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「富士」

【第56回】 「富士」


国鉄に初めて特急、いわゆる「特別急行列車」が誕生したのは明治45(1912)年6月15日のことだった。この列車は昭和に入って「富士」と命名され、戦前の日本を代表するエリート列車として君臨した。「富士」は太平洋戦争末期に廃止されるが、戦後は永らくその名が封印され、昭和36(1961)年10月1日に電車特急でその名が復活、昭和39(1964)年10月1日からは東京〜九州間の寝台特急として運行された。

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欧亜連絡ルートの超エリート列車として登場

デアゴスティーニ編集部

牽引機EF66が先頭を飾る「富士」。かつての華やかさはないが、先頭部に掲げられたヘッドマークは、戦前の展望車と同じデザインで、辛うじて威厳を保っているかのようだ。

明治38(1905)年に日露戦争に勝利した日本は、世界が認める強国の仲間入りを果たし、国内では国威発揚ムードが高まりを見せていた。そんな折、明治44(1911)年3月1日、朝鮮総督府鉄道と南満州鉄道が結ばれ、シベリア鉄道を介した鉄道によるアジア〜ヨーロッパ間の「欧亜連絡」が始まり、日本側でこれに対応する国際列車運転の必要性が出てきた。すでに国鉄では東京〜神戸間で急行列車の運転を開始していたが、このうちもっとも速い列車に「最急行」の名を冠していた。これを下関まで延長し、関釜航路を介して朝鮮側の鉄道と連絡する「特別急行列車」の運転が企図され、明治45(1912)年6月15日に誕生したのが国鉄初の特急1・2列車だった。
この列車は、東海道本線内が昼行、山陽本線内が夜行で設定され、1列車/新橋8時30分→下関翌9時38分、2列車/下関19時10分→新橋翌20時25分のダイヤで運転された。国府津〜沼津間は現在の御殿場線経由となっており、1列車の新橋〜下関間の所要時間は25時間08分だった。編成は1等展望車に2等座席、1・2等寝台のみの豪華なもので、当時としては最先端の超エリート列車だった。この特急1・2列車は、大正3(1915)年12月20日に現在の東京駅が開業すると、東京発着に改められた。
昭和に入ると世界恐慌が勃発し、不況の波が一気に日本に押し寄せたが、国鉄はこれを打破するためのイメージアップ施策として特急1・2列車に愛称名を付けることとし、一般に公募した。その結果、昭和4(1929)年9月15日に特急1・2列車には「富士」、大正12(1923)年7月1日から運転を開始した2・3等特急に「桜」の名が付けられた。また、昭和5(1930)年10月1日改正では、「富士」の東京〜下関間の所要時間は19時間50分となり、初めて20時間の壁を破った。
当初、1・2等の編成でスタートした「富士」だったが、昭和も中期に近づくと旅行の大衆化が進み、昭和8(1933)年12月1日からは3等車の連結を開始、1・2・3等特急となった。また翌年12月1日には国府津〜沼津間が丹那トンネルの完成により現在の熱海経由に切り換えられ、運転距離が11.6km短縮、同時に東京〜沼津間が電気機関車牽引に変わったことにより、東海道本線の各特急が約1時間20分スピードアップした。
さて「富士」といえば、東京と九州を結ぶ列車というイメージが強いが、「富士」が初めて九州に乗り入れたのは昭和17(1942)年11月15日のことだった。下関〜門司間の関門海底トンネルが開通し、長崎までの乗入れを開始したのだ。この当時のダイヤは1列車/東京15時00分→長崎翌14時30分、2列車/長崎港15時30分→長崎15時40分→東京翌15時25分で、東京〜長崎間の所要時間は23時間30分だった。

