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「ニセコ」

【第23回】「ニセコ」


函館本線倶知安付近は、羊蹄山やニセコアンヌプリといった名峰に囲まれた「ニセコ積丹小海岸国定公園」の一地域として知られている。それにちなんで命名された列車が「ニセコ」だ。「ニセコ」の客車列車は、C62が最後まで重連牽引した列車としてSLファンの間で伝説を作った。

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一般型キハ22を使用して運転されたローカル準急時代の「ニセコ」

デアゴスティーニ編集部

C62が重連で牽引する下り「ニセコ」。北海道における優等列車のC62牽引は、昭和31(1956)年11月19日改正を機に始まり、「まりも」から「ていね」を経た「ニセコ」が最後まで残った。

急行「ニセコ」というと、函館〜札幌間を倶知安、小樽経由で結んでいた客車、気動車急行というイメージが大きいが、愛称名の起源としては、昭和37(1962)年2月1日、目名、蘭越、倶知安、岩内〜札幌間に新設された気動車準急にまで遡る。この準急「ニセコ」は一般型のキハ22が使用され、目名、蘭越編成と岩内編成は小沢で分割、併合し、単独運転時はそれぞれが単行になるという、いかにも北海道らしいローカル列車だった。また、この列車と同時にほぼ同じ区間を走る準急として「らいでん」も設定された。昭和39(1964)年頃の「ニセコ」のダイヤは、906D〜916D(933D)/札幌12時40分→目名15時44分(岩内14時49分)、917D(934D)〜907D/蘭越13時52分(岩内14時54分)→札幌16時58分で、「らいでん」が倶知安方面発の下りが早朝発、札幌発の上りが夕方発という札幌指向のビジネスダイヤであったのに対し、「ニセコ」は札幌発を午後とするレジャー指向のダイヤだった。

「ニセコ」「らいでん」「いぶり」の3つの名称が混在した時代

デアゴスティーニ編集部

DD51重連が牽引する急行「ニセコ」。最後の昼行客車急行であり、14系置換えまで一般型客車が活躍した。スハ45、スハフ44を連ねた編成だったが、スロ54が最後まで活躍した北海道にあって、同じく函館持ちの「すずらん」とともにグリーン車は60系のスロ62だった。

ちなみに、準急「ニセコ」には、昭和37(1962)年10月6日から土、日曜に限り、胆振線(現・廃止)に入線し、札幌→倶知安→京極(現・廃止)→伊達紋別→札幌と反時計周りに循環運転する車両が連結されるようになり、翌年10月1日改正では時計周りの列車も登場、「いぶり」と命名された。
ほとんど同じ区間を走るにも関わらず、愛称名が「ニセコ」「らいでん」と2種あったのは、「ニセコ」が「いぶり」を併結していたからともいえるが、昭和41(1966)年3月5日に実施された運賃・料金改訂で100km以上の準急をすべて急行に格上げする措置がとられてからは、「ニセコ」は「いぶり」を併結していた関係で100kmオーバーと認定され急行に格上げ、一方の「らいでん」は、急行区間の倶知安〜札幌間が100kmに満たないことから準急のままとされた。それからわずか3カ月後の同年6月1日には、「いぶり」を併結する「ニセコ」が「らいでん」に、従来の「らいでん」が「ニセコ」とされ、「らいでん」が急行、「ニセコ」が準急と立場が逆転している。しかし、これらの列車は昭和43(1968)年10月1日改正で「ニセコ」の名が函館〜札幌、根室間の急行に命名されることになったことから、従来の「ニセコ」「らいでん」はすべて「らいでん」に統一され、ようやく整理がつくようになった。この「らいでん」は昭和59(1984)年2月1日改正で廃止され、併結されていた「いぶり」はこれに先がけ昭和55(1980)年10月1日改正で廃止された。「いぶり」は終始キハ22で運転されたが、「らいでん」の方は末期に急行型のキハ56、27が使用されるようになり、わずかながらグレードアップしていた。

