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「つばめ」

【第2回】「つばめ」


特急「つばめ」——それは長く国鉄のシンボルとして君臨し、東海道新幹線が開業する以前はスピードアップの象徴でもあった。かつては最後尾に豪華な展望車が連結され、「つばめ」に乗ることが一種のステイタスといわれる時代もあった。

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公募により決められた「燕」の愛称

デアゴスティーニ編集部

東海道本線全線電化前はC62が活躍した。山科付近を走るC62牽引「つばめ」。

国鉄に「特別急行」が初めて登場したのは明治45(1912)年。それから17年経った昭和4(1929)年には公募により特急1・2列車に「富士」、3・4列車に「桜」の愛称が付けられた。この公募では「燕」の愛称が2位に入ったが、折しも国鉄では東京〜大阪間を8時間で結ぶ超特急列車の運転を計画しており、「燕」の名は超特急の愛称に温存された。
昭和5(1930)年10月1日、「燕」は晴れて東京〜神戸間にデビューした。ダイヤは下り11列車が東京9:00→神戸18:00、上り12列車が神戸12:25→東京21:20で、途中の停車駅は11列車の場合、横浜・国府津・名古屋・大垣・京都・大阪・三ノ宮のみと「富士」や「桜」より少なかった。当時、東海道本線は熱海〜沼津間が未開通で、東海道本線の列車は勾配がきつい現在の御殿場線を経由していた。そんな中で「燕」は国府津〜名古屋間を運転停車なしのノンストップで運転されることになり、走行中に補助機関車を切り離し、機関車の次位に水槽車を連結することで給水を行なった。また、乗務員もこの水槽車を渡って走行中に交替するという、現在の安全基準では絶対に許されない方法で行われるなど、所要時間短縮のためにこれまでにない荒技が編み出された。この「燕」は大変好評だったことから、昭和6(1931)年12月25日からは東京〜大阪間に臨時「燕」が運転された。こちらは2・3等車のみの編成で、「燕」の10分後に運転された。
昭和9(1934)年12月1日、丹那トンネルが開通し、東海道本線は熱海経由の現ルートに切り替えられた。これにより距離が約12km短縮され、勾配も緩和されたことから「燕」は静岡に停車するようになり、走行中の機関車解放や水槽車の連結は中止された。

「へいわ」で出発した戦後の「つばめ」

デアゴスティーニ編集部

運転開始当初の「燕」は、速達性が優先されて編成両数が7両に制限されたことから、1等展望車の連結は運転開始から約1年後のこととなった。1等展望車は、現代でいえばVIP御用達とでもいうべき車両で、さながら政治家や高級軍人の社交場のようでもあった。

昭和16(1941)年、太平洋戦争が勃発すると「燕」に暗雲がたちこめる。昭和18(1943)年7月1日には急行料金制度が改正され、「燕」は第一種急行となり、特急の種別が消滅した。そして同年10月1日、ついに「燕」は廃止となり、第一種急行で残るのは東京〜博多間に短縮された「富士」のみという事態になった。この「富士」も昭和19(1944)年4月1日で廃止となり、国鉄の暗い特急空白時代が始まる。その時代に終わりを告げたのは終戦後の昭和24(1949)年9月15日、東京〜大阪間に誕生した特急「へいわ」だった。ダイヤは下り11列車が東京9:00→大阪18:00、上り12列車が大阪12:00→東京21:00で所要時間は9時間と、戦前の「燕」の水準には及ばなかったが、特急のシンボルである展望車が連結され、なんとか面目を保った。この「へいわ」は昭和25(1950)年1月1日に慣れ親しんだ「つばめ」に改称され、同年5月11日に登場した「はと」とともに、同年10月1日に戦前と同水準の8時間運転に、昭和31(1956)年11月19日には7時間30分運転となった。

