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「あさかぜ」

【第1回】「あさかぜ」


「走るホテル」の異名をとった20系客車を用い、東京─九州間寝台特急のトップスターとなった「あさかぜ」。寝台特急列車の元祖的な存在として、半世紀にわたり活躍したその名は、今でも人々の心に鮮烈な記憶を刻んでいる。

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東海道本線全線電化の目玉列車として登場

デアゴスティーニ編集部

「あさかぜ」はほかの九州特急に先駆けて20系化され、いわゆる「走るホテル」の代名詞となった。

昭和30年代まで、国鉄の客車列車は雑多な形式で組成された列車が主流を占めていた。客車自体に系列はあったものの、列車編成は異種混合で、設備的に体裁が整っていればよしとされる時代でもあった。そんな時代にセンセーショナルに登場したのが、他系列の混結を考えない固定編成客車だった。その第一弾が昭和33(1958)年に登場した20系で、10月1日から東京〜博多間の特急「あさかぜ」で運転を開始した。

関西を深夜に通過する画期的なダイヤ

昭和31(1956)年発表の経済白書にある「もはや戦後ではない」という言葉は、国民にレジャーとしての旅行を促し、国鉄の集客を後押しするキャッチコピーにもなった。
とくに九州は、北海道と並ぶ屈指の「観光立国」だけに、景気高揚に連動した大都市からの観光客誘致は大きな関心事だった。しかし、この当時、東京と九州の往来は現在の海外旅行より大変な仕事だった。東海道本線が全線電化した昭和31(1956)年11月19日改正以前のダイヤを見てみると、東京~博多間は急行でさえ24時間前後かかる有様で、これは現在、空路で成田~ニューヨーク間を飛行する時間のほぼ倍に相当する。戦後10年を経ても、長距離の移動は難行苦行の域を出ていなかったようだ。
31.11改正前の東京~九州間優等列車は、すべて大阪付近を有効時間帯に組み込むダイヤ構成を採っていたため、九州向けに利便性の高い列車を設定することがどうしてもできなかった。優等列車の絶対数も少なく、大は小を兼ねるという概念からなかなか抜け出せなかったこともあったが、国鉄西部支社では意外なことに、来たるべき航空機時代も視野に入れてこの速達列車の運転を強硬に主張したという。
当時、東京~福岡間の航空便はあるにはあったが、運賃は平均的な大卒初任給をはるかに上回る片道1万2600円という高額だったから、庶民感覚ではとても眼中には入らなかった。それゆえに「将来、航空機に対抗するために」という主張は失笑を買い、ときには詭弁にも聞こえたかもしれないが、結果的には東京~大阪間に急行を増発することで関西と折合いをつけ、新しい九州特急は、東海道本線全線電化を記念した目玉列車のひとつとして売り出すことになった。
東海道本線の全線電化が完成し、特急「つばめ」「はと」が全区間電気機関車牽引となった昭和31(1956)年11月19日、東京~博多間に新たな特急が設定された。それが「あさかぜ」だ。夜行特急は戦前にも存在したが、どちらかといえば昼夜間を通して走る列車であり、関西地区に有効な時間帯を意識してダイヤが設定されていた。しかし、この新しく設定された「あさかぜ」は、関西を深夜に通過し、東京~博多間を短時間で結ぼうという意欲的な特急だった。しかしそのために、ダイヤ設定上の折衝では、非有効時間帯に「あさかぜ」が通過する場所の国鉄が大反対したという逸話が残っている。関西を深夜に通過する列車など、当時はとても考えられないものだったのだ。
しかし、関西を有効時間帯に入れると、車両運用上は3編成が必要となり、予備車がほとんどない状態になることから、大阪始発の急行を増発するという妥協案と引き換えに、関西深夜通過案は、採用されることになった。この点で「あさかぜ」は鳴り物入りの特急だったといえる。
当初の「あさかぜ」は旧型客車と10系客車の混成で、ダイヤは7列車/東京18時30分→博多11時55分、8列車/博多16時35分→東京10時00分、所要時間17時間25分で走破した。「あさかぜ」の人気は上々で、その寝台券はプラチナチケットといわれるほどの人気ぶりだった。そんなことから、国鉄では昭和32(1957)年10月1日から東京~長崎間に第二の九州特急「さちかぜ」を増発した。

客車の概念を覆した「走るホテル」20系

デアゴスティーニ編集部

昭和33(1958)年に誕生した20系「あさかぜ」の設備は2等寝台車の1人用・2人用個室、2等寝台車の開放室、2等座席車、3等寝台車、3等座席車と実にバラエティにあふれている。現在でいえばA寝台個室、A寝台、グリーン、B寝台、普通座席が揃っているのであり、これに食堂車が加わったこともあって、当時の人々は「あさかぜ」を「走るホテル」と称賛した。

