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「日本海」

【第40回】 「日本海」


大阪〜青森間の日本海沿いを北陸本線〜信越本線〜羽越本線〜奥羽本線経由で結ぶ、いわゆる「日本海縦貫線」は、関西と東北をショートカットする重要な路線で、1000km以上におよぶ長距離列車が大正時代から運転されていた。太平洋戦争末期は急行列車の運転が中止されたが、戦後はいち早く復活し、後に「日本海」と命名。日本海縦貫線の夜の顏として活躍した。

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大正時代から運転されていた日本海縦貫線直通急行列車

デアゴスティーニ編集部

EF81のトップナンバーが牽く「日本海」。客車は24系25型だ。

「日本海」が運転され大阪〜青森間の日本海縦貫線が全通したのは、大正13(1924)年7月31日のことだった。このとき、難工事だった羽越本線が全通し、さっそく神戸〜青森間の急行503・504列車が運転を開始した。この列車は2等寝台車を連結し、神戸〜青森間を31時間40分で結んだが、急行区間は神戸〜富山間のみだった。全区間が急行で運転されるようになったのは、大正15(1926)年8月15日改正でのことで、505・506列車が神戸〜青森間を25時間55分で結んだ。このときは2等寝台車のほかに和食堂車が連結され、幹線の優等列車としての体裁が整えられた。
しかし、この列車は昭和4(1929)年9月15日改正で廃止され、新たに大阪〜青森間の急行501・502列車が登場した。所要時間は24時間35分とややスピードアップし、戦前の日本海縦貫線の看板列車として君臨したが、太平洋戦争の激化により昭和18(1943)年2月に廃止されてしまった。

特急「白鳥」が登場するまでは昼夜を兼ねたダイヤで運転

デアゴスティーニ編集部

昭和47(1972)年、DD51と20系客車の組合せで羽越本線を北上する「日本海」。

大阪〜青森間の直通列車は終戦後も普通列車のみが運転されていたが、昭和21(1946)年末からの石炭の供給悪化により、昭和22(1947)年1月4日からは全国の国鉄から優等列車と2等車(現・グリーン車)が消えるという最悪の事態に陥る。同年4月24日には東海道本線などで急行が復活したものの、日本海縦貫線に急行が復活したのは7月5日のことで、507・508列車が大阪〜青森間を25時間50分で結んだ。
この列車は昭和24(1949)年9月15日改正で501・502列車となり、所要時間を約2時間短縮した。そして昭和25(1950)年11月8日には、全国の主要な急行に愛称名が付けられることになり、「日本海」と命名された。その当時のダイヤは、501列車/大阪22時30分→青森翌22時24分、502列車/青森5時40分→大阪翌5時57分で、上下とも北陸本線内が夜行運転だった。このスジは昭和36(1961)年10月1日改正で登場する特急「白鳥」(現・廃止)と急行「日本海」の流れを汲む現在の急行「きたぐに」の役目を合わせ持ったものといえる。
1961(昭和36)年10月1日、大阪〜青森、上野間に80系気動車による特急「白鳥」が運転を開始した。これにより「日本海」が持っていた北海道連絡の役割は「白鳥」に譲られることになり、ダイヤは501列車/大阪19時10分→青森翌17時29分、502列車/青森12時02分→大阪翌10時05分と大きくシフトした。また、この改正では白新線経由に変更となり、新潟に立ち寄るようになった。これにより、日本海縦貫線の昼の顏は「白鳥」、夜の顏は「日本海」という棲み分けが確立した。

