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磐越西線 喜多方〜新津

【第43回】磐越西線 喜多方〜新津


磐越西線の非電化区間は「SLばんえつ物語号」の運転で知られ、かねてより人気が高い。かつては客車列車も現役だった同区間には、山紫水明の風景の中、古いトンネル、文化財クラスの鉄橋、のどかな駅などがたくさん残されている。
日本の原風景を感じられる風格の幹線を巡った。

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まずは喜多方ラーメンの洗礼 蔵の駅舎からゆっくりと出発

デアゴスティーニ編集部

徳沢〜豊実間で見られる美しい鉄橋風景。阿賀野川は鹿瀬ダムで堰き止められ、川面は水鏡となっている。中央の下路式トラスはアメリカンブリッジ製のキャメルバックトラス。文化財的にも大変貴重な鉄橋だ。

蔵の町、ラーメンの町として知られる喜多方は、会津若松から北に進んだ古き良き町だ。磐越自動車道が会津若松にインターチェンジができ、新潟方面に西進しているので、駅と町がやや孤立してしまった感があるが、むしろ町の素朴な面がより際立って感じられ、温かみのある心地よさに包み込まれている。駅を降りた瞬間から美味しいラーメンもあるので、ラーメンマップを案内所でもらって探し歩くのも楽しい。
喜多方ラーメンは腰のある太麺で、たっぷり水分を含んで旨味があるのが特徴だ。また独特の縮れ具合で、これがスープによく絡む。そのスープは醤油が基本だが、塩、味噌などもありルールは決められていないようだ。出汁も各店で千差万別で、豚骨、魚介類、地元で採れた野菜などさまざま。何気なく入った小さな食堂で、思いがけない味に遭遇したりするのだ。元来、喜多方ラーメンは大正末期から昭和初期、ラーメン店のなかった同市内に、チャルメラ吹き青年が屋台を引いて支那そばを売り歩いたのが始まりと言われている。美味しさの秘密には、素朴で手作りの基礎的な味付けが隠されていたのだ。
さてさて、駅の方に目を移そう。喜多方駅は蔵を模した質素な平屋構造で、喜多方の玄関駅に相応しいムードのある造りだ。郡山から電化だった磐越西線はここから非電化になり、管轄もJR東日本仙台支社から、新潟支社に変わる。
喜多方を出発すると、会津盆地の平坦だった線路はいきなりの峠越えとなり、山岳路線に変化する。列車はエンジンを唸らせ、連続勾配を上り詰める。サミットのトンネルを抜け、勾配を下りると山都だ。駅の手前で飯豊連峰を見ながら大きな鉄橋を渡る。阿賀野川の支流、一ノ戸川に架かる一ノ戸川橋梁(通称「山都の鉄橋」)は名鉄橋である。あまり知られていないことだが、実は磐越西線は、歴史的、文化財的価値のある、貴重で美しい鉄橋を多数持つ路線なのだ。

通過する車両とのコントラストが美しいボルチモアトラス橋

デアゴスティーニ編集部

喜多方〜山都間の一ノ戸川橋梁。山都の鉄橋で親しまれるこの鉄橋は中央部がアメリカンブリッジ社製のボルチモアトラス橋で、ピン結合である。ボルチモアトラスは、ほか中央本線の旧立場川橋梁が美しい。

一ノ戸川橋梁は、明治43(1910)年、アメリカンブリッジ製の「ボルチモアトラス」と呼ばれる平行弦トラス橋だ。ボルチモアトラスは、プラットトラス(斜材がVの字に組まれているトラス橋。斜材に引張力、垂直材に圧縮力が働く)を基本に、重量軽減のため、トラスに副材を挿入している橋のことで、構造的にも美しい。曲弦トラスのものは「ペンシルバニアトラス」と呼ばれ、近鉄京都線澱川橋梁のもの(長さスパン164.6m)が有名である。
ボルチモアトラスは、全国では一ノ戸川橋梁のほか、磐越西線上野尻〜徳沢間の蟹沢橋梁、秩父鉄道浦山口〜武州中川間の浦山川橋梁、武州中川〜武州日野間の安谷川橋梁、中央本線信濃境〜富士見の立場川橋梁(旧線)に見られる。このうち秩父鉄道のものは、かつて磐越西線に架かっていた橋梁から転用されたものなのだ。

飯豊山麓に佇む温かな有人駅・山都

デアゴスティーニ編集部

国鉄色の気動車が山都に入線。後ろの新潟色の車両の愛称は、その塗分けから「インディアン!」なのデス

「SLばんえつ物語号」も停車する山都は、女性の簡易委託の駅員さんが出迎えてくれる、のどかな山間の駅である。会津盆地の雰囲気はもうなくなり、飯豊山への入り口の小さな町に、木造の駅舎が佇んでいる。駅は隅々まで掃除されてとてもきれいだ。地元のおじいちゃんやおばあちゃん、未明に飯豊山を目指す山男・山女たち、それにSLや鉄橋や、山都の名物である「山都そば」(喜多方ラーメンに負けないほど美味なのだ)を目当てにやって来る観光客やファンも、みんな山都駅ではニコニコと笑顔になるのである。
「高校生たちも昔はワルさをしてましたけど、いまはみんないい子たちばかりですよ」
とは駅員さんの弁。誰もが駅を大切にしてくれているという。そんな言葉を聞くと、こちらまでうれしくなってくる。一日に数本しか列車の止まらない小駅がこんなに温かいのは、やはり喜ばしいことであり、管理する駅員さんのおかげである。ちなみに駅は、登山者たちのために、列車のまだ来ない早朝から開放しているという。なんと親切なことか!

