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東京急行電鉄 世田谷線

【第53回】東京急行電鉄 世田谷線


東京南西部の世田谷区。23区最大の人口を誇るこの街の下高井戸〜三軒茶屋間を結ぶ東京急行電鉄世田谷線は、通常の鉄道線とも路面電車とも異なる東京型LRTともいえる路線である。ステンレスカーに置き換わり雰囲気が一変したが、それでも変わらぬものが息づいている。

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五街道の宿場町を起点にして住宅街を結ぶ小さな車両

デアゴスティーニ編集部

小雨混じりの中、電車が松原駅のホームにゆっくりとした速度で入線してきた。時代とともに電車や沿線の建物は姿を変えてきたが、世田谷線の持つ根本的な情景は何も変わらず、今日も同じように時を刻んでいる。

新宿から京王線の普通電車に乗って約10分。東京でもごく一般的な住宅地、下高井戸に到着する。ここは、住宅事情は一般的でも鉄道路線はほかと違った表情を見せる東京急行電鉄世田谷線の出発点だ。
世田谷線は、都内でも都電荒川線ともに最後まで残った軌道線として人気が高い。平成13(2001)年までは旧型電車も走り、多くの人々が訪れていた。しかし、現在ではステンレスカーの300型に統一され、新生LRT路線として生まれ変わっている。
「以前の方が人情があって良かった」「電車が変わり、暖かみがなくなった」うんぬん……そんな話を聞くことも多い。果たしてそうなのか。もう、魅力のない路線になってしまったのか。いや違う……。右往左往する複雑な思いを抱きつつ、ホームに降り立ってみた。

子どもたちが笑いながら駆け抜ける…商店街とホームの境目はどこ? 

デアゴスティーニ編集部

下高井戸は駅ビルの1階部分に京王線と同居している。世田谷線は商店街から続く通路のような場所から出発する。

宿場町から発展した下高井戸は、活気に溢れた商店街が広がっており、多くの人々が行き交っている。自転車も多く、都会の喧騒という言葉がよく似合う。町の中心に位置する駅は、平成5(1993)年に立て替えられた小さな駅ビルで世田谷線はその1階部分から発車する。
ホームへ向かうため商店街から続く通路を進むが、この「通路」は実はすでにホームの一部。「鶏が先か、卵が先か」ならぬ「通路が先か、ホームが先か……」などと考えながら足を進める横を、子供たちが笑いながら駆け抜けて行った。「通抜け自由」なホームなのであった。
しばらくすると構内踏切が鳴り響き、小さな連接車が入ってくる。シンプルなデザインであるが、大きめの窓や側扉が凹凸のない直線的な構造で、どこか最先端をいく車両のようにも感じられる。電車が到着した降車ホームからは乗客が続々と飛び出してくる。かと思うと、あっという間にホームは閑散とする。そんな光景を見ながら、反対側の乗車ホームに向うため改札口を抜ける。世田谷線は切符の購入の必要はない。今でも運賃箱に現金を投入して乗り込むスタイルだ。ちなみに、中間駅には改札口もなく運賃は乗務員に手渡しである。「このご時世に……」思わず笑みが洩れてくる。
女性乗務員のどこか陽気な挨拶とともに、電車はゆっくりと動き出した。

田園地帯を切り開き 発展を遂げた町を抜ける

デアゴスティーニ編集部

マンション群の中に埋もれるように建つ松原駅。小さな駅でも人々が集まり自転車は重なるように止められている。

発車した電車はすぐに急カーブを切り、京王線に別れを告げて一直線に進む。この辺りは、視野に広がる風景の移り変わりの激しい場所。農業用水の名残りを残す小さな堀や、砂利混じりの道のようなひと昔前の光景があったかと思うと、突然ニュータウンの一角に紛れ込んでしまったようなマンション群の中に紛れ込み、レンガ敷きの道や街灯が並ぶ住宅地が続いていく。
そんな変化の激しい風景を、スピード感のない電車の車窓から見ているとすぐに松原に到着した。いくら近代的車両に生まれ変わったといっても本来は路面電車。駅間距離は短いのだ。最高運転速度も40km/hにすぎない。
松原は、その名の通り昭和30年代までは何もない松林であった場所。駅が開設されたのは昭和24(1949)年で、「七軒町」「六所神社」の2駅を統合する形で誕生した。世田谷線の走る世田谷区は、細い畦道にそのまま舗装を行ない、田畑であった場所に住宅を建てたため「東京の巨大迷路」といわれるほど道が入り組んでいる。ただ、駅周辺は整地がされており、人や車がごくごく普通に集まってくる。
この松原も小さな駅ではあるが、さすがに生活圏。買い物袋を持った人、付近の商店でなにかを物色している人などが電車が来たことを告げる踏切の音を聞くと、それを合図にホームへ向かう。その光景はまるで、住民にとっては「電車=マイカー」で、踏切の警報音はお出迎えを告げる「クラクション」のような感覚に映るのだ。

