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「ゆのくに」

【第71回】 「ゆのくに」


北陸本線沿線は、山中、山代といった温泉地や東尋坊、能登半島といった景勝地が点在しており、関西とこれらの行楽地を結ぶ目的の列車が昭和20年代後半から設定された。その最初の列車が「ゆのくに」だった。「ゆのくに」は、昭和38(1963)年の北陸本線金沢電化時は「加賀」とともに北陸本線を代表する電車急行として君臨したが、昭和40(1965)年以後は大阪〜富山間の「立山」の陰に隠れて目立たない存在だった。

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週末運転の臨時列車として運転を始めた客車時代の「ゆのくに」

不定期の客車準急としてスタートした「ゆのくに」は昭和38(1963)年に電車化され、以後19年間、北陸路で運転されたが、大勢力には至らなかった。

北陸本線は、戦前から日本海縦貫線の一翼をなすという性格からか、優等列車は大阪〜青森、大阪〜金沢〜上野、大阪〜新潟といった運転距離500km以上の長距離列車が主流だった。関西方面から金沢や富山への輸送も、青森行きや上野行きの列車がその使命を担っていたわけだが、昭和20年代後半になると世相も落ち着き、週末の行楽に便利な中距離列車が全国に登場しはじめていた。北陸本線では、「日本海」や「北陸」といった長距離急行に混じって、大阪〜金沢間で週末のみ運転される不定期準急「ゆのくに」が昭和27(1952)年10月1日に登場した。この列車は、福井・石川県内に点在する芦原、山中、山代、片山津といった温泉地へ向かう行楽客を意識して設定され、3505列車/大阪12時05分→金沢17時54分、3506列車/金沢12時45分→大阪18時40分のダイヤで運転された。
3505列車は土曜運転、3506列車は日曜運転で、下りの場合は夕方のチェックインに、上りの場合は午前中のチェックアウトに合わせるという、長距離列車ではカバーできない、目的がはっきりした便利なダイヤが組まれた。所要時間は下りが5時間49分、上りが5時間55分と、現在の特急「サンダーバード」に比べて倍以上の時間がかかっているが、当時の北陸本線は非電化で、大部分が単線という条件下にあり、おまけに敦賀〜今庄間の北陸トンネルがまだ開通していなかったため、この区間は25‰という急勾配と3カ所のスイッチバックを控える杉津経由の旧線を経由していた。現在とは比較にならないほどの悪条件がスピードアップを妨げていたのだ。
週末準急「ゆのくに」は運転開始以来好評を得たことから、昭和29(1954)年10月1日改正では上下の隔日運転となり、翌年7月20日には定期列車に格上げされた。