151系に置き換えられ「こだま」と肩を並べる

デアゴスティーニ編集部

昭和35年のダイヤ改正で電車化された「つばめ」。この改正を機に、大阪寄りの先頭車は展望車に代わる豪華車両として、区分室付きのクロ151となった

昭和33(1958)年11月1日、東京〜大阪間に日本初の電車特急「こだま」が登場した。この列車に投入された新鋭の20系(後の151系)電車は、当時としては画期的な全車冷房完備だったため、旧態依然の「つばめ」「はと」の編成はサービス面でかなりの見劣りがした。そこで「つばめ」の電車化が計画され、昭和35(1960)年6月1日、151系に置き換えられ、「こだま」と編成が統一された。この電車化により東京〜大阪間は6時間30分で結ばれ、客車時代より約1時間のスピードアップとなった。また、これまでの「はと」は「つばめ」に吸収され、「つばめ」は2往復で運転されることになった。
電車化された「つばめ」には、客車時代の展望車に代わって、1人掛けのリクライニングシートが並ぶ開放室と4人用の区分室に分けられた豪華1等車(登場当時は3等級制だったため2等車)クロ151型が連結された。現在でも十分通用する超豪華車両で、この車両に乗るには1等運賃・1等特急料金のほかに特別座席料金が必要だった。
昭和37(1962)年6月10日、山陽本線が広島まで電化されたことにともない、「つばめ」は1往復が広島まで延伸された。これは東京〜大阪間の「第1・2つばめ」と、大阪〜広島間の気動車特急だった「へいわ」のスジを統合したもので、東京〜広島間を11時間10分で結んだ。

昭和40年代はエコノミーな特急に変身

デアゴスティーニ編集部

博多駅の「つばめ」。新幹線開業後は九州アクセス特急としての使命を負い、山陽新幹線博多開業までの11年間にわたって活躍した。現在、九州新幹線に「つばめ」の名があるのも、こうした九州アクセスを担った功績といえるのかもしれない。

昭和39(1964)年10月1日、東海道新幹線が開業した。これにともない、他線区へ乗り入れる列車を除き東海道本線の昼行在来線特急はすべて廃止されることになり、「つばめ」は新大阪以西へ第二の人生を求めることになった。
新大阪発着となった「つばめ」は博多まで運転されることになり、初めて九州の地に乗り入れることになった。ただし151系は直流電車のため、交流区間を含む下関〜博多間は電気機関車の牽引となり、電源車を間に挟むという変則編成となった。しかし、この措置は昭和40(1965)年10月1日に実施されたダイヤ改正で交直両用の481系に置き換えられたことにより解消、運転区間は名古屋〜熊本間に改められた。この481系は北陸特急の「しらさぎ」「雷鳥」と共通運用となり、豪華なクロ151型の連結もなくなったことから「つばめ」の編成はエコノミー色が鮮明となった。昭和43(1968)年10月1日改正ではさらに583系に置き換えられ、その色彩を増していく。
昭和47(1972)年3月15日改正では山陽新幹線岡山開業にともない岡山発着に改められ、昭和48(1973)年3月1日改正で8往復の大所帯となった。しかしそれも束の間、昭和50(1975)年3月10日、山陽新幹線博多開業により山陽本線の昼行優等列車が全廃されることになり、45年の歩みにピリオドを打った。
「つばめ」の廃止後、鉄道の世界では国鉄の分割民営化という大きな出来事があったが、「つばめ」の名は眠ったままだった。しかし平成4(1992)年7月15日、JR九州の特急として劇的な復活を遂げた。この「つばめ」は、これまで西鹿児島発着で運転されていた特急「有明」を改称したもので、「ハイパーサルーン」の愛称を持つ783系と「つばめ」用に新製された787系で運転された。平成8(1996)年3月16日には全列車が787系化され、平成16(2004)年春に九州新幹線新八代〜鹿児島中央(現・西鹿児島)間が開業すると「つばめ」の名は新幹線列車に召し上げられた。そして九州新幹線の全通にともない、現在では、「つばめ」は博多~熊本間を基本に毎時1~2本が運行されている。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2013/02/26


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