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札沼線(中) 石狩当別~新十津川

【第73回】札沼線(中) 石狩当別~新十津川


学園都市線として通勤輸送に精を出す顔と、石狩当別から先の、のどかなローカル線の2つの顔を持つ札沼線。石狩当別を過ぎると利用者も本数もグンと減り、単行の気動車が「カタコト」と走る、都会にはないゆったりとした時が刻まれる。

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長い編成から単行へ乗り換える 札沼線で最も規模の大きい駅

何十年もしっかりと立つ「ハエタタキ」の列、バラストが踏み固まった細い線路。やがて線路から微かに車輪の擦れる音が聞こえてくる。青々した草木を揺らしながら、1両の気動車がゆっくりとした足取りで走り抜けていく。

石狩当別駅に降り立った。ホームは近代的な上屋に覆われ、近年建て替えられた立派な橋上駅舎に、陽光が射し込んでいる。ここはかつて貨物列車の入換えや蒸気機関車の補給で賑わいを見せていた駅である。貨物も蒸気機関車もなくなった今、昔日を偲ぶものはわずかだが、それでも規模は、開業時から変わらず札沼線内で一番大きい。構内は新十津川方面への乗換えと札幌方面の折返し列車で、しばしの活気に満ちている。といっても、利用者の大部分が上り列車に集中しており、新十津川行き乗り場はどこか閑散としているのだが……。 長編成の列車が停まる上りホームに対し、下りホームでアイドリングしている車両は単行気動車だ。これから約50kmにおよぶ道程をこの単行気動車に揺られていく。 車内へ一歩足を踏み入れてみると、陽光で反射して眩しい白を基調とした外観にはどこか不釣り合いな、国鉄時代から変わらない青いモケットシートの4人掛けボックス席がズラリと並ぶ。空調は「JNR」のロゴが渋く輝く扇風機だけ。記憶の彼方へと忘れ去りかけていた素朴な車内風景だ。扇風機のボタンを押し窓を開けると、いよいよ「列車の旅が始まる」高揚感がじわりと湧いてくる。扇風機の音に混ざり、大学生たちの会話が聞こえる車内は意外と賑やかだ。新十津川まではワンマン運転、発車時刻が迫ると運転士が慣れた手つきで戸閉め作業を行なう。開けた窓からエンジンが高鳴る音がダイレクトに伝わり、気動車は石狩当別をあとにした。

開通後から赤字がつきまとい波瀾万丈な歴史を歩む

放牧中の牛はトコトコと走る気動車など知らんぷり。青々とした絨毯の上でまったりと草を食べて寝転んでいた。

次の駅、北海道医療大学までは数分の距離。石狩当別を発車して間もなく町並みは遠ざかる。「タタン、タタン」という単行気動車らしいジョイント音が開け放った窓から風とともに運ばれ、のんびりとしたローカル線気分になってくる。車内には話に花を咲かせる学生がいるといっても、人数そのものは十数人だ。札沼線の末端区間である石狩当別〜新十津川間の乗車率はかなり低く、この学生たちも次の駅で降りていく。 閑散とした末端区間は現在に始まったわけではなく、開通時から同じだったという。 札沼線は明治38(1905)年、石狩川右岸鉄道という名称で計画が立ち上がり、沿線地域の開発・拓殖などを目的に昭和2(1927)年に起工された。当初、接続駅となる桑園と石狩沼田からそれぞれ部分開業していったため「札沼北線・南線」という名称で建設は進められ、平坦な地形に順調に延伸していった。昭和10(1935)年には石狩当別〜浦臼間が結ばれ、晴れて札沼線として全通。沿線の拓殖、農産物などの運搬にと、早速活躍を始める。ところが桑園〜中徳富(初代、現・新十津川)間以外は、開通間もなく厳しい経営状態に陥った。理由は石狩川を挟んで近接した地に、より便利で優等列車も走る函館本線がすでにあったからだった。一番近接する、石狩橋本(現・廃止)と函館本線滝川の距離は約3km。物資と人々は滝川へ流れて行き、中徳富以北は閑散としてしまう。さらに追い打ちをかけるように、太平洋戦争の激化による資材不足で不要不急路線に指定。昭和18(1943)〜19(1944)年にかけて、石狩当別〜石狩沼田間が営業休止に追い込まれる。線路は間もなく撤去され、樺太(現・サハリン)の鉄道敷設に転用された。海を渡った線路は二度と帰ることなく、札沼線は石狩当別で途切れたまま終戦を迎える。 戦中から戦後にかけて、線路が撤去された区間は代替バスを運行するが冬期は運休となる。そこで、馬橇で物資と人を運ぶという不便を強いられていた沿線の人々は復活運動を起こし、線路の復元工事が進むこととなる。閑散さが目立ち一度休止となった線路がまた復活、とは腑に落ちない気もするが、不要不急路線は「復活を前提とした休止扱い」が一般的な意味合いであったのと、万が一函館本線が不通になった時、札沼線が代替線の役割を担えるという見方もあったのだろう。沿線町史など当時の資料をひも解いても明確には判明しないが、幾つかの要因が重なって復元となったようだ。休止区間は昭和21(1946)年12月の石狩当別〜浦臼間を皮切りに、全線が復活したのは昭和31(1956)年11月。また昭和28(1953)年に、中徳富は駅復活に合わせて新十津川と改称された。だが今度は、自動車社会の発達が旅客と貨物を減少させ、せっかく復活した新十津川以北も国鉄の赤字線区に指定されてしまう。新十津川〜石狩沼田間は沿線の廃止撤回運動も虚しく、ついに昭和47(1972)年6月に廃止となった。 札沼線は休止と廃止、二度も盲腸線を経験した希有な路線なのである。現在、終点が新十津川となっても低い乗車率は依然として変わらない。途中駅の浦臼までは折返し列車が何本かあるが、終点まで運行される本数は1日に3本と、超閑散路線である。 いつ廃止されても不思議ではない状況の中、たった1両の気動車が、今、ゆっくりとレールの上を走っている。

