だったその一角には、路線の縮小後もアスファルトに埋没することを拒むレールが、象嵌細工のように埋め込まれていた。薄曇の淡い陽射しを虚ろに反射するその姿は、変わりゆく鉄路を、街を、駅を取り巻く人の流れを、寡黙に傍観しているかのようだった。さらに駐車場のブロックへその身を隠したレールの先端部分は、間近に見えている十和田駅の行止まりホームよりも、よりリアルな「終点」と映った。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2018/04/15


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