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「出雲」

【第3回】「出雲」


出雲地方は、古くから神話の国として知られ、出雲大社はその象徴的な存在となっている。そのため、山陰本線では戦前から大阪と大社を結ぶ優等列車が運転されており、戦後は出雲地方へ向かう列車を象徴する「いずも」という列車名が付けられた。この「いずも」はのちに「出雲」と改称され、東京と島根県内を結ぶ代表的な優等列車として、準急から急行、そして特急へ昇進。「出雲」は2006年3月をもって廃止されたが、現在は後継の電車特急「サンライズ出雲」が伯備線経由で運転されている。

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戦前からあった出雲大社への優等列車

デアゴスティーニ編集部

戦前に登場した大阪〜大社間の急行は、幾多の変遷を経ながら47.3改正で特急「出雲」に昇格したが、機関車牽引列車の合理化により06.3改正で廃止され、現在、山陰本線京都〜伯耆大山間で「山陰夜行」の姿は見られなくなっている。

「出雲」のルーツは、昭和10(1935)年まで遡る。この年の3月15日に山陰本線と福知山線でダイヤ改正が行なわれ、大阪〜大社(現・廃止)間に福知山線経由の急行401・402列車が設定されたのだった。この列車は、全区間を8時間30分前後で結び、2等座席・和食堂合造車のマロシ37900を連結するなど、戦前の山陰本線系優等列車の花形として活躍した。しかし、昭和18(1943)年2月15日に実施された臨戦ダイヤではあえなく廃止され、山陰本線は再び、普通列車が走るだけの長大路線に転落した。
戦後、山陰本線系に優等列車が復活したのは昭和22(1947)年6月29日のことで、大阪〜大社間に準急409・410列車が設定されたが、所要時間は戦前の急行より2時間もダウンした10時間25〜30分だった。これは、線路設備が戦争の影響により貧弱化していたことに加えて、停車駅が急行時代より倍以上に膨れあがったことによるものだった。ちなみに戦前の急行は、下りの場合、途中、三田、福知山、和田山、豊岡、城崎(現・城崎温泉)、鳥取、上井(現・倉吉)、米子、松江、出雲今市(現・出雲市)にしか停車せず、現代の特急を先取りしたような列車だったから、戦後の準急とは別の列車と思った方がよいかもしれない。
この準急409・410列車は、戦後初の本格的なダイヤ改正となった昭和23(1948)年7月1日改正で701・702列車に改められ、列車番号のうえでは戦前の急行を彷彿させるようになった。所要時間は上下とも10時間20分に揃えられたが、下りの大社線内で途中駅の出雲高松に停車するようになった以外、停車駅に目立った変化はなかった。面白いのは、現在、特急「サンライズ出雲」ですら停車している「安来節」発祥の地・安来が通過だったことで、同駅が停車駅となったのは昭和24(1949)年9月15日改正のことだった。この改正では、ほかに尼崎(上りのみ)、浜村、東八橋(現・浦安)、赤碕といった停車駅が加わり、大社線内で上下とも出雲高松停車となったにもかかわらず、表定速度が若干アップしている。
次の昭和25(1950)年10月1日改正では、所要時間や表定速度に変化はなかったが、輸送力が徐々に上がってきたこともあって、大阪〜大社間準急も東京直通が望まれるようになった。この改正時点で、レールがつながっていなかった北海道や四国を除けば、東京からの直通列車が走っていなかった県は、山陰本線沿線の鳥取、島根の各県と山口県、和歌山県で、距離が長く地の利もよくない山陰沿線から東京直通が望まれるのは当然のことだった。
しかし、当時の国鉄からしてみれば、東京〜大阪間のドル箱輸送が最優先で、前例のない東京発着の山陰向け列車に対する需要の読みに自信はなかっただろうし、当時の乏しい財政では、東京直通の山陰向け列車に編成を新調する余裕もなかった。そこで、窮余の策として、東海道本線の急行に山陰直通の車両を数両連結して、大阪以西では従来の準急に付け替える運転形態が採られるようになった。
かくして、昭和26(1951)年11月25日には、「せと」と名付けられた東京〜宇野間の不定期急行3039・3040列車に山陰直通の車両を併結する運転が開始され、大阪〜大社間では急行に格上げのうえ、「いずも」の愛称を頂いた。昭和27(1952)年5月のダイヤを見ると、大阪〜上井間では準急時代と停車駅に大きな変化はないが、上井〜大社間の停車駅は、米子、松江、玉造温泉、出雲今市とほぼ現在の特急と同じ水準に整理されており、安来は再び通過となった。その結果、大阪〜大社間では準急時代より表定速度が6km/h以上もアップし、ほぼ戦前の水準に戻っている。
なお、この急行格上げにより、「いずも」と連絡する出雲今市〜浜田間の快速も設定されたが、こちらは昭和29(1954)年10月1日改正で「いずも」に抱合。出雲今市以西は快速扱いながら、東京と浜田の直通が実現している。

