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「日南」

【第79回】 「日南」


宮崎県はかつて「新婚旅行のメッカ」といわれたほど観光資源が豊富で、南九州では昭和30年代から観光客向けの優等列車が運転されてきた。その代表格が「日南」で、昭和43(1968)〜50(1975)年の間は、関西〜南九州間の夜行急行の愛称として表舞台を飾ったこともあった。

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「ひかり」の補完列車として誕生した気動車準急「日南」

48.10改正から49.4改正まで、C57が「日南3号」の宮崎〜都城間を牽引し、最後の蒸機牽引急行となった。

昭和31(1956)年10月10日から上野〜日光間の準急「日光」に投入されたキハ44800型(後のキハ55型)は、大型の車体と2エンジンを搭載した強力型気動車として、昭和30年代における気動車準急増発の原動力となった。昭和33(1958)年に入ると、高山本線や常磐線、九州にも投入され、九州では4月25日から急行「ひかり」で運転を開始し、臨時列車ながら博多〜別府間を表定速度67.5km/hの快速で結んだ。この「ひかり」は北九州と中九州を結ぶ優等列車として大変好評で、5月1日からは豊肥本線経由で熊本まで、昭和34(1959)年4月1日には都城まで、同年9月22日には西鹿児島(現・鹿児島中央)まで延長され、休日とその前日には全車指定席となるなど活況を呈した。 こうなると増発列車が望まれるのは当然のことで、昭和35(1960)年6月1日改正では、この「ひかり」を補完すべく、別府〜西鹿児島間に準急「日南」が新設された。当時のダイヤは503列車/別府8時10分→西鹿児島14時05分、504列車/西鹿児島14時42分→別府20時48分で、「ひかり」と同じくキハ55型気動車グループが使用された。 昭和38(1963)年5月8日に現在の日南線が全通したため、準急「日南」は一部編成が同線を経由して、現在は廃止されている大隅線の鹿屋まで運転されるようになった。車両の方もこの頃にはキハ58型気動車グループにグレードアップされ、南九州を代表するローカル優等列車に成長した。

43.10改正で関西発着となるも50.3改正で再び九州内列車に

「かいもん」とともに、昭和53(1978)年3月に12系+20系の編成に置き換えられた「日南」。

昭和43(1968)年10月1日改正を迎えると、この気動車「日南」は「南風」と愛称が変更され、「日南」の名は関西と南九州を結ぶ夜行急行にコンバートされた。この改正では、同系統の列車の愛称名を極力統合する方針が打ち出され、改正前に「夕月」「日向」を名乗っていた関西〜南九州間の日豊本線経由の夜行急行が「日南」に統一された。「日南」の名は、当時全国的にも知られた人気の新婚旅行スポット、日南海岸が由来となっており、その観光イメージを関西〜九州間のメジャーな舞台を走る列車に持たせたかったのだろう。当時の「日南」のダイヤは次のとおりだった。 ・209列車/京都20時25分→都城16時02分、210列車/都城11時46分→京都7時44分(3・1号) ・205列車/大阪20時06分→宮崎13時12分、206列車/宮崎17時12分→新大阪10時28分(1・3号) ・6205列車/大阪20時19分→宮崎14時30分、6206列車/都城14時10分→大阪9時48分(2・2号) このうち「3・1号」はオールインワンの一般的な夜行急行だが、「1・3号」は寝台車が中心となった寝台列車だった。「2・2号」は不定期列車で、寝台車は連結されない輸送力本位の列車だった。また、この改正では「日南」とほぼ同じ区間に特急「彗星」が誕生しており、昭和40年代後半は増発が重ねられたが、「日南」もそれを補完すべく3往復の勢力を変えずに運転されていた。 山陽新幹線が博多まで開業した昭和50(1975)年3月10日改正では関西〜九州間の夜行列車の地図が大幅に塗り替えられた。定期夜行急行では新大阪〜長崎、佐世保間の「雲仙/西海」、新大阪〜熊本間の「阿蘇」、大阪〜大分間の「くにさき」の3列車のみが存続し、すべて14系座席車による運転となった。これまでの「日南」系統の列車は「くにさき」に変わったことで、「日南」時代のグリーン車や寝台車の連結がなくなった。 この改正により関西から姿を消した「日南」は、再び古巣である南九州のローカル急行にカムバックした。今度は昼行3往復、夜行1往復の陣容となり、昼行は大分電車区455・475系による電車急行、夜行は改正前の「みやざき」を引き継ぎ、一般型客車による列車だった。昼行は基本的に小倉で新幹線から接続する連絡列車だが、1往復は別府〜宮崎間のみで運転され、登場当初の「日南」を彷彿とさせた。当時、別府〜西鹿児島間には「しいば」という気動車急行が運転されていたが、昭和53(1978)年10月2日改正では「日南」がこれを吸収し、5往復となった。ちなみに「しいば」は、昭和38(1963)年10月1日改正で宮崎→別府間の準急として運転を開始し、昭和43(1968)年10月1日改正で「日南」改め「南風」に吸収されたが、昭和47(1972)年3月15日改正では別府〜西鹿児島間の急行として復活していた。53.10改正では再び「日南」グループに吸収されてしまったわけで、つくづく短命な列車だった。

