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偉大なるヴァーサ号の悲劇~後世に影響を与えたスウェーデンの巨大帆船

【第6回】偉大なるヴァーサ号の悲劇~後世に影響を与えたスウェーデンの巨大帆船


17世紀に入ると造船技術の進歩に伴って、より大型で装備の充実した武装船が建造されるようになりました。特にイギリス、オランダ、フランス、スウェーデンなどは、強力な武装船を次々と開発しました。他国との海戦になくてはならない軍艦や、新領土発見や植民地開拓に利用する武装商船が、続々と建造されていたのです。ヴァーサ号は、こうしたヨーロッパ情勢のなかで建造されたスウェーデンの船でした。
しかし、この船には軍艦としての輝かしい戦歴も、植民地開拓に活躍した経歴もありません。ただし、その船体の構造と外観が、ヴァーサ号以降に造られた帆船の設計に大きな影響をおよぼしており、造船史の1ページを飾っていることは間違いありません。

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スウェーデン海軍の誇る巨大帆船の沈没

デアゴスティーニ編集部

17世紀初頭、ヨーロッパ最大・最強を目指し、スウェーデンが威信を懸けて建造した巨大帆船・ヴァーサ号。しかしこの船は、1628年8月10日の処女航海への出航直後に沈没してしまうという悲劇に見舞われました。

1628年8月10日、ヴァーサ号はスウェーデン海軍の誇りを担って、南西の微風を受けながらストックホルム港から公式な処女航海に出帆しました。全長約70メートル、最大幅9.7メートルもあるその巨大な船は、145人の乗組員と大型大砲64門を積んでいました。
北海、バルト海沿岸諸国の覇権争いが続くなかで、国家の威信をかけたこの船出は、極秘裏に進められた計画であったにもかかわらず、スウェーデン国民の関心を引き、当日はその荘厳華麗な船体を一目見ようとする大観衆が港に殺到し、外海に出る途中の小島の岸までが人々で埋め尽くされました。しかし、入江を離れて間もなく突風がヴァーサ号を直撃し、船体は左に大きく傾いて、数分後には逃げ遅れた乗組員を乗せたまま海底へと沈んでいったのです。
実は、この船は初めからいくつかの問題点を抱えていました。まず極端な重装備と高過ぎるマストの艤装が挙げられます。ヴァーサ号の船体は出航以前から不安定な状態でした。スウェーデンのグスタフ・アドルフ国王がオランダ人の船匠ヘンリック・ヒベルツゾンに設計を依頼したのですが、関係者や側近の誰もが国王の注文に無理があると思っていました。しかし、あえて異議をはさむ者もなく、ヘンリックなりに経験を駆使して、軍艦としての安定を考慮しながら国王に求められるままに設計しました。
この船の建造は他国に漏れないように極秘裏に行われ、目立った式典もなく1627年に船体本体が進水し、艤装が始まりました。同年5月、ヘンリックは処女航海を目にすることなく病気で他界してしまいますが、艤装は続けられ、国王の求めでさらなる装備の追加や帆の面積拡大などの手が加えられました。後の調査では、こうした追加修正が、船のバランスを欠く致命傷になって沈没したと報告されています。

最大・最強の船を目指したことが仇に…

デアゴスティーニ編集部

ガレオン船の砲門の扉には、飾りが施されていることがありました。ヴァーサ号の場合には、砲門の扉の裏にライオンの頭が彫刻されていて、扉を押し上げると姿を現すようになっていました。処女航海のときには、このライオンの彫刻が見えるようにすべての扉を開いて、勇壮に出帆したと考えられています。

オランダの商人アーレンド・ヒベルツゾンと、当時船造りの名匠といわれたヘンリック・ヒベルツゾンの兄弟が、スウェーデン国王からこの船の建造を受注したのは、1625年1月25日のことでした。受注の内容は、「4年以内にスウェーデン海軍のために、4隻の軍艦を建造し、そのうちの1隻は、比類のないくらい強大な船であること」というものでした。
国王の構想は、全長70メートル、大砲64門を艤装し、そのうち48門が大口径の大砲を装備できる大型船というもので、これが後のヴァーサ号になります。この船の規模は当時のヨーロッパで最も強大な軍艦といえるものでした。建造は1626年に始まり、索具や帆はハンス・クラーク(当時スウェーデン王室御用達の帆の専門家)に依頼されました。
ヴァーサ号の砲門は、扉の裏にライオンの頭が彫刻されていて、扉を押し上げると姿を現すようになっていました。砲撃した弾丸が敵船に向かう様子を、ライオンがうなり声をあげて獲物に飛びかかる様子になぞらえたこの砲門は、最強の船を目指したヴァーサ号らしさの表れでしたが、突風で船体が傾いたときに、開いた砲門から大量の海水が流れ込んだのが、沈没を早める結果になったのは皮肉なことでした。