福井電化時に臨時急行から運転された北陸本線の交直流両用電車

北陸本線の電車急行は、各列車にヘッドマークが取り付けられていたのが大きな特徴だった。このヘッドマークは末期に登場した小型のタイプ。

北陸本線は、全通時から木ノ本〜敦賀間、敦賀〜今庄間、津幡〜石動間、市振〜青海間、糸魚川〜直江津間にスピードアップのネックとなった難所が存在しており、戦前から勾配緩和などの改良工事が小規模ながら進められていた。それが本格化したのは昭和30年代に入ってからのことで、昭和37(1962)年6月10日には敦賀〜今庄間をショートカットする当時日本最長の北陸トンネルが開通、杉津経由の旧線が廃止された。また、昭和38(1963)年9月30日には新疋田〜敦賀間のループ線が完成し同区間が複線化された。一方、北陸本線の交流電化も進められ、昭和32(1957)年10月1日には田村〜敦賀間が、昭和37(1962)年3月21日には今庄〜福井間が電化された。そして同年6月10日には敦賀〜今庄間が電化され、大阪〜米原〜福井間の電気運転が可能になったことから、敦賀第二機関区に42両の471系急行型交直流電車が配置され、年末運転の臨時急行「越前」から投入された。臨時ながらこの列車が北陸本線の電車急行のさきがけであり、以後、北陸本線の電化区間が進展するにつれ、急行の電車化が急速に進められた。
昭和38(1963)年4月4日、北陸本線福井〜金沢間が電化完成し、4月20日から待望の金沢までの電車運転が開始された。このとき、「ゆのくに」は、気動車急行「越前」と同時に471系電車に置き換えられ、下り2本・上り1本の陣容となった。電車化当時のダイヤは、501M「第1ゆのくに」/大阪9時33分→金沢13時50分、503M「第2ゆのくに」/大阪14時05分→金沢18時35分、504M「ゆのくに」/金沢9時40分→大阪14時10分だった。
大阪〜金沢間ではほかに「加賀」が設定された。同じ区間で違う列車名が存在するのは「ゆのくに」が全車指定席で、自由席付きの急行と区別するためだった。
昭和39(1964)年8月24日、北陸本線富山〜金沢間が電化され、同年10月1日に実施されたダイヤ改正では、下り「ゆのくに」1本と上り「加賀」1本が富山まで延長されて「越山」と改称された。これにより、大阪〜金沢間の全車指定急行は「ゆのくに」、自由席付き急行は「越前」、夜行急行は「加賀」、大阪〜富山間の急行は「越山」となったが、さすがに同系統での列車名が乱立気味となり、昭和40(1965)年10月1日改正では、大阪〜金沢間急行が「加賀」、大阪〜富山間急行が「立山」、大阪〜富山間夜行急行が「つるぎ」に整理された。その結果、「ゆのくに」の名は消滅し、臨時急行にその名が使われることになった。

湖西線開業後も米原経由で残り57.11改正で「立山」とともに全滅

北陸本線の電車急行の脇役としてたびたび登場する「くずりゅう」。皮肉にも昭和57(1982)年11月15日改正で北陸本線の電車昼行急行が大幅に削減となったとき、この列車だけが米原~金沢間の急行として昭和60(1985)年3月14日改正まで残った。

昭和43(1968)年10月1日、北陸本線の電車急行の愛称名が再び整理され、大阪〜富山間急行は夜行も含めて「立山」に統一、大阪〜金沢間急行は「加賀」から「ゆのくに」に改められ、定期列車に「ゆのくに」の愛称が復活した。さらに、改正前、「奥能登」と名乗っていた大阪〜和倉(現・和倉温泉)、輪島(現・廃止)間の気動車急行が「ゆのくに」に改称され、「ゆのくに」は不定期を含み電車3往復、気動車1往復の陣容となった。昭和46(1971)年10月1日からやは、1往復が富山地方鉄道の宇奈月温泉まで臨時延長されたが、これは翌年3月15日改正で「立山」に変更された。
昭和47(1972)年10月2日改正では特急「雷鳥」の増発により「ゆのくに」の一角が崩され、電車2往復・気動車1往復となり、「ゆのくに」は削減の方向へ向かう。
昭和49(1974)年7月20日、山科〜近江塩津間をショートカットする湖西線が開業し、翌年3月10日改正では、北陸本線を通過する優等列車のほとんどが湖西線経由に変更された。ただし、「ゆのくに」と夜行の「きたぐに」だけは米原経由で残され、北陸急行の伝統を守った。また、この改正ではさらに「ゆのくに」1往復が「雷鳥」に格上げされた。
昭和47(1972)年10月2日改正以来、特急「雷鳥」の攻勢はとどまるところを知らず、昭和50年代に入ると、それほど大勢力ではなかった「ゆのくに」を吸収するのは時間の問題となっていた。昭和53(1978)年10月2日改正では気動車1往復の大阪直通が廃止され、七尾・能登線内の急行「能登路」に吸収された。この時点で「ゆのくに」は電車1往復のみとなり、その存在も風前の灯となった。そして迎えた昭和57(1982)年11月15日改正では、「雷鳥」のさらなる増発により、「ゆのくに」はおろか、北陸急行で一大勢力を誇った昼行の「立山」までが廃止され、北陸本線の昼行電車急行は金沢〜米原間の「くずりゅう」を除いて全廃という事態となったのだった。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2018/12/01


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