43.10改正で「ライラック」と「ていね」を「ニセコ」に統合

デアゴスティーニ編集部

長万部を出発する「ニセコ」。昼行の客車急行は当時でもめずらしい存在だった。札幌と稚内を結んだ「宗谷」も天北線回りの「天北」も14系で運行されていた。

昭和43(1968)年10月1日改正では、全国的に愛称名の整理が実施され、同系統の列車はできるだけ愛称名を統一、号数を付けて表示するようになった。
改正前、函館〜札幌間を倶知安、小樽経由で運転されていた急行には、客車の「ていね」、気動車の「ライラック」があったが、これらが客車、気動車問わず「ニセコ」の愛称名に統一された。その結果「ライラック」は「ニセコ1・3号」、「ていね」は「ニセコ3・1号」と改称され、2往復の「ニセコ」がスタートを切った。ダイヤは、「1・3号」が101D/函館5時05分→札幌10時05分、404D/根室8時00分→函館22時41分、「3・1号」が103列車/函館14時15分→札幌20時06分、104列車/札幌10時05分→函館16時10分で、「1・3号」は青函航路深夜便に接続、「1号」の101Dは80系気動車の「おおぞら」「北海」と3並びとなり早朝の函館駅を飾る伝説のシーンを演出していた。また「3号」の404Dは、根室〜函館間816.6kmを14時間41分駆けて走破する北海道らしい壮大な列車だった。これは改正前に根室→札幌間で運転されていた「阿寒」と札幌→函館間で運転されていた「ライラック」を一本化したもので、日本一長い距離を走る気動車急行として名を馳せた。「1号」の101Dは函館→札幌間の運転とし、札幌→根室間は「狩勝2号」として運用を揃えた(後に釧路〜根室間は「ノサップ」に系統分離)。
気動車「ニセコ」は不定期1往復も設定され、繁忙期は2往復が運転されたが、定期1往復は昭和55(1980)10月1日改正で廃止された。

いち早く北海道内の列車で14系化 61.11改正で定期運転を終了する

デアゴスティーニ編集部

苗穂工場で復元されたC62 3は「C62ニセコ」として函館本線小樽〜ニセコ間を復活運転。旧型客車を牽引し往時を再現した。

「ニセコ」の本流は、やはり客車で運転された「3・1号」だろう。この列車は43.10改正前は「ていね」と称していたが、40.10改正以前は函館〜釧路間の「まりも」として名を馳せた列車だった。この「まりも」は、東海道本線が全線電化された昭和31(1956)年11月19日改正を機に余剰となったC62が一斉に北海道へ流れてからは、いち早く同機が牽引した列車として知られていた。特に稲穂峠や倶知安峠といった勾配区間が点在する長万部〜小樽間ではC62の重連となり、「まりも」が「ていね」に、「ていね」が「ニセコ」に変わってもそのシーンは変わらなかった。「ニセコ」のC62牽引は昭和46(1971)年9月15日限りで終了してしまうが、「最後のシロクニ重連」として、それまでの数年は熱狂的なSLファンが函館本線に押し寄せ、SLブームは最高潮に達した。C62牽引最終日は函館本線の営業列車としては最後のシロクニ三重連となり、現在でもSLファンの間では伝説の列車として語り継がれている。

「ニセコスキーエクスプレス」などで「ニセコ」の名が残る

デアゴスティーニ編集部

183系5000番代「ニセコエクスプレス」は、3連固定編成でリゾートトレインに使用。平成15(2003)年12月以降、「北海道日本ハムファイターズ」仕様となっている。

C62牽引が終了した「ニセコ」はDD51牽引となり、昭和50年代に入っても一般型客車による編成で運転されていたが、昭和56(1981)年に入ると、前年の改正で関西〜九州間の客車急行が全廃された関係で14系座席車が函館運転所に30両転属してきた。これに伴い同年2月7日からは客車で1往復残った「ニセコ」が同系に置き換えられ、北海道に初めて特急型客車が登場した。北海道用の14系座席車は耐寒・耐雪装備が施され、ドアが引き戸に改造されるなど、外観面で本州時代から大きな変化が加えられていた。なお、「ニセコ」の14系は、昭和60(1985)年3月14日改正で、札幌〜稚内間の「宗谷」「天北」が14系に置き換えられたのに伴い、これらと共通運用となり、受持ちが函館運転所から札幌運転所へ移管された。
60.3改正以後、倶知安、小経由の優等列車は「ニセコ」のほかに特急「北海」2往復の態勢が維持されたが、函館〜札幌間の優等列車は室蘭本線、千歳線経由の「北斗」へ重点が置かれるようになり、国鉄最後の改正となる昭和61(1986)年11月1日改正で「北海」2往復は「北斗」へ吸収される形で廃止、「ニセコ」は不定期列車に格下げとなり、事実上廃止された。
 なお、JR化後は臨時列車として「ニセコ」の名が数回使用されており、「ニセコスキーエクスプレス」「ニセコライナー」など、「ニセコ」が冠された列車がいまなお残っているのは、函館本線とニセコ地域の結びつきの強さを感じさせる。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2014/11/17


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