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「ムーンライトながら」

【第15回】「ムーンライトながら」


毎年、春、夏、冬に発売されてきた「青春18きっぷ」になくてはならない列車がこの「ムーンライトながら」だろう。快速列車ながら特急型の373系が使用されており、一部にはグループ向けのコンパートメント座席が設置されているなど、衰退するほかの夜行列車を尻目に、「青春18」族の御用達列車として根強い支持を受け続けてきた。この列車は、東京〜大阪間の夜行普通客車列車がルーツで、43.10改正から96.3改正までの27年余りは153系や165系を使用する「大垣夜行」として親しまれていた。

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廃止から一転して電車化により存続を決めた東海道普通夜行

デアゴスティーニ編集部

大垣夜行で注目の的だったのがグリーン車だった。昭和50(1975)年当時、東京〜名古屋間で新幹線の普通車指定席を利用すると3490円だったが、大垣夜行のグリーン車を利用すると2190円。差額で駅弁を3〜4個買えた。

優等列車の絶対数が少なかった昭和20年代、主要幹線では長距離夜行普通列車が数多く設定されており、急行の代わりとなる庶民の足として重宝されていた。日本最大の表街道である東海道本線も例外ではなく、昭和29(1954)年10月1日改正時点では、山陽本線へ乗り入れる列車も含めて上り3本・下り4本もの夜行普通列車が運転されており、東京〜門司間1100.1km(当時)を32時間近くもかけて運転される列車もあった。
これらの夜行列車は、ご多分に漏れず客車列車だったが、昭和30年代に入ると長距離普通列車の電車化や区間短縮が進み、昭和42(1967)年10月1日改正までには、東海道本線で客車で残る夜行普通列車は東京〜大阪間の143・144列車のみとなり、当時は143列車/東京23時30分→大阪10時58分、144列車/大阪23時50分→東京13時45分のダイヤで運転されていた。
この143・144列車は、東海道本線の普通列車としても客車で残る最後の列車で、次の昭和43(1968)年10月1日改正ではこれを廃止してオール電車化することで運用の合理化が図られようとしていた。
ところが、昭和43(1968)年に入って、143・144列車の廃止が新聞紙面で報じられると、世論の間で存続の要望が高まり、時の国鉄総裁・石田禮助を存続意向へ動かしたという都市伝説まがいの現象が起きたという。ただ、存続の理由はそれだけでは想像しにくく、荷物、郵便輸送の問題など、いくつか越えなければいけないハードルが廃止を阻んだともいえる。

格安グリーン車や「青春18きっぷ」で不動の人気を獲得

デアゴスティーニ編集部

廃止方針から一転して43.10改正で存続が決まった「大垣夜行」は、96.3改正まで急行「東海」と共通運用の急行型電車で運転されるようになった。

このようなことから、昭和43(1968)年10月1日改正では、143・144列車が電車で存続し、143M・144Mとして再出発した。電車化に際しては、大垣電車区が受け持つ急行「東海」の153系と共通運用とし、客車時代に行なっていた郵便、荷物輸送をカバーするため郵便、荷物電車を併結した。この運用は、かつて「東海」に夜行運用が存在しており、それを応用したものと思われるが、運用の都合でダイヤは、143M/東京23時30分→美濃赤坂7時27分、144M/大垣20時32分→東京4時35分に改められた。客車時代と比べると、上り東京着が13時45分から4時35分と大幅に繰り上げられ、スジとしては客車時代とはまったく別の列車となってしまったが、下り列車はほぼ客車時代を踏襲しており、名古屋での下り新幹線接続も確保されていた。
ちなみに、下りが美濃赤坂行きとなったのは、美濃赤坂から名古屋方面への通勤列車の「お迎え運用」を兼ねていたからだと思われるが、関東圏ではあまりにも知名度が低い駅名ゆえに、行先が直感的にわかりにくいというデメリットがあったことと、いわゆる「美濃赤坂支線」内では153系12連がホーム有効長に収まらないため、不便な手動ドア扱いを行なわなければならなかった事情もあり、昭和44(1969)年10月1日改正では下りも東京〜大垣間の運転に改められた。
この143M・144Mは、東海道本線の普通列車としては唯一、100番代の列車番号となっていたが、当時の東京南鉄道管理局管内と静岡、名古屋の両鉄道管理局管内を直通する普通列車には原則、300番代の列車番号が付けられていたことから、昭和48(1973)年10月1日改正では347M・344Mに改められ、以後、昭和55(1980)年10月1日改正では345M・340Mに、昭和63(1988)年3月13日改正では375M・372Mに変わっている。

