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「さくら」

【第22回】「さくら」


戦前は「富士」と並ぶ看板特急として君臨し、九州入り後は東京〜博多間の「あさかぜ」と人気を二分する東海道・山陽本線のスターとなった特急「さくら」。
現在は、山陽新幹線と九州新幹線の直通運転用に開発された新車両N700系7000番代・8000番代のコンセプトである「日本の美しさ」に合致する列車名として、その名を残している。

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「富士」と同時に愛称名付き列車に 戦前の特急としてはいち早く消える

デアゴスティーニ編集部

B寝台初の個室として「さくら」に連結された四重奏を意味する「カルテット」。開放B寝台の1区画を個室化したものであるが、ダウンライトやテーブル付きセンターアームレスト設置など、快適性はアップしている。

明治45(1912)年6月15日から新橋〜下関間で運転を開始した国鉄初の特急1・2列車は、朝鮮・中国大陸連絡の使命を負い、1・2等車だけで組成された超エリート列車だった。しかし大正時代に入ると、機関車や客車の大型化や東海道本線など幹線の複線化が進み、鉄道をより大衆に近づけるための方策が図られるようになった。この流れは、1・2列車に続く第2の特急列車を生み出すことになり、大正12(1923)年7月1日には東京〜下関間に3等特急が新設され、3等旅客にもようやく特急の門戸が開かれた。
この特急3・4列車には2等車が連結されなかったが、これは1・2等客と3等客を列車ごとに分離しようという階級意識の表れともとれる。しかし、その使命は特急1・2列車と同じく朝鮮・中国大陸連絡が主眼に置かれため、下りは特急1列車の先に、上りは特急2列車の後に運転された。当時のダイヤは3列車/東京8時45分→下関翌8時05分、4列車/下関21時05分→東京翌20時40分で、東京〜下関間は23時間20分で結ばれた。
昭和4(1929)年9月15日改正では、不況にあえぐ世相の中で、鉄道のより一層のイメージアップを図るために東京〜下関間の両特急に愛称名が付けられることになり、特急3・4列車は「桜」、特急1・2列車は「富士」と命名された。同年11月7日から列車後部に愛称名を示すテールマークが取り付けられるようになり、「桜」のマークは淡い赤地にサクラの花が描かれていたという。
昭和5(1930)年10月1日改正では、戦前の国鉄を象徴する特急「燕」が東京〜神戸間で運転を開始した。これに伴い「桜」は「富士」とともにダイヤが変更され、下り東京発が午後に移された。これにより「桜」は、3列車/東京12時45分→下関翌8時35分、4列車/下関20時15分→東京翌16時40分となり、鋼製客車の投入などにより、所要時間が一挙に2時間55分も短縮され、20時間の壁を破った。
こうして着実にスピードアップしていった「桜」だったが、20時間近くも運転する列車であるのに全車が座席車のみという状態は、国鉄の看板特急の一翼を担う上で力不足の感は拭えなかった。昭和6(1931)年2月1日には東京〜神戸間の急行2往復に3等寝台車の連結が開始されたことから、「桜」にも京都〜下関間に限り同年6月25日から3等寝台車の連結が開始され、昭和9(1934)年3月1日からは全区間連結となった。また同年12月1日改正では、丹那トンネルの開通により国府津〜沼津間が現在の熱海経由に変更されたことから、東海道本線を走る各特急は1時間20分程度スピードアップ、「桜」には2等座席車と2等寝台車が連結されるようになり、2・3等特急として戦前の絶頂期を飾った。

