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「安芸」

【第53回】 「安芸」


東京〜広島間は、45.10改正までは夜行急行が運転されていた。それが「安芸」であり、昭和20〜40年代は東京〜広島間の代表的な優等列車として君臨していた。50.3改正では新大阪〜下関間の寝台特急に昇格し、特急昇格で華やかになったかに思えた「安芸」だったが、内実は低利用率に泣き、53.10改正で廃止されてしまった。

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C59やC62が牽引した本州内最後の旅客列車

デアゴスティーニ編集部

45.10改正までの20年間、東京〜広島間の代表的な夜行急行として君臨してきた「安芸」の末期は本州のC62にとっても末期であった。廃止までの2年間は糸崎機関区の協力により呉線内で当時の客車急行としては異例のヘッドマークまで取り付けられ、現在でも伝説の列車としてSLファンの脳裏に刻まれている。

特急「へいわ」が運転を開始する一方、夜行列車も整備され、東京〜大阪間には「銀河」を含む3往復の急行が勢揃いするようになった。また、これとは別に、東京〜姫路間には43・42列車という1往復の夜行急行も設定された。この列車のダイヤは43列車/東京21時00分→大阪8時53分・9時14分→姫路11時16分、42列車/姫路19時12分→大阪21時18分・21時38分→東京9時15分で、大阪〜姫路間はむしろ昼行列車のような性格で運転されていたようで、実質は東京〜大阪間の東海道夜行急行の一翼を担っていたといえる。43・42列車は同年12月10日には岡山まで延長されるようになり、昭和25(1950)年5月11日にはさらに広島まで延長、三原〜海田市間が呉線経由で運転された。この列車は、戦後初の広島県内からの定期東京直通列車であったことから、地元では「ひばり」という愛称名で呼ばれていたが、全国版の国鉄監修時刻表に列車名の記載はなかった。この列車の昭和25(1950)年10月1日改正時のダイヤは、39列車/東京21時30分→広島16時13分、40列車/広島12時40分→東京7時23分で、東京〜岡山間は宇野行きの編成を併結していた。
この「ひばり」も、同年11月2日には特別2等車を連結する全国の主要急行に愛称名が付けられるようになったことから、正式に広島県の旧国名にちなんで「安芸」と名付けられ、昭和26(1951)年9月15日には、東京〜岡山間で併結していた宇野行き編成を分離して晴れて単独列車となった。
昭和20年代の「安芸」は、大半の時期が座席車のみで運転された輸送力列車だったが、昭和29(1954)年10月1日改正では2等寝台車マロネ29が、昭和31(1956)年4月25日には3等寝台車ナハネ10が連結されるようになった。東京発着の優等列車の中でも、運転距離が900kmを近い「安芸」は寝台車の需要が旺盛で、昭和30年代後半に入って2等寝台車のオハネ17やスハネ30が増備されるようになると寝台車の連結が増え、昭和37(1962)年10月1日改正では寝台列車に昇格、荷物車、緩急車、1等座席車、食堂車各1両を除く全車が寝台車となった。さらに、東海道新幹線が開業した昭和39(1964)年10月1日改正を迎えると、東海道夜行急行の一員であった「あかつき」「彗星」「すばる」が廃止されたことから、余剰となった寝台車が転用されて「安芸」は晴れて全車が寝台車となった。「安芸」が最も輝いていたのがこの時期で、昭和40年代に入っても全車寝台編成は変わらなかったが、昭和45(1970)年10月1日改正を機に呉線の全線電化が達成されたことから、後身を新設の特急「あさかぜ3・1号」に託して姿を消した。この初代「安芸」の廃止は、呉線内の牽引機でもあった糸崎機関区のC59やC62の終焉も意味し、「安芸」はこれらが牽引する本州最後の列車でもあった。

45.10改正から山陽本線の電車急行へシフト

デアゴスティーニ編集部

C59の晩年、最も華やかな舞台が寝台急行「安芸」の牽引であった。

45.10改正では、東京〜広島間の客車急行としては終焉を迎えた「安芸」だったが、今度は、新大阪、大阪〜呉間の電車急行として新たな舞台が待っていた。2代目の「安芸」は、昭和43(1968)年10月1日改正から新大阪、大阪〜三原間の急行として運転されていた「とも」3往復のうち、1往復を呉まで延長し、「安芸」と改称したもので、宮原電車区の153系12連が使用されている。その当時のダイヤは、1313M/大阪8時03分→呉13時30分、318M/呉13時51分→新大阪19時23分で、相生〜東岡山間は赤穂線を経由するというユニークな急行であった。

50.3改正で特急に昇格するも低利用率から3年余りで廃止に

デアゴスティーニ編集部

50.3改正では新大阪〜下関間の寝台特急に格上げされ装いを新たにしたが、その人気は芳しくなく、昭和52(1977)年9月に20系から24系25型に置き換えられてもその状況は変わらなかった。

山陽新幹線博多開業を迎えた昭和50(1975)年3月10日改正では、新幹線に並行する山陽本線の在来優等列車が原則すべて廃止されることになり、「安芸」は全列車が快速に格下げられ、昼行電車急行としての使命を終えた。これで「安芸」の名は最後になるかに思われたが、今度は新大阪〜下関間の夜行急行「音戸1・2号」を特急に格上げした列車に名付けられることになり、その名が再び夜行列車に戻ってきた。新たに新大阪〜下関間の寝台特急として登場した4代目「安芸」は宮原客車区の20系10両編成を使用して、1001列車/新大阪22時58分→下関8時38分、1002列車/下関20時05分→新大阪5時36分のダイヤで運転された。意外にもこの「安芸」が呉線初の特急となったが、所要時間は「音戸」時代と大差ないうえに、当時の国鉄の相次ぐ運賃・料金値上げや旅客の新幹線への移転などで利用率は芳しくなく、お盆や年末年始を除けば気の毒なくらいの「空気輸送」が続いていたという。そんな「安芸」も昭和52(1977)年9月1日から当時新鋭の2段式寝台車24系25型に置き換えられ体質改善が図られたものの、時すでに遅く、昭和53(1978)年10月2日改正では成績不振を理由に「降板」させられた。寝台特急の廃止は、当時としては新幹線の開業時を除けば珍しく、いかに「安芸」が低利用率に泣かされていたかがわかる。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2017/05/15


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