昭和33(1958)年は国鉄にとって歴史に残る輝かしい年であった。固定編成客車20系が落成したのだ。20系は全車冷暖房完備で、独自にサービス用電源を供給する電源車と豪華な個室寝台車を連結するという、これまでの客車の概念を覆す画期的な車両だった。それゆえに20系は「走るホテル」という異名をとり、世間の注目を浴びた。
ただ、20系化当初の「あさかぜ」は、旧型客車時代からさほどスピードアップされたわけではなく、ダイヤはほとんど変わっていない。もっぱら、車両のグレードアップに注力された結果といえるだろう。
なお、「あさかぜ」の20系化と同時に、東京~鹿児島間に「はやぶさ」、東京~長崎間に「さちかぜ」を改称した「平和」が登場している。両者とも旧型客車と10系客車による編成だったが、「はやぶさ」は鹿児島県初の特急列車として歓迎された。
「あさかぜ」の20系化後、九州特急は次々と20系化され、昭和34(1959)年7月20日には「平和」が「さくら」と改称の上20系化、翌年7月20日には「はやぶさ」が20系化され、この時点で20系特急は3本体制となった。昭和36(1961)年10月1日改正では旧型客車と10系の混成ながら東京~熊本間に不定期「みずほ」が登場、こちらは昭和38(1963)年6月1日に20系化されている。

増発が続いた昭和40年代の「あさかぜ」

昭和38(1963)年12月20日、東京~広島間の牽引機がEF58型から高出力のEF60型500番代に変更され、「あさかぜ」の15両運転が可能となった。このEF60型500番代は、山陽本線全線電化が完了した翌年の昭和40(1965)年8月25日から順次EF65型500番代に交替している。
昭和43(1968)年10月1日改正では、20系特急の最高110km/h運転が開始された。これにともない20系客車には速度制御付き電磁自動空気ブレーキ装置(AREB)が搭載されることになった。この改正では、東京~博多間に「あさかぜ2・1号」が増発されたが、さらに昭和45(1970)年10月1日改正では、これまで東京~広島間で運転されていた急行「安芸」を格上げした「あさかぜ3・1号」が登場した。ただし、この列車は東京~下関間の運転で、九州には姿を見せない初めての「あさかぜ」となった。
昭和47(1972)年3月15日改正では、「あさかぜ2・3号」が東京~長崎、佐世保間の「さくら」とともに分散電源方式の14系に置き換えられたが、昭和50(1975)3月10日改正で廃止された。

20系が定期九州特急から引退

デアゴスティーニ編集部

昭和53(1978)年には20系から24系25型に置き換えられ、本州内牽引機がEF65型1000番代に交代するなど、「あさかぜ」にとっては大きな転換期となった。

山陽新幹線博多開業を迎えた昭和50(1975)年3月10日改正では、山陽本線に一大変革が訪れた。「つばめ」「はと」「しおじ」などの昼行在来線特急はすべて廃止され、関西発着の夜行急行も大整理された。「あさかぜ」は東京~博多間の1往復が廃止され2往復となり、豪華な個室寝台車を備えていた「あさかぜ1・2号」からはナロネ20型とナロ20型が外された。すでに特急型客車には分散電源方式の14系、集中電源方式の24系、24系25型が登場し、関西発着の20系寝台特急を順次置き換えていた。この改正でその波は東京発着の寝台特急にも及び、「富士」「はやぶさ」「出雲」が24系に置き換えらた。この時点で東京発着の寝台特急で20系で残されたのは「あさかぜ」「瀬戸」のみになった。
この改正の翌年には20系客車の急行転用が始まり、昭和51(1976)年2月20日から東京~大阪間の夜行急行「銀河」に充当されるようになった。そんななかで、昭和52(1977)年9月25日には下関発着の「あさかぜ2・1号」が上り列車から24系25型に置き換えられ、残る伝統の博多発着「あさかぜ1・2号」も昭和53(1978)年2月1日に24系25型に置き換えられた。ここに定期九州特急から完全に20系が撤退、直流区間の牽引機も7月28日からEF65型1000番代に置き換えられ、「あさかぜ」は新しい時代を迎えることになる。

最後まで残った下関止まりの「あさかぜ」

昭和30~40年代は国鉄を象徴する華々しい活躍をしていた九州特急も、航空網や高速道路の整備にともなって、昭和60年代以降は衰退期を迎える。国鉄末期には「はやぶさ」にロビーカー、「さくら」「みずほ」に4人用B個室の「カルテット」を連結。JR移行後は、「あさかぜ」の食堂車をオリエント急行調にしたり、ラウンジ車を連結したりと、さまざ
まなサービスアップが図られたが、利用客の減少に歯止めがかからなかった。このため、平成5(1993)年3月18日には博多発着「あさかぜ1・4号」の食堂車が営業休止となった。翌年12月3日には、この伝統の博多発着「あさかぜ1・4号」はついに廃止となり、「あさかぜ」は九州の地に姿を見せなくなった。この時点で「あさかぜ」は昭和43年以来、号数の付かない「あさかぜ」の名に戻ったわけだが、かつての隆盛は過去のものとなった。
その後、「あさかぜ」は東京~下関間で運転されていたが、閑散期には9両という短い編成となった。そして、ついに平成17(2005)年3月1日、「あさかぜ」は、東京~長崎間の「さくら」とともに、半世紀に及ぶその歴史に終止符を打った。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2012/12/14


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