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土讃線(前編) 多度津〜阿波池田

【第7回】土讃線(前編) 多度津〜阿波池田


四国を横断する主要幹線の土讃線。その序章区間といえる多度津〜阿波池田間は、四国のJR線発祥の区間、多度津〜琴平間を含む。また、猪鼻峠越えとスイッチバックの坪尻、吉野川を越える壮大な線形は変化に富み、旅人を魅了する。

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四国JR線発祥地の多度津発 鉄道黎明期の歴史に触れる旅

デアゴスティーニ編集部

跨線橋から多度津駅構内を見下ろす。鉄道の要衝である運転上の重要性を、側線の多さや大きな時計からうかがい知ることができる。

四国の2大幹線、予讃線と土讃線が合流するジャンクション、多度津(香川県)。土讃線はこの多度津を起点として高知県の窪川までの198.7kmを結ぶ。
多度津駅前のロータリーには、「四国鉄道発祥の地」の記念碑が建つ。
明治22(1889)年5月23日、丸亀〜多度津〜琴平間が讃岐鉄道の手により開通した。これは明治20(1887)年に開業した伊予鉄道、松山〜三津間に続いて四国で2番目の開業である。讃岐鉄道は明治39(1906)年に鉄道国有法によって官営となり、のちに国鉄を経て現在のJR四国に引き継がれた。このため多度津を起点とした丸亀と琴平への区間は、JR四国の路線では最も古い「発祥」の区間となっているのである。
 その由緒ある多度津を起点に、土讃線の序章区間、阿讚山脈を越えて吉野川沿いの阿波池田までを辿ってみた。

「こんぴらさん」を目指した讃岐平野に敷かれた4本の鉄道

デアゴスティーニ編集部

琴平駅のホームにある洗面台は、帆掛け船を模した凝った造り。「こんぴらさん」こと金刀比羅宮は海運の守り神だ。

多度津は鉄道の要衝である。讃岐鉄道から引き継いだ鉄道車両工場も存在する。かつては、駅構内には機関区や客貨車区があり、広大なヤードには数多くの客車や貨車がひしめいていた。現在も多くの側線が存在し、当時の様子を偲ばせる。中でも構内の跨線橋脇に建つレンガ積みの給水塔は、機関区が存在した貴重な遺構といえる。多度津を出た列車はその重厚な姿を見ながら、左に大きくカーブして予讃線と分かれた。
土讃線の中でも多度津〜琴平間(11.3km)は、昭和62(1987)年3月に、四国の国鉄線で最初に電化された区間である。乗車した121系電車はこの時に誕生した、3扉のセミクロスシート車だ。
2両編成の電車は讃岐平野の真っ只中を軽快に走る。車窓左手遠方には、讃岐富士と呼ばれる飯野山が望まれる。優美な円錐形の山容だ。金蔵寺、善通寺と停車し、右手に「こんぴらさん」で有名な金刀比羅宮が鎮座する象頭山を望み、「ことでん」こと高松琴平電気鉄道をオーバークロスすれば、間もなく琴平に到着だ。
かつては、琴平を目指す鉄道がほかにも2路線あった。ひとつは琴平参宮電鉄(大正11年開業、昭和38年廃止)で、坂出から丸亀を経由する路線と、多度津桟橋からの路線が善通寺で合流し琴平を結んだ。もうひとつは琴平急行電鉄(昭和5年開業、昭和19年休止、昭和29年廃止)で、こちらは坂出から直線的に琴平を結んでいた。国鉄(JR)土讃線、高松琴平電気鉄道(現存)、琴平参宮電鉄、琴平急行電鉄と、かつて讃岐平野には、本州からの連絡航路を接続するかたちで、4本の鉄道が琴平を目指して敷かれていたのである。当時から海運の守り神「こんぴらさん」こと金刀比羅宮が、いかに賑わっていたかをうかがわせる。
さて、JRの琴平駅で下車すると、ホームでは「こんぴらさん」らしい帆掛け船を模した洗面台に迎えられた。なかなか意匠を凝らしている。天井の高い広々とした待合室を通り抜けて駅舎の正面に回れば、半月形の窓を配した三角屋根のモダンな洋館風のデザイン。この駅舎は昭和11(1936)年に竣工。歴史を感じさせるこの駅舎を、いつまでも大事に使い続けて欲しいものだ。
駅舎に併設して鉄道展示館があるというのだが、入館にはあらかじめ連絡が必要とのことで、鍵がかけられていた。

