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「まつかぜ」

【第35回】 「まつかぜ」


昭和30年代以前の山陰本線は長大な非電化単線ローカル線といわれ、優等列車のほとんどは地域間で細々と運転されているにすぎなかった。そんな状況に風穴を空けたのが「サン・ロク・トオ」改正で登場した特急「まつかぜ」だった。以前から運転されていた客車列車や気動車準急に混じって現れたクリームと朱色の鮮やかな80系特急型気動車は、当時の山陰地方の人々に大きなインパクトを与えたという。

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地方線区のスピードアップを目的に誕生した京都~松江間の「まつかぜ」

デアゴスティーニ編集部

山陰本線の名物・餘部鉄橋を渡る「まつかぜ」。山陰特急の代表として名をはせた。

「まつかぜ」が登場する以前の山陰本線の優等列車は、東京〜浜田、大社間の急行「出雲」、京都〜米子間の準急「白兎」、京都〜大社間の「だいせん」(伯備線経由)が目ぼしいところで、その他は北近畿地区や鳥取〜島根県相互間などで気動車準急が細々と運転されているにすぎなかった。京都〜下関間や門司〜大阪間では1等車を連結した普通列車が健在で、特に大阪〜大社間の夜行717・718列車(現在の「だいせん」の前身)は1等寝台車まで連結されており、長距離の移動はまだまだ普通列車に依存していた時代でもあった。
このような折、国鉄では昭和35(1960)年12月10日から上野〜青森間で運転を開始した初の気動車特急「はつかり」が軌道に乗ったことから、昭和36(1961)年10月1日改正では全国に気動車による特急網を形成して地方線区のスピードアップを図ることとし、キハ82型をはじめとする80系2次車を全国の亜幹線に投入した。これは山陰本線も含まれており、京都〜松江間に線内初の特急「まつかぜ」が誕生した。

全線単線の山陽本線にあっても好調だった利用率

デアゴスティーニ編集部

従来の9両編成から43.10で12両編成となった「まつかぜ」。このあと、2往復に増強された47.3では「まつかぜ1・2号」が史上最大両数の13両編成となり、最盛期を迎えることとなる。

運転開始当初の「まつかぜ」のダイヤは、7D/京都7時30分→松江14時05分、8D/松江15時00分→京都21時35分で、京都〜福知山間は東海道本線・福知山線経由だった。当時は「まつかぜ」運用の80系が1本のみだったため、下り列車が55分で松江で折り返すダイヤとなっていた。当時の国鉄は地方線区に割ける予算が少なく、どこも少ないパイをやり繰りしながら日々の列車運行に努めていたが、このようなタイトな折返し運用は、まさにそういった事情を物語っていた。また、全線単線という山陰本線の条件は「サン・ロク・トオ」改正以前から変わりはなく、東海道本線のような劇的なスピードアップは望めなかったが、それでも全線の所要時間は6時間35分で、ほぼ同じコースを走る急行「三瓶」と比べると、大阪〜松江間で1時間以上も「まつかぜ」の方が速かった。
山陰地方というとどうしても地味な土地柄というイメージがあり、果たしてそのようなところに料金も敷居も高い特急が受け入れられるか、という疑問は国鉄部内でもあったといわれているが、蓋を開けてみると「まつかぜ」の利用率は好調で、山陰地方というより、むしろ京阪神地区の乗客が目立ったという。