「青春18きっぷ」とともに「大垣夜行」の名が定着

デアゴスティーニ編集部

オレンジカードとほぼ同じサイズでつくられていたカードサイズの記念乗車証。

この列車は、昭和57(1982)年3月1日に「青春18のびのびきっぷ」(現在の「青春18きっぷ」)が発売された頃から異常な人気を博すようになり、レールファンの間ではいつの間にか「大垣夜行」の通称で親しまれるようになった。実際には時刻表上に「大垣夜行」の名は掲載されていなかったが、通称がひとり歩きしてしまった珍しい例だろう。
また、グリーン車に限っては、「青春18きっぷ」以前から異常な人気があった。昭和44(1969)年5月10日には国鉄の等級制度が廃止となり、これまでの1等車を利用するには運賃のほかにグリーン料金を追加するだけでOKとなった。東京〜大垣間の場合、1等運賃は2720円だったが、等級制廃止後は運賃1730円に普通列車用グリーン料金(81km以上)300円を加えた2030円となり格安感が増し、昭和40年代後半にかけて、大垣行き格安グリーン車の知名度が浸透していった。
昭和50(1975)年11月20日の料金改訂では、普通列車用グリーン料金が3倍強の1000円(101km以上)に値上げとなり、昭和59(1984)年4月20日の改訂では最大の2000円にまで跳ね上がったが、それでも多客時の東京駅では19時前後から並ばないとグリーン車に座れないという現象が続いた。その時間なら、新幹線に乗れば名古屋も新大阪も当日中には着けたが、グリーン車の格安感は並ぶ労を厭わない魅力があった。また、大阪から先の姫路や岡山への利用者や山陰、四国、九州、南近畿といった各周遊券の利用者もかなり多く、「大垣夜行」の利用価値の高さは、各方面へおよんでいた。
「大垣夜行」は、国鉄末期も人気の高さを維持し続け、昭和61(1986)年11月1日改正では、上り大垣発が2時間近くも繰り下がりスピードアップ。国鉄最期の日が近くなった昭和62(1987)年3月30・31日には時刻表には掲載されない臨時列車まで運転された。この臨時「大垣夜行」は平成元(1989)年から時刻表に掲載されるようになり、一時は品川発着でも運転されたほか、米原まで延長されたこともあった。
そんな「大垣夜行」も、人気の高さから次第に指定席を望む声が高まった。JR側としても混雑する東京駅で自由席の乗客を整理する手間が省けるというメリットがあったことから、急行「東海」が特急に格上げされる平成8(1996)年3月16日改正を機に特急型の373系を使用する全車指定席の快速として再出発することとなり、「ムーンライトながら」と命名された。

全車指定の快速「ムーンライトながら」として再出発

デアゴスティーニ編集部

いわゆる「大垣夜行」は、96.3改正からは165系に代わって特急型の373系にグレードアップ。「ムーンライトながら」として現在に至っている。

その当時のダイヤは、375M/東京23時43分→大垣6時51分、372M/大垣23時08分→東京4時42分で、ほぼ「大垣夜行」時代を踏襲していた。ちなみに、「ながら」の名は、昭和40(1965)年10月1日改正で廃止となった東京〜大垣間の不定期準急に命名されていた。
「ムーンライトながら」は全車指定席となったものの、実質的に一番列車の役割を果たす下り名古屋口、上り東京口での自由席利用客にも配慮し、9両編成中、下りは7〜9号車が小田原から自由席に、上りは4〜9号車が熱海から自由席扱いとし、下りは4〜6号車も自由席扱いとする変則的なサービスが適用された。現在は、自由席適用区間が下り豊橋→大垣間のみに改められている。
一方、臨時「大垣夜行」は、「ムーンライトながら」運転開始後も運転されていたが、平成15(2003)年夏からは、中央東線系特急のE257系化により田町区へ捻出された183・189系を使用した「ムーンライトながら91・92号」が東京、品川〜大垣間で運転を開始し、現在は上下とも東京発着となっている。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2014/03/14


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