ヴァーサ号引き揚げへの挑戦と失敗

デアゴスティーニ編集部

贅を尽くして装飾されたヴァーサ号の船尾。中央にスウェーデン王家の紋章、両サイドには彫像が彫られています。当時のガレオン船は、過剰ともいえる装飾が珍しくありませんでした。

ヴァーサ号が出帆直後に船体を傾かせ、わずか数分の間に水深30メートルの海中に姿を消したのは、海岸から100メートルあまりしか進んでいない場所でした。ただちに引き揚げが計画され、イギリス人のエンジニア、イアン・バルマーが引き揚げ作業の指揮を執ることになりました。しかし、バルマーはヴァーサ号のマストの先端部分を他の船で曳き、船体の体勢を整える作業をするのが精一杯でした。
ヴァーサ号の引き揚げは、国家の威信とプライドをかけたスウェーデンの最優先課題となりました。しかし、国家の威信とプライドという名分を掲げてはいましたが、その裏には装備されていた最新式の貴重な武器を回収したいという思惑もあったようです。なぜなら、各部品にスウェーデン国王のイニシャルを刻印して艤装されていた大砲は、スウェーデンの最新技術で鋳造されたもので、他国から当時最強の火器と目されていたものだったからです。
イギリス人バルマーの引き揚げ作業が失敗に終わった後、フランス人のフェルマン・マザレ、ジョアン・ファーブルの2人も引き揚げを試みましたが、海底の泥に埋まったヴァーサ号は微動だにしませんでした。むしろ強引な作業によって、船体はますます海の深みにはまっていきました。
続いて1635年には、ドイツ、ロストクのハインリッヒ・ザンクと新たに引き揚げ契約が結ばれ、大がかりな作業が繰り広げられました。このプロジェクトでは、海岸まで船体を牽引するケーブルを準備して引き揚げを試みましたが、結局これも成功しませんでした。
さらに、1652年、アレキサンダー・フォーブスが、スウェーデン国王から12年間の長期間に渡るヴァーサ号引き揚げ作業の許可を取り付けました。前回、ドイツのザンクが引き揚げを試みて以来、フォーブスが引き揚げ許可を取得するまでの17年間、ヴァーサ号は海底に放置されていました。しかしそのフォーブスの試みも失敗に終わり、成果のないまま12年の期限切れを迎えてしまいます。 
その後、引き揚げの権限を任されたスウェーデン海軍は、フォーブスとの12年の契約が切れた時点で、新たにドイツ人の潜水士、ハンス・アルブレヒト・ボン・トレイレベンにヴァーサ号引き揚げ計画の許可を与えました。なぜなら、トレイレベンがその数年前に、独自で考案した鐘形の優れた潜水器具をスウェーデンの海軍当局に持ち込んでいたからです。1664年の晩春から夏にかけて、彼は仲間の潜水士アンドレアス・ぺッケルとともにヴァーサ号までの潜水に成功し、36年ぶりにメインデッキ上の大砲をすべて回収し、翌年には、下部デッキに積まれていた大砲や貴重品も回収することに成功しました。
貴重品をほぼ回収し終わったこともあり、スウェーデン海軍や専門家はこれ以上の回収は不可能という決断を下し、以降、ヴァーサ号に関する一切の引き揚げ計画は取りやめになりました。ヴァーサ号は、その後約300年の間、海底に沈んだまま人々の記憶から徐々に消え、船の正確な位置さえも忘れ去られていきました。