ホームに支配するのは独特の静寂 美しいキャメルバックトラスも健在

デアゴスティーニ編集部

上野尻〜徳沢間の阿賀野川当麻橋梁。手前の橋脚上には、かつて大正4(1915)年鉄道院設計のボルチモアトラス橋が架けられていた。鹿瀬ダム建設に伴い鉄橋下部の水没の恐れがあるため、新桁に架け替えられた。

列車はエンジンをゆっくりとシフトアップさせ、風景を見ながら荻野へ。
駅は交換設備が撤去されているが、山都と同様、簡易委託の駅員さんがいる。そして、こちらもやはり山間の小さな町の駅、ホームには「静けさ」が一面に漂っている。決して「寂しさ」ではないこのムードは、磐越西線独特の世界。かつて客車列車が全盛で、大正期に全通した、東京と新潟を結ぶ幹線鉄道の名残を見せていた頃は、列車がホームに停車すると、客車はエンジンなど騒音源を持たないため、「静寂」のみが支配し、シン……と静まり返っていた。風の音、人の囁き、空気の流れが聞こえてくる。磐越西線はそんな自然な世界が特徴で、とても落ち着け、まどろめるのであった。
眠たくなるほどの心地よさを感じながら、座席にぴったり頭をもたれて出発してみよう。荻野を出ると、これも磐越西線独特の「川と鉄橋」の山紫水明の風景が続く。列車はダダン…ダダン……とジョイントを刻み、鉄の橋をゆっくりと渡っていく。荻野の手前の阿賀野川釜ノ脇橋梁は、中央部が曲弦トラス橋で、アメリカンブリッジ社製のキャメルバックトラスだ。「キャメルバックトラス」とは、曲弦トラス橋で上弦材が数各点置きに直線で構成されているものを呼ぶ。さらに、接点が溶接ではなくピンで結ばれており(山都の一ノ戸川橋梁も同様)、大変クラシカルで風格たっぷりである。
無人の尾登を過ぎ野沢へ。野沢は磐越西線を代表する大きな駅であったが、現在は委託駅に格下げされてしまった。磐越道の開通による利用者の減少が要因と思われる。しかし、今も快速「のざわ」(かつては急行列車だった)、「SLばんえつ物語号」が停車し、下車客で賑わう。次の上野尻はJA会津が同居。ほのぼの木造委託駅だ。
鉄橋風景は続く。上野尻を出ると上路式の平行弦トラス橋を渡るが、この橋は比較的架橋が新しい。左手車窓には、旧線とわかる背の低い石積みの橋脚が見られるが、ここに架けられていた鉄橋が前記の秩父鉄道に転用されたボルチモアトラス橋で、昭和4(1929)年、鹿瀬ダム建設に伴い架け替えられたものである。
列車は山峡の駅、徳沢に停車。静かな山間の里。ゆったりと時間だけが流れていく。磐越西線の風情の極みである。車窓に風景が移ろうと、ダムで水流が堰き止められ、水鏡となった阿賀野川が鉄橋風景となって映り込む。まるで日本の原風景を見るかのようだ。阿賀野川徳沢橋梁は、ここも中央部がキャメルバックトラス橋で大変に美しい。橋梁的にも文化財としての価値が高く、見応えも十分。磐越西線の会津若松〜新津間の愛称である「森と水とロマンの鉄道」がピッタリの風景なのだ。

駅前旅館の作った「鳥めし」が復活

デアゴスティーニ編集部

これが日出谷の伝統駅弁「鳥めし」。そぼろと卵の素朴な味わいが美味で、50系客車時代も立売りされていた。

豊実を過ぎると日出谷だ。日出谷はかつてSLの基地があった駅で、転車台、給水塔などの設備があり列車もここでひと息ついた。駅弁の販売も行なわれて、名物「鳥めし」の立売りで知られた。SLが引退しても車両基地の設備は「鳥めし」とともに残されたが、過疎化により1980年代以降は無人駅となり、美味しい「鳥めし」も販売を休止してしまう。「鳥めし」は日出谷の駅前旅館「朝陽館」が製造販売。鳥そぼろに甘い炒り卵のシンプルな味付けが美味だった。SLが走る全盛期を過ぎても、普通客車列車が到着すると、「べんとぉ〜」の売り声とともに「鳥めし」を売る販売員の姿が晩年まで見られたものだった。
その駅弁が「SLばんえつ物語号」の運転に合わせて復活をしたのだ。売り場は「朝陽館」およびSL運転時の駅ホーム。美味しさを守るため大量生産は行なわず、限定販売となるので売り切れ御免だが、「磐越西線、幻の味」が楽しめるのはうれしい。現在、その美味しさは広く知られるようになり、SLが到着すると「鳥めし」を求めて乗客がホームに集まってくる。是非、日出谷では「鳥めし」を買って磐越西線の味を体験してみたい。