戦後は東京から神戸と宇野へ電車特急として復活

デアゴスティーニ編集部

151系を使用した昼行特急から一転、夜行列車となって20系化されたころの「富士」。その後はすっかりブルートレインのイメージが定着した。

戦時体制が激化した昭和18(1943)年7月1日、「富士」は「燕」とともに特別急行から第一種急行に改められ、急行に包合された(従来の普通急行は第二種急行に)。これは、定員を厳守する特急では、戦時下での輸送力増強にそぐわないと判断されたことから、これを急行とすれば立席も認めることができる、という事情があった。
しかしこのような苦肉の策も長続きせず、第一種急行となった年の10月1日には早くも「富士」は博多打ち切りとなり、「燕」は廃止。翌年4月1日にはついに「富士」は廃止となり、その愛称名は長く封印されることになる。
戦後、国鉄に「富士」の名が復活したのは昭和36(1961)年10月1日の白紙ダイヤ改正時だった。今度は151系電車による東京〜神戸、宇野間の電車特急として登場し、戦前の「富士」のイメージとは180度違う形となった。しかし、大阪寄り先頭車には豪華な区分室と開放室を備えた1等特別座席車「パーラーカー」が連結され、この部分だけは戦前の「富士」を彷彿させるものがあった。
この電車「富士」は2往復が設定され、1往復は宇野で宇高連絡船に連絡して四国を結ぶ使命を担った。

電車特急から寝台特急へ 再び九州へ足を踏み入れる

デアゴスティーニ編集部

「パーラーカー」ことクロ151を先頭に東海道本線を行く「富士」。東海道新幹線の開業を2カ月後に控えた「最後の力走」を捉えたものである。新幹線開業後は舞台を西へ移し、最終的には九州乗入れも果たしている。

昭和39(1964)年10月1日、念願の東海道新幹線が開通し、東海道本線の昼行電車特急はすべて廃止された。「富士」は東京〜神戸間の1往復が廃止され、東京〜宇野間は新大阪〜宇野間の運転となり「ゆうなぎ」に改称された。しかしこれで「富士」の名が封印されたわけではなく、今度は東京〜大分間の寝台特急として再出発した。これは「みずほ」の大分編成を分離する形で誕生したもので、東京〜大分間の所要時間は18時間30分だった。この「富士」は昭和40(1965)年10月1日改正で西鹿児島まで延長され、日本最長距離の特急としてその名を馳せることになる。所要時間も24時間55分と特急としては最長で、上下列車は途中で二度、反対列車とすれ違っていた。
昭和40年代の「富士」は若干の編成変更があったが、東京〜西鹿児島間を1往復する形に変化はなかった。
昭和47(1972)年3月15日改正では、特急「さくら」「みずほ」が新鋭の14系寝台客車に置き換えられ、寝台特急の体質改善が始まった。翌年には関西発着の寝台特急が相次いで24系24型化され、昭和49(1974)年には国鉄初の二段式B寝台車である24系25型が登場。新型特急型客車の波は昭和50(1975)年3月10日改正で東京口にも進出してくる。
この改正で「富士」は「出雲」とともに24系24型に置き換えられることになり、改正前日の3月9日に下り列車から置換えが実施された。さらに翌年9月25日には下り列車から24系25型に置き換えられ、A寝台車はナロネ20・22以来の一人用個室寝台車オロネ25となった。
昭和55(1980)年10月1日改正では、前年の日豊本線全線電化に関連した同線の輸送体系整備により、「富士」は運転区間が東京〜宮崎間に短縮された。これにより、日本最長距離特急のタイトルを鹿児島本線経由の「はやぶさ」に譲ることになった。
国鉄末期の昭和60年代に入ると、さまざまなサービスが展開されるようになり、昭和61(1986)年3月2日には下り列車から4人用B個室「カルテット」を連結、同年11月1日改正では「カルテット」を外しロビーカーの連結を開始した。
JR移行後の九州特急は新幹線の高速化や航空網の充実にともない、次第に衰退していく。「富士」は平成2(1990)年3月10日改正で、南宮崎まで回送を兼ねた延長が行なわれたが、平成9(1997)年11月29日改正では大分止まりとなり、その後、利用者数の減少になどから、平成21(2009)年3月14日に廃止された。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2017/08/15


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