300年後に発見された伝説の船

デアゴスティーニ編集部

船体側面の像。一部が朽ちているものの、活き活きとした表情を残しているこの像は、333年もの長きに渡ってヴァーサ号を呑み込んでいたバルト海の海水(低水温、低塩分濃度でフナクイムシがほとんど生息しない環境)が、いかに完璧な状態でこの船を保存してきたかを物語っています。

ヴァーサ号が忘れ去られ、伝説の船になってから3世紀が過ぎた20世紀、アマチュア海事歴史学者で「財宝探検家」の異名を持つアンデース・フランツェーンが、ヴァーサ号発見に情熱を傾けます。彼はストックホルム周辺の島々をめぐった経験から、その海域に沈んでいる船があるとすれば、他のどの海域よりもよい状態で残っているであろうことを確信していました。なぜなら、バルト海には木材にとって有害なフナクイムシが生息していない点と、海水の酸素濃度が他の海よりも低く、木材が朽ちにくいことを知っていたからです。こうした知識に基づいて生物学者らと検討を重ねた結果、海底に眠っているヴァーサ号が復元可能な状態かも知れないという可能性がにわかに現実味を帯びて、復元委員会が作られました。
フランツェーンは当時の文献を探して研究する一方で、漁師や古老の話を聞き歩いて、過去からの地形の変化に関する資料を取りまとめました。集めたあらゆるデータを分析した後、海底探査機とトレーラーを装備した小型船外機を使って、ヴァーサ号が沈んでいる可能性がある海底を丹念に探索し、1956年8月、ついに船らしきものをメーラレン湖(スウェーデン南部、ストックホルムの西方約130キロメートルにある汽水湖)で発見したのです。湖底から黒ずんだオーク材の破片を採取することにも成功し、専門家による分析でこの破片が17世紀のガレオン船のものであることが判明します。
その後、スウェーデンの潜水チームが確認したヴァーサ号は、長い歳月の間に喫水線のあたりまで泥に埋まってはいましたが、船体は横転せずに沈んでいました。

困難を極めた引き揚げ作業

デアゴスティーニ編集部

1961年夏に引き揚げられ、スカンセン公園近くの入江にあるドックに収まったヴァーサ号。鮮明ではないものの、当時の貴重な写真です。引き揚げられた船体の材料を90%再使用して復元することに成功しました。船体はもちろん、艤装や装飾の像をはじめ、船内の付帯品もすべて復元され、新生ヴァーサ号として、1988年12月に新設博物館に展示されました。

沈没から328年ぶりに発見され、引き揚げられることになったヴァーサ号の船体を浮上させるための下準備としてまず、補強と水もれ防止のために良質のオーク材で造られた仮設の壁が船首材と船尾材の内側に組み立てられ、その後、2年がかりで砲門の扉と、水が流入しそうな穴や割れ目がふさがれました。これらはすべて潜水夫による水中の作業でしたから困難を極めるものでした。
計画では、ポンプで船体内部の海水を汲み上げて浮上させることになっていましたが、いざ汲み上げ始めてみると、ふさぎきれなかった穴から海水の流入があったため、小さな穴もふさぎながら少しずつ浮上作業が続行されました。
1961年4月24日、ヴァーサ号がついに海上に船体の一部を現します。まず、黒ずんだ船尾上部が姿を現し、やがて船体全体が水面に浮上したのです。
徐々に浮上する間、船体に間断なく海水を振りかけて、船体全体を湿らせておく必要がありました。これは、長い間海中に沈んでいた木材が、急に空気に触れて乾燥する際に起こる急速な劣化を防ぐための処置です。こうした汲み上げと散水の作業は、昼夜を分かたず2週間にわたって続けられました。こうして幾多の苦難の末、ついに船体が自力で浮かんでいられる状態になったのです。浮上後も散水を続けながら時間をかけて乾燥させ、浮上から55日後の6月17日、ヴァーサ号とその周りを囲んだ浮き桟橋は、スカンセン公園近くの入り江までゆっくりと曳航され、そこで一般公開されることとなりました。
引き揚げてからは長期間にわたって復元作業が進められ、堂々たる船体を飾っていた彫像の他、室内の装飾具類もほとんどが復元されました。復元に当たっては、引き揚げた材料の90%が再利用されましたが、そのなかには、船内の保管庫の中から発見された予備の帆もありました。その帆は、相当傷んではいましたが1度も使われていないもので、補修すれば使用に耐えうる状態だったというから驚きます。
1988年12月、船体は最終的にヴァーサ号のために新設された博物館に送られ、17世紀の大航海時代を伝える資料のなかでは他に類を見ない貴重なものとして今も展示されています。