静寂性と景観に配慮され生まれ変わった路線施設群

デアゴスティーニ編集部

木の温もりを感じるデハ87号の車内。現在はミニ資料館や待合室として利用されており多くの人々に親しまれている。

沿線に沿って敷き詰められたレンガ敷きの道は、引続き線路と並行している。小さな花壇も点在しており、色合いも鮮やかだ。しばらく進むと、柵の内側にも草花が植えらた低いコンクリートブロックに囲まれている場所があった。奥には神社らしき林も垣間見られる。この場所、六所神社駅の跡のようである。
小さな鉄橋を渡り、ゆるゆると坂を下ると、前方に小田急線豪徳寺駅の黄色の壁が見え始めた。間もなく山下である。交差する2つの路線の開業は、世田谷線の方が2年ほど早く大正14(1925)年、小田急線は昭和2(1927)年のことで、後発の小田急線が世田谷線を跨ぐように建設された。かつてはのんびりとした周囲の景観の中、ロマンスカーが駆け抜ける姿も見えたというが、現在は高架複々線化工事の完成に合わせ、「壁」が誕生している。ただ、不思議と圧迫観はない。むしろ以前の方が、騒音の激しさと合わせ、近辺の居心地は悪かったように感じる。生まれ変わった施設は、できる限り静寂性と景観に配慮されているのであろう。

現代に伝わる伝統文化の数々 東京を創った陰の功労者たち

デアゴスティーニ編集部

宮の坂の主、玉電87号の堂々たる姿。「彼」の目には現役ステンレスカーの活躍はどのように映っているのだろうか。

小田急線の高架橋を潜ると、今までと違い住宅に両側を挟まれながら進み、まるで、どこかの狭い路地に入り込んでしまったような感覚にとらわれる……と、すぐに視界が開け、世田谷八幡宮の社、豪徳寺の森などが視界に飛び込んできた。どこか落ち着いた風情が感じられる中を、電車は周囲の空気に合わせたかのように速度を下げ、「古い電車」が待つ宮の坂に到着する。駅近くに保存されるこの古い電車の、濃い緑色の車両には「EER」「601」と書かれている。江ノ島電鉄600型だ。「こんなところに江ノ電……?」なのだが、その前身、もともとは世田谷線で活躍していた80型87号。湘南の地で潮風を浴びながら活躍、のちに廃車となり、保存のため古巣である世田谷に戻ってきていたのだ。
世田谷線の歴史は、多摩川で採取した砂利の運搬を目的に、明治40(1907)年営業を開始した玉川電気軌道まで遡る。当時は、大量の砂利を建築資材として運ぶ産業鉄道としての開業であった。渋谷〜二子玉川間をはじめ、渋谷橋〜天現寺橋間、砧(きぬた)線二子玉川〜砧(のちの砧本村)間と路線網を延長した。砂利を満載した貨車が路面電車に牽引されるユーモラスな姿で、「玉電」や「ジャリ電」の愛称で親しまれていたという。その名残りか、変貌を遂げた近代的な今の姿でさえ、いまだに「玉電」と呼ぶ人もいる。