国鉄末期は夜行1往復のみの運転 JR化後は「ドリームにちりん」に

50.3改正では再び九州内のみの輸送に戻った「日南」。昼行は455・475系の7両編成で運転された。

「日南」の夜行1往復は、「みやざき」から改称された直後は一般型客車により運転されていたが、昭和53(1978)年3月15日からは、鹿児島本線の「かいもん」とともに、12系客車と20系客車による混成編成に置き換えられ、グレードアップされた。この時期、20系客車の急行転用が全国的に進み、すでに九州では寝台特急の定期運用が消滅していた。なお、両者の併結に際しては、20系客車のサービス用電源をスハフ12から供給するための変圧器搭載工事が実施され、「日南」「かいもん」用の20系客車は1000番代を名乗った。 昭和55(1980)年10月1日改正では、全国的に急行の特急格上げが推進された。特に九州では大規模に実施され、鹿児島本線の急行「かいもん」の夜行を除くすべてと「ぎんなん」が一挙に特急「有明」に格上げされ、非電化線区に乗り入れる列車を除いて、鹿児島本線の昼行列車から急行が消滅した。一方、日豊本線でも特急「にちりん」への格上げが行なわれ、「日南」は昼行1往復、夜行1往復のみとなった。そのわずかに残った昼行1往復は、昭和57(1982)年11月15日改正で「にちりん」に格上げされ、同系統の「ゆのか」とともに日豊本線の昼行電車急行は姿を消した。 これにより「日南」は客車1往復のみとなり、時刻表から号数が消えた。それ以後は門司港〜西鹿児島間を夜行で淡々と結び、末端区間の宮崎〜西鹿児島間が普通列車として運転されていたことから、昭和60(1985)年3月14日改正で山陰本線の寝台車連結普通列車「山陰」が廃止されてからは、この区間で国鉄唯一の寝台車付き普通列車となった。もっとも、ほとんどの乗客は急行区間への直通客と思われ、いわゆる「寝台車付き鈍行」とはいえないかもしれないが……。 昭和61(1986)年11月1日改正では「日南」のB寝台車が24系25型に置き換わり、特急並みの2段寝台に改善された。また、普通車の12系は平成元(1989)年3月11日改正を機にグリーン車のリクライニグシートを転用してグレードアップが図られ、狭い4人掛けのボックスシートで一夜を過ごす苦しいイメージが払拭された。
夜行「日南」は「かいもん」とともに、JR移行後もしばらくは生きながらえたが、1990年代に入ってから全国的に機関車牽引列車の合理化が進み、平成5(1993)年3月18日改正では、ついに787系による特急「ドリームにちりん」に格上げされてしまった。「かいもん」の方は特急「ドリームつばめ」(現・廃止)に格上げとなり、九州内に残る急行は肥薩線の「くまがわ」、吉都線の「えびの」のみとなったが、これらも現在は消滅している。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2019/07/01


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