大阪〜博多間を13時間以上かけて走った博多直通「まつかぜ」

デアゴスティーニ編集部

「まつかぜ」には、絵入りのヘッドマークも用意されていた。

「まつかぜ」の好調に気をよくした国鉄は、昭和38(1963)年10月1日改正で6両編成から7両編成に増強、さらに翌年3月20日改正では9両編成とし、運転区間を博多まで延長、九州乗入れを果たした。その当時のダイヤは、7D/京都7時30分→博多20時55分、8D/博多8時20分→京都21時35分で、全線の所要時間は13時間以上にもおよんだ。これは大阪〜青森間の特急「白鳥」に匹敵する長さで、「まつかぜ」は日本でも有数の長距離特急に成長した。
昭和40(1965)年10月1日改正では、受持区の向日町運転所に80系気動車48両が増備され、同年11月1日からは新大阪〜浜田間に姉妹列車ともいえる「やくも」が誕生したが、昭和47(1972)年3月15日改正で岡山で山陽新幹線から接続する伯備線の特急にその名を譲ることになったことから、「まつかぜ」に編入されている。
昭和40年代以降の「まつかぜ」は、東北特急「はつかり」の電車化、奥羽特急「つばさ」の181系化などによる80系の転配により着実に編成が増強され、昭和47(1972)年3月15日改正では最大の13両編成となった。また先述の旧「やくも」からの編入分を含めて、「まつかぜ」は京都〜博多間と大阪〜鳥取間の2本建てとなる。
昭和47(1972)年10月2日改正では、山陰本線京都口に特急「あさしお」が新設されたことから、「まつかぜ」は長らく続いた京都始発をやめ、下りは大阪始発、上りは新大阪終着に改められた。

国鉄末期は米子を境に系統分割 最後は「北近畿」に吸収される

デアゴスティーニ編集部

57.7改正では「まつかぜ1・4号」を除いた山陰特急がすべて181系気動車に置き換えられ、気動車特急の新陳代謝が進んだ。

かつては長大な非電化単線ローカル線といわれていた山陰本線も、昭和57(1982)年7月1日、ついに電化時代を迎えることになった。この日のダイヤ改正では、伯備線倉敷〜伯耆大山間と山陰本線伯耆大山〜知井宮(現・西出雲)間が電化開業し、岡山〜出雲市間の特急「やくも」が全列車381系特急型電車に置き換えられた。この結果、米子運転所配置の181系特急型気動車が向日町運転所へ転属し、「はまかぜ」2往復、「あさしお」4往復が181系に置き換えられた。これらと共通運用の「まつかぜ」は、大阪〜鳥取間1往復が181系に置き換えられ、「まつかぜ」は大阪、新大阪〜博多間の1往復のみが80系のまま残された。
しかし、この時期、「まつかぜ」の利用者は減少カーブを描いていた。山陰本線は新鋭車が投入されたとはいえ、大部分が非電化・単線という線路条件は昭和30年代と変わらず、反対に山陽新幹線が博多まで達し、競合する中国自動車道も京阪神と中国地方を結ぶようになると、乗客の山陰本線離れが着実に進んでいった。特に13時間もかけて走る博多直通「まつかぜ」の通し客は皆無に等しい状態で、乗客のほとんどは区間利用者といってよかった。それだけに博多直通「まつかぜ」の系統分離は当然の帰結となり、昭和60(1985)年3月14日改正では、大阪、新大阪〜米子間が「まつかぜ1・4号」、米子〜博多間が「いそかぜ」に系統分離され、同時に80系による運用は消滅した。この時点で米子以東ではかろうじて2往復とも残った「まつかぜ」だったが、国鉄最後のダイヤ改正となった昭和61(1986)年11月1日には、福知山線宝塚〜福知山間と山陰本線福知山〜城崎間が電化開業し、大阪〜城崎間に電車特急「北近畿」が誕生したことから、「まつかぜ」は2往復とも廃止となった。

山陰本線鳥取県内高速化に伴い「スーパー」付きでその名が復活

デアゴスティーニ編集部

山陽新幹線や中国自動車道が開通して山陰本線は客離れが進み、「まつかぜ」も短編成・系統分離化されたのち、昭和61年に廃止となった。

山陰本線から「まつかぜ」の名が消えて17年が経った平成15(2003)年10月1日、山陰本線鳥取〜米子間高速化工事が完成し、同線は本格的な高速化時代を迎えた。これにともない、鳥取〜米子〜益田間で運転されていた特急「スーパーくにびき」は「スーパーまつかぜ」に改称されることになり、「スーパー」の冠が付いたものの「まつかぜ」の愛称が復活した。
「まつかぜ」から80系を駆逐した181系も、現在は新鋭の187系特急型気動車に追われるようになり、「スーパーまつかぜ」は「スーパーくにびき」時代に引き続き、187系で運転されている。また、この年の12月6・7日には、山陰本線京都〜益田間開通80周年を記念した「まつかぜ」のリバイバル列車が運転された。もちろん充当されたのは181系で、古巣の大阪、新大阪〜米子間を懐かしく駆け抜けた。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2015/11/15


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