食堂車に女子給仕まで存在した讃岐鉄道の先鋭的な列車サービス

デアゴスティーニ編集部

昭和11(1936)年に竣工した琴平駅舎は洋風のデザイン。

さて、ここまで辿ってきたのは旧・讃岐鉄道の建設した路線だが、讃岐鉄道といえば先鋭的なサービスを行なっていたことで知られている。今では想像することさえ難しいが、高松〜琴平間の列車に食堂車を営業していたのである。
讃岐鉄道が丸亀から高松までの路線を開通させたのは明治30(1897)年のこと。明治36(1903)年には山陽鉄道による本州との鉄道連絡船が就航。岡山〜高松間、尾道〜多度津間が船で結ばれるようになった。食堂車が営業をはじめたのはちょうどその頃。洋食が中心だったという食堂車は、2軸の小さな車両を半分に仕切った合造車両。1〜2等車は本格的な食堂だったほか、3等車との合造車にはビュッフェの前身ともいえる供食設備が設けられていた。
そんな讃岐鉄道の食堂車には、物珍しさだけで利用する乗客もあったという。中にはナイフとフォークの使い方もわからずに、出されたビフテキを前にしてジッと眺めたまま列車に揺られた乗客もいたとの逸話も残されている。さらに驚くべきは、食堂車には容姿端麗な「女子給仕」が乗務していたこと。まだまだ女性が外で働くことが稀だった明治時代、地方の私鉄で颯爽と働く彼女らの姿は、相当な話題を呼んだ。時代の最先端を行く讃岐鉄道の女子給仕たちは、羨望の眼差しを一身に受けていたようである。
讃岐鉄道が走った時代、高松から琴平まで44.3kmの所要時間は2時間と少し。列車のスピードが現在の半分以下だったとはいえ、特急列車に車内販売もない現在の鉄道旅行とは比べられない贅沢が、明治期の鉄道には存在した。そんな、鉄道黎明期のエピソードに思いを巡らせながら、列車に揺られるのも楽しいものだ。

讃岐財田で途中下車タブの木が茂る駅前で小休止

デアゴスティーニ編集部

樹齢700年という、タブの木に覆われた讃岐財田駅。

琴平からの土讃線は非電化区間となるため、次に乗車する阿波池田行きはディーゼルカーとなる。できれば、その昔四国各地で急行列車に使用されたキハ58に乗り、いにしえの気分に浸りたかったが、現れたのは単行のキハ54だった。ステンレスボディをエンジンに震わせると、ゆっくりと琴平駅をあとにした。
車窓にひろがる田園地帯には、ところどころ麦畑なども見られる。降雨量の少ない讃岐地方は、古くから農業用の溜池が盛んに造られた。弘法大師によって修復されたと伝えられる満濃池はその代表格。車窓から望むことはできないが、地図を広げると土讃線のすぐ傍を通っているようだ。
列車交換設備のある塩入を出ると、列車は山間部に分け入ってゆく。築堤上に建設された黒川の次は讃岐財田。猪鼻峠を控えた讃岐財田は、どこか気になる駅の佇まいだった。思い切って列車を一本遅らせることにして、途中下車してみた。
琴平から南下し、阿讚山脈を越えるルート案はほかに、曼陀、東山の2ルートが存在したという。紆余曲折の末、ルートは猪鼻峠越えに決定。讃岐財田までの線路が大正12(1923)年5月に開通した。讃岐財田から阿波池田までは、この先に立ちはだかる猪鼻トンネルの完成を待ち、開通したのは昭和4(1929)年になってからである。
讃岐財田の小さな駅舎を抜けると、駅前は鬱蒼とした枝葉に覆われていた。樹齢700年になると伝えられるこの大木は、タブの木と呼ばれる樹種でクスノキ科の常緑広葉樹だ。鉄道が開通する以前からここに立っていたのかは不明だが、あえてこの場所に駅を設置したとすれば、当時の人々はなんと感性豊かだったのだろうと感心してしまう。
駅舎の待合室も清掃が行き届き、無人なのに温かさが感じられる。「タブの木会」と呼ばれる地域の方々が、昔から駅の美化に努めているらしい。待合室には感謝状が飾られていた。駅に温もりを感じたのは、地域の人々の思いが、佇まいとなって表れていたからなのだろう。
まったりとした時間が流れる昼下がりの讃岐財田駅。涼しい木陰で昼寝でも……、などと思ってしまうほど気分がゆったりとしてくる。幹線道路から離れていて、静かなのもいい。巨大なタブの木を飽きずに眺めていると、静寂を破るように構内踏切が鳴り出した。すっかり気に入ってしまった讃岐財田をあとにする時間となった。