31.11改正後は東海道夜行の一翼も担う

デアゴスティーニ編集部

昭和30年代に入ると米子機関区に配置されたDF50が大阪〜米子間で牽引するようになり、「出雲」はほとんどの区間で無煙化を達成した。

昭和20年代は、どちらかといえば不遇だった「いずも」も、昭和31(1956)年11月19日改正は飛躍の時となった。東京〜大阪間では「せと」との併結が解かれ、全区間単独列車となり、愛称名が漢字書きの「出雲」と改められたのだ。加えて、東京〜大阪間では「銀河」「月光」「彗星」「明星」といった東海道夜行急行と同じ役割を担うようになったことから大阪回転の寝台車も連結し、東海道本線内では堂々とした幹線急行の風格を備えるようになった。
停車駅は、東海道本線内で尾張一宮と彦根が通過となった反面、山陰本線内では安来が復活。牽引機は、東京〜大阪間がEF58、大阪以西はC57だったが、昭和32(1957)年5月18日には、当時の米子機関区に配置されていたDF50が大阪〜米子間で「出雲」の牽引を開始している。ただし、北陸本線で1000t牽引が開始された同年10月1日改正を機に米子区のDF50全車が敦賀第一機関区へ転属したため、「出雲」の牽引は一時的にC57に戻った。
しかし、その時期はごくわずかで、昭和33(1958)年に入るとDF50がカムバック。同年10月1日改正以後は、大阪〜米子間が完全にDF50の牽引となった。非電化区間がDL牽引になったとはいえ、当時の山陰本線は全線が単線で、急行「白兎」などの列車も徐々に増発されていた関係で、大幅なスピードアップとはならず、表定速度は蒸機牽引時代と同水準にとどまった。
昭和36(1961)年に入ると、3月1日改正で、快速扱いだった出雲今市〜浜田間も急行化。東京〜浜田間の列車番号は、通し番号の25・26となり、浜田編成と大社編成の立場が逆転している。この頃には、大阪以西の停車駅が大幅に整理されており、福知山線内は川西池田のみ、山陰本線内は現在の特急並みの主要駅停車に改められ、東京〜浜田間の表定速度は50km/hを超えた。