関東大震災後にスタート「じゃま電」と揶揄されるも生き残った路線

デアゴスティーニ編集部

暑い夏の日も電車はいつもと同じように走っていた。スロープの増設や冷房車への変更後も、気軽さに変わりはない。

現在の世田谷線の区間は、もともと旅客専用の通称「下高井戸線」としてのスタートで、関東大震災後の大正14(1925)年1月18日に三軒茶屋〜世田谷間、同年5月1日に世田谷〜下高井戸間が相次いで開業した。
甲州街道沿いに位置する高井戸は、江戸時代中期に現在の新宿の原形となる「内藤新宿」が開設されるまで1つ目の宿場町として栄えた場所である。その高井戸宿の外れに位置する下高井戸を目指すように建設は進められた。当時は、地震によって住む場所を失った人々が都心から移るようになり、発展の兆しを見せると同時に町の景色が変わり始めている時期でもあった。
その後、玉川電気軌道は、昭和13(1938)年に東京横浜電鉄の一員となり、大東急時代を経て東京急行電鉄玉川線として再編される。戦後は安定した成長を見せ利用客も増加していくが、時代は高度経済成長期。玉川通り上の併用軌道区間は自動車で溢れ、「じゃま電」などと揶揄される状況であった。さらに首都高速3号線の建設に合わせ、建設用地の確保する必要から玉川線は廃線の決定が下された。ところが、専用軌道が中心であった下高井戸線の区間は存続が図られることとなり、昭和44(1969)年に新生世田谷線として再出発を切ることになる。車両は少数の精鋭のみに限られ、大多数は解体されるかこの地を去った。
先述の江ノ電601号、いや玉電87号もその中の1両である。現在「玉電87号」車内はミニ資料館となっているほか、待合室としての機能を果している。決して動くことはないけれど、今でも親しまれる姿がある。
思いがけない出会いに別れを告げ、その先へ向かう。
カーブを切りながら、車庫の外れで止まったかと思うと上町に到着。ホームは、斜向いの位置に設けられており、正面には休んでいる車両たちの姿が映る。
それにしても世田谷線の電車はカラフルだ。全10編成が在籍する300型は、各車両が個性的なデザインに塗られており、それぞれが違う色となっている。
上町から世田谷にかけては、鎌倉時代から歴史を刻み続ける由緒ある場所。平成の世では、新宿や渋谷など巨大商業地域からもほど近く、住宅や商店が途切れることなく続く。武家屋敷などの名所・旧跡や官公庁の関連施設も多く、中核のわかりにくいこの地で多くの人々が乗降し、車内の空気が入れ替わった。

自動車と電車が対等な名所・若林踏切

デアゴスティーニ編集部

夕闇が迫る松陰神社前付近を電車が走る。オレンジ色に輝くレールが、明日へと続く希望を表している光のようだ。

電車は東へと進路を変え、松陰神社前、若林と家並みの中を淡々と進んでいく。再び落ち着いた雰囲気を取り戻すと、突然、駅ではない場所で電車の歩みが止まった。目の前には自動車の長大な隊列が横切っている。世田谷線の名所ともいえる「若林踏切」に差し掛かったのだ。ここでは電車も自動車と対等に交通信号の指示に従う。世田谷線も路面電車なのだから一般道を走るのは当たり前なのだが、ここ以外は専用軌道だから、ちょっとした戸惑いを覚える。
車が長大な隊列を組んでいるのは都内でも有数の幹線道路・環状七号線、流れは激しい。電車は、礼儀正しく、ちょこんと待機している。しばらく待っていると黄色の矢印が点灯、挨拶がわりの汽笛を一発。再び、ゆっくりと動き始めた。

西洋の街並みをデザインした赤レンガ造りの駅舎に向う

デアゴスティーニ編集部

キャロットタワーの展望ロビーから。眼下には世田谷の町の景色がいっぱいに広がる。この町中に欠かすことのできない世田谷線の線路はその中に溶け込み、身近な存在であるということを再認識させてくれる。

西太子堂を過ぎると、前方にひと際目立つオレンジ色の高層ビルが視界に入ってくる。この旅の終着地である、三軒茶屋のシンボル「キャロットタワー」だ。電車はそのビルと一体化した赤レンガ造りの駅舎に滑り込むように到着する。かつては、旧態依然の雑然とした旧駅舎からこの延長線上を渋谷までレールが繋がっていたが、今、その面影はまるでない。平成8(1996)年の再開発で、ヨーロッパのトラムをイメージして造られた駅舎は、都会的かつハイソサエティな雰囲気に包まれている。駅周辺は広々とした広場や地下道が整備されており、人々の笑い声がこだまする。
電車を降り、キャロットタワーの展望ロビーに上がる。そこから視線を眼下に向けてみた。と、世田谷線や今まで訪れてきた町の姿がいっぱいに広がる。そこには、どこまでも続く家並みの中に当たり前のようにしっかりと溶け込んでいる世田谷線のレールが見える。まるで、この土地に欠かすことのできない1本の軸であることを示すかのように目に映った。
時代とともに駅や電車はその姿を変えていき、新しい文化が構築されていく。しかし、この路線の根本的な気軽さや暖かさは変わることなく町に根付き、今日も多くの人々を乗せて走り続けている。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2017/05/31


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