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「土佐」

【第64回】 「土佐」


土讃線系統の特急は、「南風」「しまんと」の名を現在も残しているが、90.11改正までは高松発着の高知止まり急行として「土佐」が運転されていた。その名はずばり高知県の旧国名「土佐」から取られたもので、予讃線系統の「いよ」とともに、県庁所在地間を結ぶ優等列車として、四国内のビジネス層に支持されていた。

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土讃線系統の優等列車として2エンジン車不足のため客車で登場

多度津と窪川を結ぶ土讃線は、途中に高知県の県庁所在地である高知が存在するため、高知以遠を走る列車と高知止まりの列車の2種の優等列車が設定されていたが、後者の代表格が「土佐」だった。僚友の「南風」「足摺」(のちの「あしずり」)は現在も特急として運転されているが、「土佐」のみは90.11改正で姿を消し不遇だった。

四国内では、戦前に優等列車の運転実績がなく、昭和22(1947)年6月29日に設定された高松桟橋(現・高松)〜松山、高知間の準急29・26列車が最初の優等列車となった。しかし、準急の本格的な増発時代を迎えたのは、旅客列車の気動車化が推進されるようになった昭和30年代に入ってからで、予讃線系統では昭和33(1958)年11月1日改正で高松桟橋〜松山間の準急「やしま」が、四国最初の気動車優等列車として登場している。
一方、土讃線系統に目を向けると、土讃本線(現・土讃線)が讃岐山地と四国山地を越える山岳路線であることから近代化が遅れ、昭和34(1959)年9月22日改正ではようやく「南風」に次ぐ2番目の準急として高松〜窪川間に「土佐」が運転を開始した。しかし当時、優等用の2エンジン気動車の配置がなかった四国では、1エンジン車では険しい土讃線を越えることが難しかったことから、「土佐」は「南風」と同じく客車列車として設定された。その当時のダイヤは105列車/高松5時33分→窪川12時00分、106列車/窪川19時03分→高松0時03分で、高知〜窪川間は普通列車として運転された。
そんな「土佐」も、昭和35(1960)年2月15日改正では高松〜須崎間に1往復が増発された。この増発分は、当初、毎日運転の臨時気動車列車として運転されていたが、同年6月に正式な定期列車となった。そしてこの年の10月1日に実施された改正では、キハ55型が四国にも増備されたことから「土佐」は客車1往復が気動車化、さらに高松〜須崎、窪川間に1往復が増発され、3往復すべてが気動車による運転となった。

38.2では全列車が気動車化される

JR移行後の「土佐」には、アイボリー地にJR四国のコーポレートカラーである水色に塗られたキハ58型グループが充当された。先頭部に付いている円形の愛称名板は国鉄時代からの伝統だ。

昭和36(1961)年に入ると、4月15日に実施された改正で高松〜高知間に1往復が増発されるが、客車時代の流れを汲む高松〜窪川間1往復が全区間準急となり「足摺」と改称、差し引き3往復のままとなる。この時点で、土讃線系統の優等列車は「南風」「土佐」の2準急のみだったが、昭和36(1961)年10月1日改正を迎えると、本州側で東京〜宇野間に特急「第1・2富士」、大阪〜宇野間に特急「うずしお」が新設されたことから、宇高連絡船を介してこれらと接続する列車として土讃線系統では急行が初めて設定され、高松〜須崎(窪川)間は「黒潮」、高松〜高知間は「浦戸」と命名された。これにより、既存の準急「土佐」は高松〜高知間の2往復に後退し、土讃線の準急は「南風」「足摺」を含め4往復態勢となった。
さて、当時、京阪神と徳島県の間は、宇高間を経由するより、和歌山から海路を経由した方がはるかに利便性が高かった。現在は、神戸淡路鳴門自動車道もルートに加わり、瀬戸大橋を経由するJR線は相当苦戦しているが、当時は南海電気鉄道の難波〜和歌山港間特急と南海汽船(現・南海フェリー)、阿紀航路を利用して小松島港(現・廃止)へ至り、そこから国鉄小松島線(現・廃止)を経て四国各地へ入るのが一般的だった。このため、これらの利用者の利便を図るために、昭和37(1962)年4月12日からは小松島港〜高知、多度津間に気動車準急「阿佐」が2往復設定された。この「阿佐」のうち1往復は、阿波池田→多度津間で上り「南風」を気動車化のうえ併結した関係で、代わって上り「土佐1号」が客車化されることになり、変則的ながら再び「土佐」に客車列車が登場した。しかし、昭和38(1963)年2月1日改正では、上り「土佐1号」と下り「南風」は晴れて気動車化されこの運用は解消、四国内優等列車の全気動車化が完了している。

僚友の「南風」「足摺」は出世するも「土佐」は2000系の進出で消える

国鉄時代の急行「土佐」。前から3両目のキロ28は55.10改正でキハ28型5000番代に格下げとなり、普通車指定席として使用された。

昭和40年代に入ると、四国内の優等列車は再び大幅な再編が行われた。昭和40(1965)年10月1日改正では、本州側で東海道新幹線と接続する電車準急「鷲羽」がほぼ倍増となったことから、四国内の優等列車も見直しが行なわれ、土讃線系統では準急「土佐」が準急「南国」1往復を吸収するとともに、僚友の準急「南風」が急行に昇格し「第2・1南風」に改称された。そして、翌41(1966)年3月5日に実施された料金制度改正では、100km以上を走る「土佐」は「足摺」とともに自動的に急行に昇格している。なお、40.10改正では急行「黒潮」が、昭和41(1966)年10月1日改正では急行「浦戸」が、それぞれ「南風」に吸収され、41.10改正時点で高松発着の土讃線優等列車のラインアップは「足摺」「南風」「土佐」となった。このうち「足摺」は昭和43(1968)年10月1日改正で「あしずり」と改称され、高知以遠への急行として活躍。平成2(1990)年11月21日改正では、その名のまま特急に格上げされ高知以遠の末端特急として運転されている。「南風」は昭和47(1972)年3月15日改正で「しおかぜ」とともに四国初の特急に昇格し、瀬戸大橋を含む本四備讃線が全通した昭和63(1988)年4月10日からは岡山発着の土讃線特急として活躍している。
それらに比べて割を食っていたのが「土佐」だった。昭和50(1975)年3月10日改正では下り6本・上り5本の最多本数に達したものの、昭和55(1980)年10月1日改正以降は削減へ転じ、国鉄最後のダイヤ改正となる昭和61(1986)年11月1日改正時点では3往復にまで後退している。その間、55.10改正で四国内の急行グリーン車が廃止され「土佐」からもグリーン車が消えたが、車両自体はそのまま普通車指定席に格下げ使用された。
JR移行後は、平成元(1989)年3月11日改正で、振り子式気動車2000系の試作車が「南風51・52号」「しまんと51・52号」に投入されたのを皮切りに、土讃線優等列車の総特急化が推進されるようになり、2000系の量産車が登場した平成2(1990)年7月30日には「南風」2往復、「しまんと」1往復が同系に置き換えられた。そして2000系量産車全31両が出揃った同年11月21日改正では、特急化の波に呑まれるように「土佐」は廃止された。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2018/05/01


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