「ヨン・サン・トオ」改正で特急格上げ 従来の急行は「きたぐに」に改称

デアゴスティーニ編集部

「きたぐに」の編成を転用した583系臨時「日本海」。「きたぐに」では座席使用のみだったモハネもB寝台車として利用された。

全国的に特急が大増発された昭和43(1968)年10月1日、日本海縦貫線の夜行列車に初めて特急が新設された。この特急は「日本海」と命名されたことから、これまで「日本海」を名乗っていた急行は「きたぐに」に改称された。特急「日本海」は20系9両編成が充当され、大阪〜青森間を16時間20分で結んだ。ダイヤは北海道連絡を念頭に置いて組まれ、2001列車/大阪19時30分→青森翌11時50分、2002列車/青森16時30分→大阪翌9時26分と、これまでの急行「日本海」より6時間近いスピードアップを実現した点で画期的といえる。
特急「日本海」は大変好評だったことから、翌年10月1日改正では電源車を含む13両編成に増強され、ようやく本線の寝台特急にふさわしい編成長となった。
だが「日本海」の20系時代はそう長くはなかった。昭和46(1971)年には20系の後継系列となる14系寝台車が登場し、翌年3月15日改正で九州特急の「さくら」「みずほ」を置き換えた。また昭和48(1973)年には集中電源方式の24系が登場し、関西〜九州間の寝台特急を次々と置き換え、全国的に20系の牙城が崩れつつあった。「日本海」もこのような流れから、昭和50(1975)年3月10日改正で14系寝台車に置き換えられたほか、1往復が増発された。ただしこの増発分は季節列車で、しかも編成は14系座席車のみだった。14系座席車は同じ改正で関西〜九州間の急行に転用されているだけに、季節列車とはいえ長距離の夜行特急に使用するのは抵抗感が拭えなかった。そのため運転時期は短く、昭和51(1976)年3月1日改正では、2段寝台の24系25型に置き換えられ、B寝台は定期「日本海」よりグレードアップした。この季節「日本海」は昭和53(1978)年10月2日改正で定期化され、「日本海」は正式に2往復となった。また既存の定期「日本海」はこの改正で3段寝台の24系24型に置き換えられた。2往復とも2段寝台となったのは昭和57(1982)年11月13日のことだった。

函館乗入れで新展開を迎えるもエコノミー特急に徹して運転

デアゴスティーニ編集部

24系24型と同じ3面折妻、埋込み幌が特徴の25型0番代。写真のオハネフ25は、ジャンパ栓受けを床下に移し、14系のようにすっきりしたマスクとなった28番以降の増備車である。

JR移行後初の全国ダイヤ改正となった昭和63(1988)年3月13日、青函トンネルを含む念願の海峡線中小国〜木古内間が開業した。上野〜札幌間では乗換えなしで直通する寝台特急「北斗星」が運転を開始、東北新幹線と連絡する特急「はつかり」も一部が海峡線を越えて函館まで乗り入れるようになった。これに伴い「日本海」も「1・4号」の1往復が函館まで乗り入れるようになったが、この当時の「日本海」は、豪華な個室寝台車や食堂車などを備えた「北斗星」と比べると、オールB寝台車のみの編成で、1000km以上もの運転距離を誇る寝台特急としてはかなり見劣りする姿だった。それでも、この年の7月15日からは函館編成の「1・4号」にマニ50を連結しバイクを積載できる「日本海モトとレール」(現在は連結されていない)として運転され、夏シーズンはユニークな面も見せたこともあった。
「日本海」を担当したのはJR西日本だったが、同社は「日本海」をグレードアップすることなく、大阪〜札幌間に豪華な個室寝台車群で構成したまったく新しい寝台特急を設定した。これが平成元(1989)年7月21日から運転を開始した「トワイライトエクスプレス」だ。この列車は当初、団体臨時列車扱いで運転されていたが、上下隔日で定期的に運転された。
「トワイライトエクスプレス」は運転線区からいえば「日本海」の増発ともとれそうだが、実際には観光客を対象としたまったく別の列車と見た方がよさそうだ。「日本海」の方は大阪〜函館間の「1・4号」に一人用A個室「シングルDX」が、「3・2号」には開放式A寝台車が連結されていたものの、開放式B寝台車主体のエコノミー編成であることに変わりはなく、おもにビジネス客をターゲットにした正反対の性格の列車といってよいだろう。
「日本海」は2012年3月17日ダイヤ改正で定期運行が終了し、「トワイライトエクスプレス」も2016年3月12日が最終運行日となったが、日本海縦貫列車の記憶は、今後も人々に語り継がれることだろう。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2016/04/14


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