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札沼線(上) 桑園〜石狩当別

【第72回】札沼線(上) 桑園〜石狩当別


桑園〜石狩沼田間を結ぶも、やがて新十津川までの盲腸線となった札沼線。近年では沿線のベッドタウン化により単線から複線へ、そして一部は高架化されるなど通勤路線へと変貌を遂げた。

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朝ラッシュで賑わう札幌駅 長い編成の気動車が入線する

どこまでも広がる住宅地を貫いて3両編成の気動車が北上する。札幌通勤圏のベッドタウンとして開発が進む地は広大な農地だった名残りを防風林に残し、単線の線路は複線と高架橋へと変貌を遂げた。学園都市線の名に相応しい景色が続く。

ディーゼル特急や近郊電車が次々とやってくる朝の札幌駅。高架ホームにはラッシュ時の張りつめた空気が漂い、特急列車のエンジンとスラブ軌道の轟音に包まれている。その一番北側のホームが、近郊列車、特に札沼線用に割り当てられている乗り場だ。 石狩当別行き列車の到着を促す機械音声がホームに鳴り響くと、白いボディの気動車が入線してきた。堂々とした5両編成の気動車だ。気動車といえば「短編成のローカル線」という印象が強いのだが、長い編成の車両から人々がどんどん降りてくる様子を見ていると、ローカル線のイメージとはほど遠い、都会の喧噪感がビシビシと伝わってくる。5両編成の気動車は降りる人々で車体を左右に、大きく揺らしている。 ここ札幌で2両が切り離されて車庫へ行き、残り3両はそのまま折返しの石狩当別行きとなる。札沼線には通勤輸送に適した3扉ロングシート気動車も導入されているが、これから旅をともにする石狩当別行き車両は客車改造の2扉気動車。ボディの角張った形状、側面の2重窓やドアなど、客車時代の面影を随所に残している。車内へ足を運ぶとボックスシートが整然と並んでいる。ただ、混雑緩和のためか車端部にあったデッキ仕切は撤去され、片側のボックス席は2人掛け用に小さくなるなど、どうやら通勤・通学輸送に適した改造が施されているようだ。 車内は、沿線の学校へ通う学生たちで席はあっという間に埋まってしまった。気動車は多くの学生を乗せ、重いエンジン音を響かせて発車した。

気動車同士が行き交う高架区間と複線の線路

札沼線と函館本線の分岐駅、桑園の3・4番ホームが札沼線専用に割り当てられる。大きな行先案内板が目を引く。

札幌をあとにした気動車は、分岐駅である次の桑園までは函館本線上を走る。その隣には函館本線の複線が寄り添っている。この区間、路線扱い上は函館本線なのだが、複線である函館本線とは別に札沼線用の単線が設置されているのである。札沼線は本数が多いからだろうが、名の知れた動脈幹線と併走とは、札沼線もなかなかやるものである。 気動車は、桑園を過ぎ函館本線との短い併走に終わりを告げると、架線柱の下をくぐり抜け、進路を北へ向け加速し始めた。 地上より1段高い車窓からは、大小のマンションに家々の屋根がどこまでも続いて見える。屯田兵入植で開墾された平野は今、農地ではなくさまざまな建造物がひしめきあっている。きれいに区画の整った街並には、直角的な屋根である耐雪仕様の家々が所狭しと並び、ほかの都市とはひと味違う「北の大地の住宅都市」をじっくり見て取れる。 停車する駅はといえば、一見どこにでもあるようなホームながら階段はドアで仕切られ床面には融雪ヒーターという、寒冷地特有の設備が整っている。加えて車窓からの風景も、住宅都市を走る光景はどの地域も同じかと思いきや、雪対策を施された家々やホームがあってなかなか面白い。雪の降りしきる真冬ともなるとまた異なった北の都市が眺められるのであろう。それにしても架線柱がないのは空が広く感じられ、心地よい。 新琴似を出発すると、徐々に地上へと降りてきた。これから先、複線非電化の線路が街を縦断していく。 「学生の時は単線で汽車も短かったけど、いつの間にか都会と変わらない路線になっちゃって……」 席を一緒した30代のサラリーマンが、急速に変化を遂げている札沼線をこう語る。かつての姿を知るものにとって、この十数年の発展は驚きなのだ。