福知山線や大社線と惜別した36.10改正

デアゴスティーニ編集部

DD51が牽引する、オロネ25を含む24系25型で運転されていた「出雲」。神話の国・出雲をイメージした紅色のヘッドマークは、強い印象を残した。

昭和36(1961)年10月1日改正で「出雲」は、31.11改正以来の転機を迎える。大阪に顔を見せなくなり、京都から直接山陰本線に乗り入れる運転経路に改められたのだ。また、大社直通が廃止され、列車番号を21・22に改めたうえで東京〜浜田間のみの運転となったが、東京〜京都間は上りで大阪発の急行「金星」を併結する関係で編成が半減してしまった。
京都〜福知山間が山陰本線経由となったことで、同区間では綾部のみ停車するようになった。福知山線経由より68.7km運転距離が短くなった関係もあって、下りでは表定速度が2km/hほどアップしたが、上りでは東京着の時間帯が通勤・通学時間帯が終了する9時以降にシフトしたため、ダイヤが改正前より4時間も繰り下がり、その分、表定速度がややダウンした。
36.10改正では、またもや併結運転に甘んじた「出雲」だったが、東海道夜行急行が削減された昭和39(1964)年10月1日改正では、車両とダイヤに余力が生まれたことから、再び単独運転となった。反面、表定速度は、山陰本線内で福部、青谷、知井宮(現・西出雲)、小田、田儀、久手といった小駅に停車するようになったこともあって、上下とも再び40km/h台に逆戻りした。昭和30年代末期になると、山陰本線でも優等列車が相次いで増発されるようになり、その分、全線単線の山陰本線では運転停車による交換も多くなり、所要時間が間延びする傾向があったようだ。
次の昭和40(1965)年10月1日改正では列車番号が23・24に変わり、下りのみ表定速度が50km/h台に戻ったが、東京口でのダイヤを間延びさせざる得ない上り列車は依然、わずかに50km/h台を下回る状態が続いていた。しかし、列車番号が33・34に変わった、昭和43(1968)年10月1日改正では、寝台特急の110km/h運転が開始されたこともあってダイヤが大幅に見直され、下り浜田着は約1時間、上りのダイヤは2時間繰り上がるようになり、表定速度は上下とも再び50km/h台を超えた。山陰本線内では、下りで米子、安来、荒島と松江、乃木、玉造温泉の3駅連続停車が始まる現象も見られ、全体的に停車駅が改正前より増えたものの、延びた停車時間は東海道区間の高速化が吸収していたともいえる。

47.3で特急化53.10後は2往復に

デアゴスティーニ編集部

寝台特急へ14系が投入された47.3改正では、余剰となった20系が「出雲」へ転用され、特急格上げが実現した

昭和40年代後半に入ると、寝台特急の体質改善が図られるようになり、昭和46(1971)年には分散電源方式を採用した14系寝台車がデビューした。同系は当初、急行「瀬戸2・1号」に暫定使用されていたが、昭和47(1972)年3月15日改正では特急「さくら」「みずほ」「あさかぜ2・3号」に充当されるようになり、これらの列車から捻出された20系により「出雲」が特急化されることになった。
特急に格上げされた「出雲」は、急行時代と比べて停車駅が大幅に厳選され、下りの京都と上りの京都〜沼津間で途中駅の客扱い停車がなくなった。牽引機は東京〜京都間がEF65型500番代、京都〜浜田間がDD54に変更された効果もあって、表定速度は一躍60km/h台にアップ。東京〜浜田間の所要時間は改正前より3時間以上も短縮された。急行時代は兵庫県北部以西を有効時間帯としていたが、特急格上げによる高速化に伴い、鳥取県以西にシフトし、「出雲」の愛称通り、出雲市への利便性が大幅に向上している。
次の昭和48(1973)年10月1日改正では、玉造温泉が停車駅に加わった以外、大きな変化はなかったが、昭和50(1975)年3月10日改正では、20系から新鋭の24系24型に置き換えられ、20系の「出雲」はわずか3年ほどで終焉を迎えた。「出雲」のグレードアップはさらに続き、昭和51(1976)年10月1日改正では、24系25型に置き換えられ、1人用A個室のオロネ25が連結されるようになった。
なお、50.3改正では、「出雲」を補完する列車として、東京〜米子間に14系寝台車を使用する特急「いなば」が新設されているが、この列車は昭和53(1978)年10月2日改正で出雲市まで延長され、「出雲3・2号」を名乗るようになり、東京〜浜田間の従来列車は「出雲1・4号」として「出雲」の2往復態勢がスタートした。
「出雲3・2号」は本家「出雲1・4号」より停車駅が多く、静岡、京都、綾部、香住、安来にも停車していた。綾部、香住、安来は、「出雲」が特急化された47.3改正以来、6年余ぶりの復活となった。
牽引機は、山陰本線内がすでにDD51に交替しており、東海道本線内はこの年の7月28日にEF65型1000番代に変更されている。
次の昭和55(1980)年10月1日改正では、列車番号の下ひと桁を号数に合わせる変更が行なわれ、続く昭和57(1982)年11月15日改正では、「1号」で続いていた玉造温泉停車がなくなった。また、昭和59(1984)年2月1日改正では、「3・2号」で行なっていた東京〜紀伊勝浦間特急「紀伊」の併結が中止されている。
国鉄末期に入ると、昭和60(1985)年3月14日改正で、47.3改正以来途絶えていた「1号」の安来停車が復活し、「2号」では名古屋での客扱い停車が中止された。昭和61(1986)年11月1日改正では「4号」も安来停車となった。この61.11改正では、「1号」の東京発が35分も繰り下がり、列車番号は全列車2000番代から1000番代に改められたほか、「3・2号」の客車運用が品川客車区から出雲運転区(現・出雲鉄道部出雲車両支部)へ移管されている。また、JR移行直前の昭和62(1987)年3月3日には、「1・4号」が金帯を巻いたグレードアップ編成に一新されている。

