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「北陸」

【第55回】 「北陸」


上野と金沢を上越線経由で結んでいた寝台特急「北陸」は、前身の急行時代を含めると60年近くも走り続けた老舗列車だった。昭和20年代は金沢から遠く大阪まで足を伸ばし、京阪神から北陸への昼行需要にも応じていたが、31.11改正では系統分離が行なわれ、首都圏対北陸の夜行列車となった。

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幹線筋の長距離急行ながら愛称命名時も座席車のみの編成に

デアゴスティーニ編集部

上野〜金沢間で運転されている特急「北陸」はビジネス指向の寝台特急として活躍したが、43.10改正から50.3改正までは急行として2往復が運転されていた。昭和20年代は長駆、大阪まで足を伸ばしていたこともあったが、31.11改正から首都圏対北陸の列車に生まれ変わっている。

首都圏と北陸を結ぶ優等列車の歴史は古く、遠くは大正時代にまで遡る。北陸本線が全通したのちの大正11(1922)年3月15日改正で、上野〜金沢間を信越本線経由で結ぶ急行773・772列車が登場したのがその始まりで、この列車は大正15(1926)年8月15日改正で列車番号を601・602列車に変更、昭和14(1939)年11月15日改正では大阪まで延長され、京阪神からの北陸指向の列車としての役割も担うようになった。同改正では上野〜金沢間に不定期急行1601・1602列車も設定されたが、昭和18(1943)年2月15日改正で廃止、601・602列車も戦局の悪化により昭和19(1944)年4月1日改正で廃止となった。
戦後に入り、昭和21(1946)年11月10日改正で上野〜金沢間の優等列車が復活したが、石炭不足による輸送事情の悪化などにより準急としての設定となった。昭和22(1947)年1月4日には石炭事情がさらに悪化、急行と2等車の全廃という最悪の事態を迎えたが、春を迎えると好転し、同年6月29日に行なわれた旅客列車の第3次復活で上野〜新潟間列車に併結ながら、上野〜金沢間急行605〜305・306〜606列車が登場した。この列車は上越線経由で運転されたことから、のちの「北陸」のルーツとされ、昭和23(1948)年7月1日改正では列車番号が戦前の上野〜大阪間急行と同じ601・602列車に戻り単独列車となった。さらに昭和24(1949)年10月22日からは、戦前と同じく大阪まで延長され、上野〜金沢〜大阪間急行となった。そして、昭和25(1950)年11月2日には晴れて「北陸」と命名、名実ともに北陸指向の代表的な優等列車として歩み始めた。その当時のダイヤは、601列車/上野21時10分→金沢8時38分・8時52分→大阪15時55分、602列車/大阪13時10分→金沢19時56分・20時03分→上野7時17分で、首都圏対北陸は夜行、京阪神対北陸は昼行の役割を担っていた。
さて、「北陸」命名時の編成は座席車のみで、幹線の長距離急行としてはいささか力不足の感があった。そこで、昭和28(1953)年1月からは半室ながら2等寝台車の連結を開始し、さらに昭和31(1956)年4月10日からは3等寝台車も連結され、次第に優等列車らしい体裁が整えられていった。

31.11で北陸内の昼行区間を分離 43.10では不定期を含む2往復に

デアゴスティーニ編集部

「北陸」の長岡〜金沢間は、直流〜交流60Hzの切換えが必要なため、一貫してEF81が牽引した。

「北陸」は上野〜大阪間の運転とはいうものの、さすがに全区間を通しで乗車する客は皆無に等しく、福井や金沢で大半の客が入れ替わる状況だった。そこで、昭和31(1956)年11月19日改正では、大阪〜富山間が「立山」として分離され、「北陸」は上野〜福井間の運転となった。その当時のダイヤは601列車/上野21時15分→福井10時00分、602列車/福井18時35分→上野7時32分で、純然たる夜行列車に戻る形となった。
これ以後の「北陸」は、すでに姉妹列車で信越本線経由の昼行急行「白山」が登場していたものの、夜行の需要が根強く慢性的な混雑が続いていた。そこで、昭和34(1959)年9月22日改正では、東京〜米原〜金沢間に急行「能登」が新設され、その関係で「北陸」の運転区間は金沢までに短縮された。さらに昭和36(1961)年10月1日改正では上野〜金沢間を信越本線経由で結ぶ夜行急行「黒部」が、昭和40(1965)年10月1日改正では上野〜福井間を信越本線経由で結ぶ夜行急行「越前」が増発され、首都圏対北陸の夜行列車は充実度が増していった。
しかし、昭和43(1968)年10月1日改正を迎えると、首都圏対北陸の夜行列車が需要過剰となったことから「黒部」が廃止、代わって「北陸」に不定期列車1往復が設定され、次のような2往復となった。
「1・1号」=6601列車/上野20時00分→福井7時14分、6602列車/福井18時35分→上野5時54分
「2・2号」=1601列車/上野21時28分→金沢7時55分、1602列車/金沢20時15分→上野6時34分
不定期「1・1号」は、「黒部」の流れを汲む座席車を主体とした編成だったが、定期の「2・2号」は1等座席車と荷物車各1両以外はすべて寝台車という堂々たる編成に生まれ変わった。

EF16が補機として連結された定期特急格上げ後の5年間

デアゴスティーニ編集部

特急化当初の「北陸」は20系で運転され、ナハネフ22の優美な姿を上越路でも見られるようになった。

昭和50(1975)年3月10日改正では、東京口の寝台特急「はやぶさ」「富士」「出雲」が24系24型に置き換えられたことから、余剰となった20系が上野口の優等列車へ転出し、不定期「北陸1・1号」は上野〜盛岡間の「北星」とともに定期特急に格上げされ20系に置き換えられた。一方の「2・2号」は急行のまま「能登」(2代目)に改称された。特急化当初の「北陸」のダイヤは、3001列車/上野21時18分→金沢6時05分、3002列車/金沢21時00分→上野5時45分だったが、下りの場合、まったく同じ区間を走る急行「能登」が「北陸」の30分後に運転されており、金沢着は同じ6時台と特急としてはスジ的にかなり苦しい内容だった。スピードアップを図るというよりは、転用先に困った20系を無理矢理運用しているようにも見え、「北陸」の特急料金は設備料金のような感じだった。
このように、利用者にとっては実質的な値上げに繋がり、あまり歓迎されなかった特急「北陸」だったが、ファンからは水上〜石打間でEF16が特急の補機につく貴重なシーンが提供されたことから歓迎され、昭和53(1978)年10月2日改正で「北陸」が14系寝台車に置き換えられてもこのシーンは変わらなかった。しかし、昭和55(1980)年10月1日改正では、ついに上越線にも新鋭のEF64 1000が進出したことから、EF16が特急を牽く姿はわずか5年半ほどで終わった。
昭和57(1982)年11月15日改正では、僚友の急行「能登」が14系に置き換えられたうえ、信越本線経由に変更されたことから、上野〜金沢間を上越線経由で結ぶ夜行列車は「北陸」のみとなった。その「北陸」はJR移行後もJR西日本の受持ち列車として存続し、平成元(1989)年3月11日改正から1人用A個室「シングルDX」と1人用B個室「ソロ」の連結が開始され体質改善が図られた。また、所要時間が短いことから、下り列車の金沢到着後に車両を東金沢に留置して、9時頃まで寝台車を利用できるサービスが実施されたが、平成3(1991)年3月に廃止された。「北陸」自体は寝台特急の個室指向の高まりから根強い支持を受け続け、寝台特急としては8両という短い編成ながら走り続けた。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2017/07/14


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