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茨城交通 湊線

【第75回】茨城交通 湊線


国鉄タイプの旧型ディーゼルカー、木造の駅舎、国鉄からの直通列車の痕跡……。わずか14.3kmのローカル鉄道には、古きよき時代の鉄道が持つゆとりがいっぱいに詰まっていた。

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かつて海水浴客で賑わった終着駅を目指すローカル旅

関東平野をのんびり走るローカル私鉄といった雰囲気の中根〜金上間。1両単行がほとんどの茨城交通の列車の中で、最長編成を誇る朝のラッシュ時の3両編成が、朝日を浴びてやって来た。

常磐線を上野から特急で1時間強、各停で約2時間。水戸をひとつ過ぎた勝田駅から路線延長14.3kmの茨城交通は始まる。 JR勝田駅に降り立つと、1番ホームの向こう側に柵で仕切られただけのホームが、細長く横たわっているのが見える。これが茨城交通の勝田駅だ。線路は1線だけの折返し式。そこにアイボリーに赤と青の帯を配した「いばこう」(愛着をこめて沿線ではこう呼ぶ)カラーのディーゼルカーが1両、からからとアイドリング音を立てて発車を待っていた。 小さな改札口をくぐり車内へ。乗り込んだキハ3710型ディーゼルカーは茨城交通では最新型車両だけあって、車内外とも綺麗だ。日差しが眩しいせいか、ほとんどの窓にピンク色のカーテンが引かれている。 ところでキハ3710型……? なんだか半端な型式だと思っていると、実は3710、「ミ・ナ・ト」の語呂合わせだという。ちょっと気の利いた遊び心に旅への期待も膨らむ。 乗客は15〜16人ほど。勝田駅を出るとすぐに列車は大きく左に曲がった、と思う間に次の駅に到着。日工前駅だ。日工とは駅に隣接する日立工機のこと。ごく最近(平成12年)まで従業員専用の停車場だった。 かつては交換駅だった金上駅を過ぎ、左手に開けた田園風景を走ると、田んぼの中にぽつんと佇む駅、中根に停まる。しかし誰も乗降することなく出発。列車はすぐに東水戸道路、次に国道245号線と高架道下をくぐる。するとのどかな風景が、がらりと変わる。どうやら街に入ったようだ。 しばらくすると列車の前方に、さまざまな塗色のディーゼルカーや機関車がずらりと停まっているのが見えてきた。沿線最大の町、そして茨城交通の中心駅である那珂湊に到着だ。車両が並んでいたのは、同社のすべての車両が所属する那珂湊機関区が駅に併設されているためだった。隣の上りホームでは、なつかしい国鉄色のキハ205に乗客が出入りしている。 また、那珂湊は線内唯一の交換駅でもある。どの列車もこの駅で反対列車との交換を行なっている。 乗客がまばらになった列車は、再び終点へと走り始めた。次の殿山は、JRとの接続駅の勝田と中心駅の那珂湊を除くと、唯一の有人駅。笑顔の穏やかな駅員さんが、朝に夕に学生たちの登下校を見守っている。 スーパーマーケットの一部が駅舎になっている、ちょっとおもしろい造りの平磯駅を過ぎ、線路は一度谷へと下る。そして再び丘に上ると、今まで走ってきた住宅街とは、車窓が一変する。北海道かと見まごうくらいの一面に開けた風景。線路の両脇には、サツマイモやトウモロコシの畑が広がる。その中を青空をバックに単行のディーゼルカーが走る。 まもなく磯崎駅。昭和3(1928)年7月まで終点だった駅だ。停車中に駅周辺を見回したが、さすがに70年以上も昔のことなので、終着駅だった痕跡はかけらもなかった。 磯崎を出ると左、右とS字カーブを描く。そうするともう終点の阿字ケ浦の構内が広がる。長いホームの端っこに、ちょこんと停まった。その先の線路は、数百メートル先に生え並ぶ木々によって断ち切られている。かつては夏になると、すぐ近くの阿字ケ浦の海岸へ向かう海水浴客で、広い駅構内は賑わったという。 左手には蒸機時代の給水塔が、右奥には海水浴客のために更衣室として開放されていたキハ201が錆びた体で停まっていた。 天気はいいのに、どこか寂しげな駅。きっと無人の駅舎と、人の気配が乏しいホームのせいだろう。降り立ったのは、自分のほかにはわずかに1人だけだった。