幾度の計画変更で建設へ 拓殖から通勤へと変貌する

地上から高架へ。架線柱も設置された桑園の分岐地点は背後に高層マンションが建ち、小方面を目指す電車を遠く望みながら、気動車はエキゾーストノートを残し去っていく。

長編成の気動車行き交う札沼線が産声を上げたのは、昭和になってからのことである。とはいうものの、基本計画そのものは明治38(1905)年まで遡り、名称も「石狩川右岸鉄道」というものだった。当初の予定では銭函を起点として石狩湾沿いから月形、新十津川へ、また、当別町を通って浜益〜増毛方面へ至る計画もあったようだ。日本海へ迫る断崖絶壁と深山幽谷の山々を通って増毛へとは、今から思えばずいぶん無謀なようにも思えるが、当時の人々にとって鉄道というものはそれほどまでに絶対無比の存在だったのだろう。 その後、幾度となく計画が変更されるうちにご多分にもれず政治力なども働き、当時の帝国議会で札沼線建設を採択させた議員の名を取り「あずま鉄道」と揶揄されたこともあったという。それでもなんとかかんとか建設へと漕ぎ着け、昭和2(1927)年に石狩沼田方面から着工するも、札幌側の分岐駅が桑園か苗穂かで争奪運動が発生するなど、建設はなかなかひと筋縄ではいかなかったようだ。ようやく桑園〜石狩当別間が開通したのは昭和9(1934)年のことだった。石狩沼田まで111.4kmが全通したのは、その1年後である。
開通後は沿線の拓殖や農産物等の輸送はもちろんのこと、一時期当別町で産出された石油の原油がタンク車で運ばれるなど貨物輸送で本領を発揮したが、函館本線が近接するという「立地条件」が裏目に出てしまい、新十津川以北では閑散状態が続いてしまう。やがて昭和47(1972)年、新十津川〜石狩沼田間が廃止され、現在の盲腸線となる。このとき、線名には石狩沼田の「沼」が残された。 そして現在。札沼線沿線は昭和50年代のベッドタウン化で急速に開発が進み、特に石狩川辺りまでは今でも新興住宅地が次々と造成されるなど、輸送目的を拓殖から通勤へと変え発展を遂げた。さまざまな学校も沿線住宅地に点在するようになり、愛称も「学園都市線」と冠された。 特に、目に見えて大きく変貌したのは昭和63(1988)年、函館本線の線路が高架化され、分岐駅でもある桑園も高架駅となった頃のことである。駅や沿線の発展とともに新駅が次々と誕生し、線路設備はベッドタウン輸送の要となる。平成7(1995)年には、太平〜篠路間3kmで始まった複線化事業は徐々に範囲を広げ、また桑園からが地上となり、単線であった線路は街の発展による交通渋滞緩和を目指し、平成12(2000)年に新琴似までが高架化された。この高架化で、桑園〜あいの里教育大に至る15kmの区間が複線となったのである。 ここ数十年でインフラ整備は急速に進行し、飛躍的に運行本数の増えた気動車同士が何度もすれ違う。しばらくは非電化のままのようだが、高架橋には架線柱の受けがあり、いつ電化されても不思議ではない輸送密度となっている。戦後は一部区間廃止という痛手を負ったローカル線は今、道内有数の通勤路線へと出世したのだ。

架橋工事で難航を極めた 道内一の長さを誇る鉄橋

雄大な流れの石狩川は、まさしくスケール大きい大陸的な大河だ。大きい河を前に気動車は小さく見える。確かにこれほどまでの大河が相手では、架橋工事が難航を極めたのも頷ける。川を隔てて住宅地は広大な田畑へと変貌する。