「出雲」を凌駕した韋駄天「サンライズ出雲」

デアゴスティーニ編集部

平成10(1998)年7月10日から運転を開始した「サンライズ出雲」。285系のバラエティ豊かな寝台車構成は衰退する寝台列車に新風を巻き起こした。

JR移行後の「出雲」は、「3・2号」でオハネ14を簡易個室化したり、一部のB寝台をリーズナブルな料金とするべく3段化するなど、サービス面での大きな動きが見られ、平成3(1991)年3月1日からは、「3・2号」でオロネ14型300番代やオハネ14型300番代といった個室寝台車も連結されるようになった。反面、同年6月1日には「1・4号」の食堂車が営業休止となり、本家「出雲」の斜陽化が目立つようになってきた。
運転面では、平成5(1993)年3月18日改正で「3号」が客車「出雲」としては最高の表定速度となる68.0km/hをマーク。永らく「1号」で通過だった宍道が停車駅に加わった。そして、約半年後の9月1日からは、山陰本線園部〜福知山間の電化工事に関連するトンネル改修に伴い、「1号」の京都〜伯耆大山間が東海道本線、山陽本線、伯備線経由による迂回運転に変更された。京都〜荒島間ではこの迂回措置に伴う臨時ダイヤが設定されたが、迂回区間での客扱い停車はなかった。
伯備線経由では従来より運転距離が55.4kmも長くなるが、東京〜岡山間はEF65型1000番代の通し牽引とし、岡山〜米子間はDD51重連で伯備線内の勾配を乗り切ることで、表定速度は迂回前より逆に3km/hほどアップしている。
 この措置は平成7(1995)年11月30日まで続けられたが、その間、平成6(1994)年12月1日には「1・4号」の客車運用が品川運転所(現・閉所)から尾久客車区(現・尾久車両センター)へ移管され、品川の地から「出雲」が離れてしまった。
こうした動きを経て迎えた平成10(1998)年7月10日、従来の「出雲3・2号」を電車化したまったく新しいコンセプトの列車が誕生した。それが東京〜出雲市間を伯備線経由で結ぶ「サンライズ出雲」だ。JR東海とJR西日本が共同で開発した583系以来となる特急型寝台電車285系が充当され、東京〜岡山間は東京〜高松間の「サンライズ瀬戸」と併結するスタイルが現在も続いている。
「サンライズ出雲」の運転開始により、従来の「出雲1・4号」は再び号数なしの「出雲」となり、列車番号は特急らしい9・10となったが、同時に出雲市〜浜田間が廃止され、29.10改正以来、43年余りにわたる「出雲」の浜田乗入れにピリオドが打たれた。
「サンライズ出雲」の快速性は絶大で、勾配が多い伯備線内では速度が落ちるものの、80km/hに迫る表定速度をマーク。下りの場合、東京を50分前に発車した「出雲」より出雲市に47分も早く到着するという韋駄天ぶりだった。しかし、当初は伯備線内で客扱いが行なわれず、平成11(1999)年12月3日(東京発基準)からようやく下りが新見のみ停車するようになった。東海道、山陽本線内では、下りが浜松〜姫路間で客扱いを行なっていないが、上りは三ノ宮と大阪で客扱いを行なっており、平成20(2008)年3月15日改正で東京〜大阪間の急行「銀河」が廃止されて以来、大阪から東京へ向かう貴重な夜行の足として重宝されている。
「サンライズ出雲」の登場で、さらなるスピードアップと車両の改善が見込めなくなった「出雲」は斜陽の一途をたどり、平成18(2006)年3月18日改正でついに廃止され、東京と鳥取、島根県内を結ぶ優等列車は「サンライズ出雲」のみとなった。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2013/03/25


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