模型を作ってシェアするホビーコミュニティ ホビコム by デアゴスティーニ

「おおとり」

【第73回】 「おおとり」


「おおとり」は鉄道の花形である東海道本線から北海道へ渡るという、最も大きな変化を遂げた列車だった。車両も151系電車から80系気動車へバトンタッチし、183系気動車が席巻した国鉄末期も80系気動車で孤軍奮闘し、その存在感は北海道の特急のなかで、ある意味大きかったといえるだろう。

ブラボー0 お気に入り登録0   ブラボーとは


東海道の電車特急全盛時代を築く一員として誕生した「おおとり」

気動車時代の「おおとり」は、北海道で一番最後まで定期の80系気動車特急として残ったメモリアル的列車でもあった。

昭和35(1960)年6月1日、客車特急「つばめ」「はと」が電車化され、東海道本線の電車特急は従来の「こだま」2往復に「つばめ」2往復が加わり、4往復となった。これらの列車はいずれも東京〜大阪、神戸間の運転で、東海道本線のメイン区間から優等列車を整備するという観点では順当なものだった。しかし、東海道新幹線開通前の東海道本線は、昼行・夜行ともに旅客需要は増加の一途を辿っており、翌年10月1日ダイヤ改正ではさらなる増発の必要性に迫られることから、昭和35年度は151系電車を56両増備してこれに対応した。その結果、昭和36(1961)年10月1日ダイヤ改正では、東京〜大阪間に「はと」1往復、東京〜神戸、宇野間に「富士」2往復、大阪〜宇野間に「うずしお」1往復を増発、東京〜名古屋間には「おおとり」が登場した。これまで、中京地区から東京を対象にした優等列車は準急「東海」や不定期の準急「長良」「新東海」があったが、「おおとり」は特急としては初めての列車となり、利用者数が多い名古屋〜東京間の特急旅客分散が図られた。 運転開始当初の「おおとり」のダイヤは、2006M/名古屋7時45分→東京12時00分、2005M/東京18時00分→名古屋22時15分で、東京での滞在時間はジャスト6時間と、中京地区から首都圏への日帰り用務には最適だった。編成は、他の「つばめ」「はと」「こだま」「富士」「うずしお」と同様に151系電車11両編成で、名古屋寄りの先頭車は豪華な1等特別座席車・クロ151が連結された。 この36.10改正から東海道新幹線が開業する39.10改正までが東海道本線の電車特急の最盛期で、新幹線開業後は「つばめ」「はと」は新大阪以西へ、「こだま」は廃止(新幹線の愛称へ)、「富士」は1往復が新大阪〜宇野間の「ゆうなぎ」に衣替えし、東京〜大分間の寝台特急に新たに命名されるなど、別々の道を歩みはじめた。「おおとり」はこのなかでもっともドラスティックな転身を遂げ、北海道の気動車特急として第2のスタートを切ることになったのである。