大学生の多い駅を過ぎると景色は一気にローカルへ

中小屋を出た気動車は緩やかな山道を登る。大した勾配ではないが、木々が鬱蒼と茂り山中に分け入って行く緊張感が伝わってくる。どんよりした天気の中、太陽の光が列車にしっかりとスポットライトを当てていた。

列車は北海道医療大学駅へ進入し、2本のホームのうち短い方へと停車した。一方の長いホームは札幌への折返し専用だ。もともとは短い乗り場だけであったこの駅も、利用者が増えたことにより引込線のような形で長いホームを増設、「h」形をしたユニークな駅構造となっている。その一風変わったホームへ学生たちが次々と降りていき、列車はあっという間に静けさに包まれた。 車内には5人ほどしか乗っていない。ドアが静かに閉まり、気動車はゆっくりとした足取りで発車した。 車窓に映る景色はまばらな人家と田畑、たまに牧場でまどろんでいる牛たち。石狩金沢に本中小屋と、停車する無人駅には人っ子ひとりいない中、列車はドアを淡々と開閉してひと呼吸整える。緩急車を改造した貨車駅舎が誰を待つわけでもなくポツンと佇み、気動車のエンジン音に混ざって虫の鳴き声がかすかに聞こえてきた。駅は陽光をいっぱいに浴びつつも「しん……」として、静かに列車が発車するのを待っていた。 無人駅をあとにすると、再び青々と育つ草木や田畑が窓いっぱいに広がり、心も身体もゆったりとしてくる。ふと反対側の窓を見てみると、先ほどから立派な国道が寄り添う。列車がのんびりと走る線路は、交通量多い国道の存在感に押され、脇役となる。車のドライバーたちは併走するローカル線など見向きもせずに追い越して行く。それでも、列車は「気にしないさ……」とでも言っているようにマイペースにトコトコ走る。

徐々に人々は降りていき貸切列車はのんびり進む

緑一色に染まった中にポツンと佇む豊ケ岡駅。列車が到着しても乗る人はおろか、降りる人もいなかった。一体誰がこの駅を使っているのだろう……そんな思いが頭をよぎる。気動車が走り去ると、小駅は再び静寂に包まれていく。

中小屋へ着こうとする頃、数人の乗客が立ち上がり始める。地元の方々のようで、皆お年寄りだ。顔なじみの運転士に切符を渡しながら挨拶し、ぽつぽつとホームへ降りる。いつもこの列車を利用しているのだろうか、毎日通る路のようにゆっくりとした足取りで駅舎脇の小道を歩いていく。 ついに、気動車内には1人だけとなってしまった。運転士がドアを閉め、マスコンに手をかける。車内に響き渡るジョイント音がより大きく聞こえ、次の駅を知らせる自動音声も虚しくこだまする。人肌が感じられなくなると、やはりどこか寂しいものだ。「貸切列車」となった気動車は、日々の仕事を繰り返すように淡々と時刻通りに北上を続けている。たとえ乗客が1人だとしても、列車は走り続けるのだ。 林を抜け、平野を突き進み月ケ岡、知来乙と停車する2つの無人駅に人影は見当たらない。やがて月形町の町並みに分け入り、前方に石狩月形の構内が近づいてきた。交換駅となっているホームに目を凝らすと、数人の人々が待っている。「貸切列車」もこの駅までのようだ。ドアが開くと、また車内に人の気配が戻ってきた。なんだかほっとする。やはり列車は人が乗ってなんぼ、なのである。 交換設備の整う石狩月形は末端区間で唯一の有人駅、つまり札沼線最後の有人駅であり、同時に最後の交換駅でもある。そのほかの駅はすべて合理化により、終点の新十津川ですら無人駅となっている。モルタル造りの石狩月形駅舎はところどころくたびれてはいるが、補修もされ、草木の手入れや掃除も行き届いているようだ。駅員が乗客と言葉を交わし、列車の発着を見守る。それは「駅」としての当たり前の光景だが、無人駅が連なる中にあると、人の暖かみがより伝わってくる。 駅員が構内踏切を渡り、ホームへやってきた。石狩当別〜新十津川間はスタフ閉塞。運転士と票券を確認し、列車の発車を待つ。昨今の自動化の波で消え失せようとしている駅の光景が、学園都市線となって発展を続ける札沼線の末端部で、まだ生きている。 駅員にいつまでも見送られ、気動車は一路終点を目指す。人家はまばらとなり、線路は上り勾配を駆け上がり、森の中へと吸い込まれていく。車両にまで迫る鬱蒼とした木々が車内を暗くさせる。勾配は今までの中で一番きついようだが、それでも14‰で、いかに平坦な路線であるかがわかる。ちょっとした峠を450psの強化エンジンが咆哮し駆け上がったかと思うと、いとも簡単にレベルへ達する。すると、今度はブレーキが掛かり始めた。こんな林に囲まれたところで?……と疑問が浮かぶ間に列車が滑り込んだのは小さな駅のホームだった。駅名標は「豊ケ岡」とある。小駅は森の中で列車の到着を待ちわびているように、静かに佇んでいる。ホームから少し離れて、古びた木造待合小屋がポツンとあるが、周囲に人家もなければ車が行き交う国道もない。ただ、単行気動車のエンジン音が響くだけだ。秘境駅のオーラが漂う小駅に、利用者はいない。 気動車は下り勾配で少し軽快な足取りをみせ、森と平野を駆ける。停車を重ねる度にぽつりぽつりと乗客は降りていく。浦臼で何人か降りると、気動車は再び貸切となった。