復活後は臨時列車から不定期列車に 20系客車化後は晴れて定期列車に

デアゴスティーニ編集部

交流機に牽引される九州内の「さくら」。「さくら」の九州内全区間が電機牽引になったのは昭和51(1976)年から。

終戦から4年が経過した昭和24(1949)年9月15日改正では、東京〜大阪間にようやく特急が復活することになり、「へいわ」と命名された。この「へいわ」は翌年1月1日に「つばめ」と改称、同年5月11日には姉妹列車の「はと」も登場し、戦後の特急時代が軌道に乗ろうとしていた。一方で「桜」の名はすぐには復活せず、昭和26(1951)年4月1日に「つばめ」「はと」を補完する臨時列車としてその名が復活、愛称名は「さくら」とかな文字になり、下りは「つばめ」、上りは「はと」の3分後を走るダイヤが設定された。当初の編成はオール3等車のみで、特急とはいえ「つばめ」「はと」と比べるとお粗末な内容だった。この「さくら」は昭和32(1957)年10月1日改正で不定期列車に格上げされたものの、翌年10月1日改正では廃止されている。
しかし「さくら」の名は、昭和34(1959)年にまたもや復活する。7月20日、これまで東京〜長崎間で運転されていた特急「平和」が「さくら」と改称された上、20系客車に置き換えられたのだ。特急「平和」は、昭和32(1957)年7月20日から8月30日まで運転された東京〜博多間の臨時特急「さちかぜ」がその前身で、この列車は同年10月1日改正で定期列車に格上げされ、長崎まで延長された。長崎への特急乗入れは、昭和18(1943)年10月1日に第1種急行「富士」が博多で打ち切られて以来14年ぶりのことだった。そして、昭和33(1958)年10月1日改正では列車名が「あさかぜ」と混同されやすいという理由で「平和」に改称されていた。

「あさかぜ」に続く20系寝台特急としてその名を馳せる

デアゴスティーニ編集部

「あさかぜ」とともに20系ブルートレインの代名詞だった「さくら」。

さて、「平和」を改めた「さくら」は、昭和33(1958)年10月1日改正で20系客車に置き換えられた「あさかぜ」に続く第2の20系寝台特急として登場した。当時のダイヤは5列車/東京16時05分→長崎翌12時15分、6列車/長崎15時00分→東京翌11時10分で「平和」時代と変わっていない。20系客車は昭和34年度にさらに増備され、昭和35(1960)年7月20日には東京〜鹿児島間の「はやぶさ」も同系に置き換えられた。昭和36(1961)年10月1日改正では「さくら」の列車番号が1・2列車となり、列車番号の上では戦前の「富士」の栄光を引き継いだ恰好となった。

C11牽引で注目を集めた佐世保編成 47.3で14系寝台車となる

デアゴスティーニ編集部

貨物列車の削減などで余剰気味になったEF66は60.3改正から「さくら」を牽引している。

昭和40(1965)年10月1日、「さくら」の付属編成が佐世保まで延長されることになり、「さくら」の分割・併合時代が始まった。「さくら」の佐世保編成は、末端の早岐〜佐世保間がスイッチバックとなるため、この区間のみ寝台特急としては異例のC11牽引となった(8620牽引になる場合もあった)。後部には早岐まで牽引してきたDD51が後補機となったが、わずかの距離ながらバック運転で特急型客車を牽引するC11は現在も「さくら」を語るうえで欠かせないシーンだろう。この運転は昭和43(1968)年10月1日改正まで続いた。
昭和40年代は、相次ぐ寝台特急の増発で分割・併合を行なう列車が多くなってきた。「さくら」の場合は肥前山口で長崎編成と佐世保編成に別れるが、長崎編成は付属編成のため、肥前山口〜長崎間は簡易電源車のマヤ20が連結されていた。このパターンは「あかつき」「みずほ」にも見られたが、ダイヤ設定上不合理であることから、電源車を必要としない分散電源方式を採用した新形式の14系寝台客車が昭和46(1971)年に登場した。14系寝台客車はこの年、試験的に急行「瀬戸」に投入され、翌年3月10日には「みずほ」が、3月15日には「さくら」が同系に置き換えられた。以後「さくら」は一貫して14系寝台客車により運転されている。

山陽新幹線、九州新幹線の列車名としてその名を残す

デアゴスティーニ編集部

N700系は「史上最速」を謳って登場。新幹線では懸案であった車体傾斜システムを採用して、東海道新幹線におけるスピードアップを達成した。山陽・九州新幹線では「さくら」の名を引き継いで活躍している。

昭和50年代以降の「さくら」は、昭和53(1978)年7月28日から東京〜下関間の牽引機がEF65型1000番代に変更、昭和59(1984)年7月20日には4人用B個室「カルテット」の連結を開始した。また、昭和60(1985)年8月からは東京〜下関間の牽引機が現在のEF66に変更された。JR化以後は、平成5(1993)年3月17日限りで「あさかぜ」「はやぶさ」「みずほ」「富士」とともに食堂車が廃止、翌年12月3日改正では列車番号の1・2列車を「富士」に譲り、戦前を彷彿させる3・4列車に戻った。この間、東京〜九州間の寝台特急の旅客は激減の一途を辿り、平成11(1999)年12月4日改正では現在の「はやぶさ」との併結が開始され、昭和40(1965)年以来続いた佐世保編成が廃止、現在は東京〜長崎間のみの運転となった。
そして現在、その名はN700系7000番代などで運転される、山陽新幹線、九州新幹線の列車名として引き継がれている。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2014/10/15


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