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「能登」

【第70回】 「能登」


急行「能登」の愛称名の由来はもちろん石川県の能登半島だが、初代の「能登」は米原経由で能登半島とは関係のない福井県をターゲットに運転されていた。愛称通り能登半島を走る七尾線に乗り入れたのはJR化後のわずかな期間のみだった。

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初代は東京〜名古屋間で3列車併結 36.10改正で晴れて単独列車化

「能登」は当初、米原経由の北陸急行として運転されていたが、50.3改正からは上越線経由の北陸急行として生まれ変わっている。上越線時代はパレット型荷物車がアクセントとなっていた。

首都圏と石川県内を結ぶ優等列車は、上野〜金沢間を上越線経由で結ぶ「北陸」が老舗だ。しかし福井県内への利便を考えると、上越線経由では福井の早朝着が難しいため、新たに東京から東海道本線を西下し、米原経由で北陸本線に入る急行が昭和34(1959)年9月22日改正で新設された。それが初代の「能登」だ。その当時のダイヤは、901列車/東京20時30分→金沢8時44分、902列車/金沢18時00分→東京6時25分で、下りの場合、「北陸」利用では福井着が11時台になるところを7時台とし、石川県内へは「北陸」、福井県内へは「能登」という棲み分けができていた。ただし、「北陸」が単独列車であったのに対して、「能登」の方は東京〜米原〜福井〜金沢という輸送実績のないルートで運転されることから、東京〜名古屋間は鳥羽行きの「伊勢」、新宮行きの「那智」と併結運転となった。この間は最大15両の堂々たる編成になるが、名古屋〜金沢間は7両の短編成となり、しかも座席車主体という当時の夜行急行としては半人前の出で立ちで運転された。
にも関わらず、この棲み分けダイヤは功を奏し、「能登」の人気は上々だった。このため、昭和36(1961)年10月1日改正では晴れて単独列車となり、編成も11両に増強。さらに翌年には13両となり、上越線経由の「北陸」はもちろん、東海道本線を走るほかの夜行急行とも遜色のない内容となった。

40.10改正で再び併結運転とな43.10改正には愛称名が消滅する

93.3改正からは特急「白山」との共通運用で489系「能登」が誕生した。後にこの「白山」カラーは国鉄色に戻されている。

東海道新幹線が開業した昭和39(1964)年10月1日改正で東京〜大阪間の夜行急行が大幅に縮小されたなかで、「能登」は北陸本線乗入れの大義名分を抱えていたためか、安泰だった。編成も寝台車主体に改められ、初代「能登」は最盛期を迎えた。しかし、それも束の間のことで、翌年10月1日改正を迎えると、米原経由の乗客の昼行移転が進んだことから「能登」の編成が縮小され、再び東京〜名古屋間は他列車との併結となった。
今度は東京〜湊町(現・JR難波)、和歌山市間の「大和」を迎え、東京〜名古屋間は14両で運転、名古屋〜金沢間の単独区間は8両となった。ただ、初期の「伊勢」「那智」併結時代と異なり、1等座席車1両を除いてオール寝台編成となっていたことで、編成は短くなったが、単独運転時代の豪華さは維持されていた。
それでも米原経由の夜行利用客減少に歯止めはかからず、昭和43(1968)年10月1日に初代「能登」は廃止され、代わって、上越線経由の「北陸」に上野〜福井間の不定期1往復が加わった。

特急「北陸」の登場により「能登」の名が復活した50.3改正

信越本線時代の「能登」は上野~直江津間をEF62がロングランで牽いていたが、「能登」の489系化以後はEF62の定期運用はなくなり、事実上姿を消してしまった。

昭和50(1975)年3月10日改正では、東京口の寝台特急「はやぶさ」「富士」「出雲」が20系から24系に置き換えられた。これにより余剰となった20系は東北、北陸方面の急行格上げにより新設された寝台特急へ充当されることになり、2往復設定されていた上野〜金沢間の急行「北陸」のうち1往復が愛称を受け継ぎ特急化された。これにより、残る1往復は43.10改正まで使用されていた「能登」の愛称が使用されることになり、ここに2代目「能登」が誕生した。
その当時のダイヤは、3605列車/上野21時48分→金沢6時51分、3604列車/金沢21時07分→上野6時38分で、特急となった「北陸」のすぐあとを追いかけるような運転形態となった。現在なら、競合する列車は廃止されやすい傾向があるが、この当時は、特急「北陸」は全車寝台、急行「能登」は座席車主体のエコノミー列車と位置づけられており、乗客に選択の余地が与えられていた。この点、国鉄ならではのおおらかな時代であったともいえる。
この2代目「能登」は、昭和57(1982)年11月15日改正を機に、上野〜福井間を信越本線経由で結んでいた「越前」と時間帯が競合することから「越前」が存続することになったが、運転区間が上野〜金沢間とされて福井県に入らなくなったことにより、列車名は「能登」とされ、信越本線を経由する3代目が誕生した。改正前の「能登」はスハ43型客車グループと10系客車より、グリーン車、A・B寝台、普通車指定席、普通車自由席となんでもありの典型的な夜行急行で運転されていたが、これを機に寝台、座席ともに特急型の14系に置き換えられ、装いを新たにした。
「能登」を名乗りつつも能登半島に乗り入れたことがなかった「能登」は、昭和63(1988)年10月9日に初めて七尾線輪島まで臨時延長され、ようやく愛称名の由来どおり能登半島乗入れを果たした。しかし、この輪島延長は平成2(1990)年まで下りのみ、多客期を中心に実施されるにとどまった。
平成5(1993)年3月18日改正では同じ信越本線を走っていた夜行電車急行「妙高」が廃止されたが、「能登」の方は特急「白山」と共通の489系に置き換えられることになった。JR以後は、合理化のために機関車牽引列車の電車・気動車化が大幅に推進され、特急型電車も列車種別を問わない共通運用が組まれるようになった結果だった。
上越新幹線の開業時は上越線から追われる形となった「能登」だったが、平成9(1997)年10月1日改正を迎えると、今度は新しくできた長野新幹線に追われることになった。この改正では信越本線の横川〜軽井沢間が廃止、軽井沢〜篠ノ井間が第三セクター鉄道の「しなの鉄道」に転換されるという、鉄道史に残る一大変革が起こった。この影響は当然「能登」にも及び、信越本線内を走行できないとあっては古巣の上越線経由に戻らざる得なくなった。
JR東日本がエリア内の急行全廃方針を打ち出したにも関わらず「能登」が急行として存続したのは、運用の受持ちがJR西日本であるためだったが2012年2月24日を最後に運行されていない。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2018/11/01


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