北海道特急に変貌してからは網走と釧路を目指す2階建て列車に

183系気動車時代の「おおとり」は国鉄色と新国鉄色の塗替え過渡期にあたり、このような混色編成も登場した。

昭和39(1964)年10月1日改正では、東北本線や北海道でも大きな変化があった。東北本線では上野〜青森間に初の寝台特急「はくつる」が誕生し、青函航路を介してこれに接続する北海道側の特急が函館〜釧路、網走間に設定され「おおとり」と命名された。これで、36.10改正で誕生した北海道初の特急「おおぞら」を含めて、北海道の特急は2往復となった。その当時のダイヤは、3D(〜2003D)/函館10時40分→網走21時15分(釧路21時30分)、4D(2004D〜)/網走7時40分(釧路7時20分)→函館18時10分で、「おおとり」の運転を機に函館機関区(現・函館運転所)には80系気動車が29両新製増備され、合計54両の勢力となった。 初期の「おおとり」は、釧路編成と網走編成を併結していたのが大きな特徴で、両者は滝川で分割・併合していた。分割時の列車番号は釧路編成が2000番代になっており、釧路行きの方が付属編成のように見えるが、食堂車が連結されていたのは釧路行きであり、こちらが基本編成といえた
昭和40(1965)年に入ると、函館機関区の80系気動車はさらに23両増備され、77両の大勢力に膨れ上がった。そしてこの年の10月1日改正では、北海道第3の特急として函館〜旭川間に「北斗」が登場、本州側で同時に誕生した特急「ゆうづる」と連絡態勢が敷かれた。さらに昭和42(1967)年3月1日には、初の倶知安、小樽経由の特急として「北海」が登場し、函館〜札幌間の気動車特急に4本のラインナップが出揃った。「おおとり」のほうは、昭和43(1968)年10月1日改正で列車番号が変更になったものの、昭和45(1970)年に入るまで運転形態に大きな変化はなかった。 昭和45(1970)年10月1日改正を迎えると、本州側では「ゆうづる」が増発され、輸送力強化が図られた。これに対応して函館運転所には鹿児島本線の特急「有明」の電車化で捻出された80系気動車が6両転入、「おおとり」は釧路編成を分離し、これを「おおぞら2・1号」として北海道側の輸送力を増強した。釧路編成分離後の「おおとり」は15D/函館11時50分→網走22時13分、16D/網走8時40分→函館19時00分のダイヤとなったが、編成は改正前の単独運転時と同じ6両で食堂車もなく、単独の特急としては淋しい内容だった。食堂車は昭和47(1972)年3月15日改正で連結されるようになり、ようやく特急らしい編成となった。 昭和47(1972)年は、10月2日にも全国規模のダイヤ改正が行なわれ、本州では80系気動車を使用していた「白鳥」「いなほ」「ひたち」が485系電車化され、捻出された80系気動車が函館運転所に4両、札幌運転所に9両転入した。札幌に転入した9両は札幌〜網走間に新設された特急「オホーツク」に充当され、初めて「おおとり」と競合する特急が誕生した。これで札幌〜網走間では特急が2往復となり、以後「オホーツク」は急行「大雪」の格上げで「おおとり」を凌ぐ成長ぶりを見せる。

北海道の気動車特急のなかで一番最後まで80系が運転される

狭軌最高163km/hをマークした記念に取り付けられたチャンピオンプレートを掲げる151系「おおとり」の先頭車。東海道時代はわずか3年と短かったが、151系電車特急黄金時代を飾った一員として、大いに活躍した。

昭和54(1979)年冬、北海道に新鋭の183系気動車(試作車)が登場し、翌年2月1日から「おおぞら5・4号」で運用を開始した。183系気動車は石勝線が開業した年の昭和56(1981)年に量産車が登場し、以後、「おおぞら」を始め「北斗」「北海」「オホーツク」から相次いで80系気動車を駆逐した。このなかにあって「おおとり」は変わらず80系気動車で運転され、昭和60(1985)年3月14日改正では、北海道の特急で食堂車が連結される列車は80系気動車で残る「おおとり」と共通運用の「オホーツク5・2号」の2往復のみとなり、ある意味、注目の的になった。 このように「おおとり」は北海道の特急のなかで、最も183系気動車の影響を受けなかった列車だったが、国鉄分割・民営化をにらんだ昭和61(1986)年11月1日改正では、80系気動車で残る北海道の特急がすべて183系気動車に置き換えられることになり、北海道から食堂車の灯が消えた(JR化後は「北斗星」や「トマムサホロエクスプレス」に食堂車が登場するが、純粋な昼行特急としては「おおとり」「オホーツク」が最後といえる)。 JR化後も「おおとり」は函館〜網走間の長距離特急として残され、大半の特急が札幌で系統分割されたのに反して、函館から唯一札幌以遠へ直通する列車として貴重な存在だった。しかし、61.11改正で函館〜札幌間の特急が「北斗」に統一されたなかで、1本だけ変則的な特急が残るのは運用上からも不合理で、JR最初の全国ダイヤ改正となった昭和63(1988)年3月13日改正では、函館〜札幌間が「北斗」に、札幌〜網走間が「オホーツク」に系統分離され、東海道時代から数えて足かけ27年間の「おおとり」の歴史に幕を閉じた。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2019/01/01


ブラボー0 お気に入り登録0   ブラボーとは



コメント0件


コメントを書く1,000文字以内

Ms_noimage

コメントを投稿するにはログインが必要です。