気動車は、あいの里教育大駅へ向けて淡々と走る。車窓に流れる景色は、住宅地の合間から徐々に緑が増え、街並に少し変化が訪れてきた。そして一瞬、農地かと思う広大な敷地が現れた。どうやら開発中の造成地のようだ。この敷地もじきに宅地が軒を連ね、街並はまた変わるのだろう。 やがて車内が賑わってきた。学生たちがデッキへ鈴なりに並びながら、友人との会話で夢中になっている。駅のあるニュータウンは大学もあり、ホームにも若者たちの姿が圧倒的に目につくようになってくる。 この先、線路は複線とも別れを告げ、いよいよ単線となる。 「ガタガタッ、ガタガタッ」 足下で賑やかな音がしてポイントを渡った。高架から地上へ降りて、さらに複線から単線へ……。どことなく歴史を遡っている気もしてきたな、などと考えていると、あっという間に新興住宅地の中の無人駅、あいの里公園に停車した。ここで折返しとなる本数は約20本。1日の本数からすると札幌発の約半分が石狩川を「渡らない」計算になる。しかし、いま乗車中の列車は石狩当別行き。このまま石狩川を渡り、先へと進んで行く。 徐々に新興住宅地に立ち並ぶ家々が遠のいてきた。広い空には高圧塔が聳え立っている。気動車のエンジン音が高まりスピードが上がると、トラス橋の黒い影が窓を横切った。母なる河といわれる石狩川の雄大な姿が車窓に映る。列車はトラスに包まれながら長い鉄橋を快走する。いつまでも、いつまでも橋を渡っているように感じられる石狩川橋梁は全長1074m、鉄道橋としては道内一の長さを誇っている。 この1kmにおよぶ橋を渡っていると、架橋の苦労がしみじみと伝わってくる。事実、建設は比較的平坦で難所もない札沼線の中で、群を抜いての大工事であったという。 昭和7(1932)年に起工された篠路〜石狩当別間は、大部分の工事をここ石狩川橋梁に費やした。測量時は冬期に川面が凍ることを利用し、誤差のある三角点測量ではなく、氷上での実測を用いて測量されたという。しかし河口に近いため土質が非常に柔らかく、水面から20m以上も掘削して橋脚を建てねばならなかった。潜函工法という一般的な工法で造られた橋脚数は40以上にのぼり、軟弱な土質を避ける基礎工事は難航を極めた。基礎だけで半年を要したとも聞く。橋桁は、軟弱な土質の川部分をスパンの長い曲弦ワーレントラス、河原部分は短いスパンのガーダー橋をそれぞれ採用。こうして石狩川橋梁が完成し、昭和9(1934)年に石狩当別までの開通の日を迎えたのである。 ところが昨今の車両大型化や、架橋時から「橋はもって50年」といわれていた軟弱な土質がスピードアップの弊害ともなり、平成13(2001)年に架替えとなる。現行の橋梁が完成されると、残念なことに大工事を経て架橋された旧橋梁はあっという間に撤去が進み、今となってはその痕跡すら見つけることはできない。かつて優雅な弧を描いた橋梁に取って代わり、列車の背丈の倍以上ある近代的な連続トラス橋が新しい石狩川の顔として対岸を結んでいる。

石狩川を境に都市から田畑へ 車窓は目まぐるしく変わる

石狩当別が近づくにつれ、住宅群もまばらになり空が広く感じられる。誰も通らない道路にまたがる踏切の警報機が鳴ると、やがて列車が夕焼けを浴びて札幌へと急いでいった。これから帰宅の途に着く人々を乗せるために……。

列車が石狩川の長い鉄橋を渡ると、そこには一面の田畑が広がっていた。札幌から永らく建物ばかり見てきた目に穂をつけた麦畑と田んぼが飛び込んでくる。都会的な光景は消え、青々とした広大な農地にカマボコ形の建物が点在する、いかにも北海道らしい光景が広がっているのだ。まるで石狩川を挟んで、別世界に迷い込んだ気分である。 田畑の中をレールのジョイント音が高らかに鳴り響く。駅間の距離も一気に長くなってきた。3両編成の気動車は、列車の終点石狩当別までラストパートをかける。 「当別川の横べりに当たる線路の所だけは土質がしっかりしてるんだ。だから昔の人は汽車が建設って時に『絶対にここを走る』って信じてたんだぁ」 あるご老人が当時の様子を思い出すように語る。そのしっかりとした足下を踏みしめながら、車両は颯爽と農地を疾走している。 石狩当別まではあと一歩。車窓はすっかり緑と黄金色に染まっている。気動車の動きが惰性から制動の音へと変わると、最寄りの大学へ通う学生、近隣の高校生に地元の人々などなど、乗客がポツポツと立ち上がり始める。列車は石狩当別へ静かに滑り込んで行く。 隣のホームには単行気動車から「新十津川行きワンマン列車……」と自動放送が流れている。学生たちは最寄り駅である次の駅、北海道医療大学まで行くようで、続々と新十津川行き車両へ乗り換えている。その横を数人の下車客が駅舎の階段に向かう。ホーム反対側の札幌方面乗り場には、多くの乗客が列車を待っている。さまざまな目的でこの駅を利用する人々が行き交う中、新十津川行きは相変わらずマイペースにアイドリングをしている。やがて、札幌行きの上りが反対のホームへ到着した。今しがた乗ってきた車両は、上りホームに停車中の札幌行きへと連結され、発車の時が来るのをじっと待っている。 束の間の活気を見せている石狩当別駅、その日常に今、身を委ねている。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2018/12/15


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