終点への道程は昔日の光景 新十津川は静かだった

無人駅を見下ろせる丘へと登ると、緑一色に埋まる広大な平野の中に「スーッ」と列車がやってきた。美唄山と高速道路の路盤が遠くかすかに浮かぶ。その高速の近くには函館本線が走っている。

折返し運行がある浦臼でも乗ってくる人はいなかった。このまま終点まで誰も乗ってこないのかな、と思う。 一路終点を目指す後方の窓から、雑草に隠れそうな線路が少しヘロヘロっと歪み、その端に「ハエタタキ」と呼ばれる電信柱が一緒に寄り添うように立つ姿が見えた。今は本当に21世紀なのかと疑ってしまうような、記憶の彼方へ消えたローカル線の景色だ。もし、今乗っている気動車が旧国鉄の標準色であったなら、いつの時代かわからなくなるだろう。 窓の向こうには、過ぎ去る「ハエタタキ」と頼りない細い線路、広大な石狩平野がいっぱいに広がっている。その遥か遠くに高速道路のコンクリート橋が見えた。靄がかっている橋のたもとに函館本線が走る。かなり離れて見えるが地図で確認すると直線で5kmくらいの距離のようだ。ニアミスする動脈路線と、1日3本だけの閑散としたローカル線……。ただ1人だけを乗せた気動車は、まさに札沼線末端部の現状を表している。 もちろん、日々の生活で札沼線を使う人々はいるし、休日には旅行者がローカル線旅情を満喫しに訪れ、普段より乗客が多い日もある。だが、ほかに誰もいない車内の空気を肌で感じていると、この区間の将来を案じてしまう。 札沼線を全体で見ると、宅地化され発展を続ける札幌近郊区間で末端部の赤字をカバーしている図式が見て取れる。一方で、運行経費が安くあがる鉄道・道路両用車両DMVの走行実験を行なうなど、JRや沿線自治体は、末端区間を今後も存続させる方向で努力していることが感じられる。願わくば、これからも地域の人たちを、ささやかながらもそっと支える存在であってほしい……。気動車の単調なリズムに揺られていると、そんな想いが湧いてきた。 列車は、静かに眠るような無人駅を何駅も丁寧に停まって行く。「ガコン……」とドア開閉の音が、人の気配のしなくなった車内に響く。ついに貸切列車のまま、気動車はゆっくりと、ゆっくりと終点の新十津川へ足を止めた。側線は剥がされ、駅舎も半分に削られ、駅は小さく見える。町の人々の行き交う音もあまり聞こえてこない。無人停留所となった正午の終着駅は静かだった。 石狩沼田まで続いた線路は駅から数百メートル先で途切れている。76.5kmの盲腸線となった札沼線のレールの延長線上にはアパートが建っている。また、駅から約3km離れた場所には特急列車行き交う函館本線滝川駅がある。こんなに近ければ、札幌へ向かう人々も、やはり滝川へ行くだろう。 駅舎には3人ほど人がいるが、折返し列車に乗るのは1人だけだという。運転士が発車前のひと時、駅前に咲いた花々の世話をしている。 「本数、少なくてびっくりしたでしょ。1日のお客さんの人数? 全部合わせても9人くらいですよ」 運転士は笑顔でそう言うと、再び気動車に乗り込んで行った。 発車時間が迫る。単行気動車は、静けさに包まれた終着駅をあとにし、再び札幌へ向けて走り去っていった。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2019/01/15


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