ヴァーサ号沈没の謎

デアゴスティーニ編集部

ヴァーサ号博物館に展示されている、沈没の模様を再現した模型。この悲劇に学び、ヨーロッパの帆船はさらなる発展を遂げることになります。

ヴァーサ号の沈没原因については諸説ありますが、はっきりしたことはわかっていません。記録によれば転覆したときに張られていた帆は、方形のフォアロアスル、台形のフォアトップスル、台形のメイントップスル、それにミズンマストの帆のうち、1枚だけで、その他の帆は張られていませんでした。また、処女航海の日は天候は良好であったことが記録されていますから、荒波や強風にあおられたことが転覆の原因だったとは考えられません。やはり船体の設計に重大な欠陥があったのか、あるいは積載物の重量配分に誤りがあったとしか考えられません。
ヴァーサ号が建造されたころには、まだ船の安定度を科学的に計算する方法が確立されていませんでしたから、軍艦の多くは大砲を船体の比較的高い位置に並べていました。そのために重心が高く不安定になった結果、風や波にあおられて転覆するケースも珍しいことではなかったのです。設計者のヒベルツゾンも従来の軍艦の建造経験をもとにして、大砲を置くデッキを設計したものと思われます。
これらの事実を分析し、現代の造船工学と照らし合わせてみると、ヴァーサ号はその大きさと重量に対して、船体の幅が狭すぎたことが明らかになってきました。また、ヴァーサ号の船底には、バラストとして何トンもの石が積まれていましたが、搭載されていた大砲の総重量と高いマストから考えると、船体との均衡を保つには不充分なものだったようです。ヒベルツゾンがヴァーサ号の完成1年前に他界し、その後、彼が予定していなかった艤装が加えられたことも、転覆沈没の原因を一層わかりにくくしています。
船の安定度を検査するために当時広く行われていた方法は、30人の大人が甲板の端から端まで一斉に走って船体を揺り動かし、安定の度合いをみるという、何ともいい加減なものでした。つまり、30人で最大限に揺らしても転覆しなければその船は合格となるわけです。このような非科学的な検査方法が信頼できないのはもちろんですが、不可解なのは、実はヴァーサ号はこの検査で危うく転覆しそうになったために、そこで検査が中断され、そのまま再び検査されることもなく出帆したと伝えられていることです。
悲運に見舞われることになった処女航海を決定したのは、スウェーデン海軍の提督クラース・フレミングでしたが、この決定はヴァーサ号完成の朗報を首を長くして待っていたグスタフ・アドルフ国王の強い要請であったことは疑いの余地がありません。また、ヴァーサ号にヨーロッパ最強の大砲を装備するように強い圧力をかけたのもこの国王自身であったことを考え合わせると、皮肉にも、私たちが今ヴァーサ号という素晴らしい文化遺産を見ることができるのは、グスタフ・アドルフ国王が無理難題を押し通したからだともいえるでしょう。
ヴァーサ号沈没後の裁判では、ハンソン艦長が沈没の責任を問われて告発されました。砲門の扉を開けたまま出帆したため、そこから海水が流れ込んで沈没にいたったというのが告発の理由でしたが、弁護側から、戦時下の処女航海にあっては、砲門の扉は開けておくのが通例であること、また、礼砲を撃つために、砲門は開けておかなければならなかったことなどが証言され、ハンソン艦長は最終的に無罪になりました。
引き揚げ後の調査では、当時の知識不足が引き起こした沈没であったことが判明していますが、結果的にヴァーサ号の沈没は、ヨーロッパの船大工たちがその悲劇から多くのことを学ぶための貴重な経験であったともいえます。というのも、ヴァーサ号の沈没事故以降、2層、3層さらには4層もの大砲用デッキを装備した軍艦が各国で建造されましたが、その際ヴァーサ号の教訓が生かされて新しい造船技術が開発され、荒波や強風の条件下でも安定を保つ船体が設計されるようになったからです。

※この記事は、週刊『セーリング・シップ』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2013/06/24


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