長大な猪鼻トンネルを抜けてスイッチバックの坪尻駅へ

デアゴスティーニ編集部

スイッチバックの坪尻。普通列車が停車する脇を岡山に向う特急「南風」が駆け抜けて行った。渡り線は近年シンプルな構造に改良された。四国内に存在するスイッチバック駅はほかに土讃線の新改のみ。

讃岐財田からの車窓は、緑のトーンがさらに深くなった感じだ。山間部に突入し、エンジンの唸りも一段と高くなる。いよいよこの区間のクライマックス猪鼻峠越えだ。勾配は25‰が続く。列車のスピードが目に見えて落ちてきた。列車はやがて全長3845mの猪鼻トンネルに突入。掘削に6年の歳月を費やしたというこのトンネルは、開通当時は日本で3番目に長いトンネルだったという。
この頃になると工事の技術は以前よりは進歩していたとはいえ、猪鼻トンネルを含む大小9カ所のトンネル工事では10人の尊い人命が犠牲になった。また、山岳地帯の工事はおよそ2000人にもおよぶ負傷者を出したと記録される。先人たちに感謝しつつトンネルの闇を見つめることとしよう。
キハ54型は前面の展望がいい。かぶり付きでトンネル出口を見つめる。トンネルの先にはスイッチバックの坪尻駅が待っている。坪尻は列車行違いを目的に設けられた信号場を、昭和25(1950)年に駅に昇格したものだ。
列車は一度待避線に突っ込んだあと、バックで本線を横断しながらゆっくりとホームに入る。坪尻の駅舎は今では珍しい木造だ。この駅の周辺に人家は見当たらず、最近では「秘境駅」などとも呼ばれる。以前は駅員も常駐したらしいが、寂しい職場だったと想像する。

峠を駆け降り箸蔵から佃へ 地形に沿った線形で吉野川を越える

デアゴスティーニ編集部

猪鼻峠から箸蔵を経て佃への線路は、自然地形をダイナミックにトレースして建設された。箸蔵を出発した普通列車が峠を目指し勾配を上る。はるか後方では駅で交換した特急列車が進行方向を90°反転して長い吉野川橋梁を渡ってゆく。

坪尻を発車。単行列車は一転して転がるように軽快に坂道を下って行く。複数のトンネルを抜けると吉野川の形成する河岸段丘の谷あいに躍り出た。眼下には吉野川の水面が輝いている。箸蔵山の中腹に位置する箸蔵では、列車の先頭は完全に東方、つまり吉野川下流に向かっている。目指す阿波池田はこれより上流にある。箸蔵を出てさらに下流を目指す列車は阿波池田から遠ざかって行く。すると列車は大きく右にカーブを切り、長大な鉄橋を豪快に汽笛を鳴らして渡り出した。14のガーダーと4のトラスで構成される、橋長571mの吉野川橋梁である。眼下には吉野川の蒼い流れが水しぶきを上げる。橋梁を渡ると線路はさらに右にカーブして、左手から徳島線が合流。佃に到着だ。箸蔵を発車してからまるでブーメランのような線形を通過するうち、列車の向きが180°変わり、列車の先頭はいつの間にか吉野川上流の阿波池田の方向を向いていた。
現在ならば長大トンネルや高架で、直線的に線路を建設してしまうだろう。しかし、土讃線が建設された時代には、こうして自然の地形と上手に付き合いながら線路が建設された。だからこそ、土讃線はいくつものダイナミックな風景を車窓に見せて旅人を魅了するのだろう。
佃を出た列車は阿波池田へ。
山に挟まれた阿波池田の広い構内に列車が進入。ホームに残された古びた洗面台が、列車の到着をひっそりと迎えていた。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2013/07/22


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