美しく貴重な木造駅舎にいにしえの時代を感じる

デアゴスティーニ編集部

徳沢〜豊実間の大巻橋梁を行くキハ110型快速「あがの」。鹿瀬ダムで堰き止められた阿賀野川は水鏡となって川面に車体を映らせる。秋は紅葉、冬は雪景色が見事である。そして、ここも限りなく静寂が漂っている。

鹿瀬へ向かう途中の平瀬トンネルは、広軌改築計画が立てられた明治期の建設で、新幹線並みの断面を持っている。磐越西線の位の高さがわかる好例だ。 
再び鉄橋風景が続く。鹿瀬手前の阿賀野川深戸橋梁は、中央部のトラスのみ、曲弦トラスに架け替えられている。昭和58(1983)年に実施されたが、架替えに際しては、なんと旧桁を水中に突き落とし、新桁を横にスライドさせて架橋した。新桁は信越本線新田切川橋梁のものである。
鹿瀬、津川と、今度は木造駅舎が続く。豪雪地帯の磐越西線では木造駅舎は少なく貴重だ。津川は、駅名板に「狐の嫁入り行列」のシンボルマークと、鉄道開通以前の交通機関であった「川船」のイラストが描かれていて微笑ましい。「狐の嫁入り行列」は、毎年5月3日に津川地区で開かれる祭り行事である。津川地区の麒麟山には狐が住んでおり、津川城が聳えていた。しかし、とても険しく、「狐戻城」とも呼ばれていた。そこには古くから、狐が提灯を下げた、嫁入り行列の伝説があったという。
津川には現役の給水設備があり、「SLばんえつ物語号」は上下列車が給水のため停車をする。
温泉のある三川は昭和60(1985)年3月14日に改称された駅名で、それまでは白崎を名乗っていた。川幅も広く、新潟平野も目前だ。三川にはライン船下りの乗り場がある。東下条、咲花、馬下を過ぎ、新潟平野に入っていく。民家も農家も田んぼも、乗客の言葉も気が付けば異なっている。福島県会津からまったく「国」の異なる新潟県に入ったことを実感する。

東京と新潟をレールが結ぶ幹線 新潟平野に出ればラストスパート

デアゴスティーニ編集部

新津に到着した普通列車。鉄道の町、新津の構内は、歴史ある磐越西線の終着駅らしく、重みと風格を漂わせていた。

磐越西線は郡山と新潟を結ぶ鉄道として、私鉄の岩越鉄道が明治31(1898)年に郡山〜中山宿間を開業させたのが始まりだ。のちの明治37(1904)年には喜多方まで延長。その後、岩越鉄道は鉄道国有法により国有化され、岩越線となった。喜多方〜新津間は官設鉄道、さらに新津側からは信越本線の支線として建設が進められ、大正3(1914)年11月に全通。磐越西線と改称された。清水トンネルの開通により、上越線高崎〜宮内間が全通するまでは、信越本線と並び、東京と新潟を結ぶ大切なルートに当たり、特に、信越本線は輸送上のネックとなるアプト式の碓氷峠も控え、信越本線の補完の意味でも磐越西線の存在はとても大きいものがあった。その碓氷峠が廃止された現在、レールが結ばれている磐越西線の重要性は再び強まり、最近では新潟県中越地震での上越線不通による、貨物列車の迂回運転で脚光を浴びている。幹線の輝きを是非取り戻して欲しい、と願うのである。
列車は山間を抜け、広い新潟平野を西進している。轍のリズムも絶好調だ。夕陽が正面から射し込んで、空が茜色に染まっている。北五泉で阿賀野川を長いガーダーの鉄橋で渡るが、車体を夕陽できれいに輝かせている。「明日に向かって走る」という感じである。まさにラストスパート。エンジンを快調に響かせ、新関、東新津を過ぎ、終点の新津に入線する。直流電化された信越本線の駅だ。新津は運輸区や車両工場などがある大きな構内を持つ「鉄道の街」でもある。多くの線路と広い敷地に迎えられての到着となる。
山手線などのE231系、中央本線のE233系など首都圏の新型車は、ここに隣接する新津車両製作所で多くが製造され、機関車牽引の配給列車として上京しているのである。もしかすると、双頭連結器を付けたEF64型1000番代の牽く、オレンジラインの中央線電車が見られるかもしれない。
磐越西線は、鉄道というものの魅力を余すことなく体験できる路線である。たとえ車両が新型になっても、沿線の自動車道が発達しても、磐越西線の魅力はスケールが大きく、変わらない。古きを知る人も、これからその魅力を体験する人も、誰もみな「ウエルカム!」なのである

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアゴスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2016/07/30


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