常磐線を拒否した那珂湊のために敷かれた茨城交通

那珂湊駅から機関区を眺めると年季の入った給油ノズルが目を惹く。帰区した車両たちに燃料を入れるのだろう。

茨城交通が敷設されるに至った経緯は、そもそも常磐線の前身である日本鉄道が那珂湊を通らなかったことに始まる。 江戸時代、舟運で栄えた那珂湊は、明治になって鉄道が敷設される際、これが町を横切ることを拒否した。基幹交通である舟運が脅かされることを懸念したからである。ところが全国に広がっていく鉄道が、沿線の経済や文化に与える影響の大きさに気が付いた那珂湊の人々は、次第に町への鉄道乗入れを切望するようになっていった。そこで明治40(1907)年11月18日に設立されたのが、茨城交通湊線の前身である湊鉄道だった。そして大正2(1913)年12月25日に待望の鉄道が、勝田〜那珂湊間に開業した。­ しかし、計画当初には現在の勝田駅はまだなく、そのため水戸鉄道(水郡線の前身)の常陸青柳駅を接続駅として計画は進んでいた。その後、明治43(1910)年、湊鉄道の乗入れを前提に勝田駅が設置されたため、現在のように常磐線から分岐する形となった。 大正13(1924)年9月2日に那珂湊〜磯崎間が開業。昭和3(1928)年7月17日に阿字ケ浦まで延伸し、全線が開業した。 太平洋戦争も激しくなってくると、輸送機関の統合が求められるようになり、湊鉄道は茨城鉄道(赤塚〜御前山間)、水浜電車(袴塚〜水戸駅前〜湊間)、袋田温泉自動車と統合され、昭和19(1944)年8月1日、茨城交通が誕生した。鉄道線はそれぞれ湊線、茨城線、水浜線と呼ばれるようになった。 ところが昭和41(1966)年に水浜線が、昭和46(1971)年には茨城線が廃止。結局、湊線だけが残り、現在に至っている。

歴史ある町の駅はかつての鉄道のゆとりを今も保ち続ける

那珂湊機関区にはさまざまな塗色、形状の車両たちが憩う。それぞれ出身地がバラバラなのがまた面白い。

旧型のディーゼルカーが憩う機関区、木造の駅舎、改札口に立つ駅員。さっき車窓から見えたレトロな雰囲気に惹かれて、那珂湊駅に戻ってみた。 茨城交通湊線はこの駅のために敷かれたといっても過言ではない。古くから港町として栄えた那珂湊は、江戸時代には東北地方の米や物資を江戸まで運ぶ東廻り航路の拠点となった。早くから経済活動に着目していた水戸藩にとっては収入拠点でもあり、藩内で最も栄えた地域ともいわれた。 しかし、明治、大正と時代が進む中で舟運は衰退した。入れ替わるように町に線路が敷かれてからは、鉄道における一大拠点となった。線内でも一番立派な駅舎が建てられ、機関区が置かれた。この木造瓦屋根の古めかしい平屋建て駅舎は、平成10(1998)年に「関東の駅百選」に選ばれた。 今ではこの駅は唯一の交換駅。常駐する駅員も線内で最も多く、運行のすべてをこの駅が管理している。にもかかわらず、まったくせかせかしたところがない。これは列車本数が少ないからだけではないだろう。この町の、そしてこの鉄道の持つ気質によるところが大きいに違いない。かつての鉄道は、どこもこのような雰囲気を持っていた気がするが……。
列車の合間、駅事務室からは駅員の談笑が聞こえる。ちょっと暗めな待合スペースでは、学生たちが横長のベンチに腰掛け、発車までのひとときを楽しんでいる。ホームの向こう側に目を向けると、木造の機関庫からは国鉄色のディーゼルカーが顔を出し、その傍らでは北海道の留萌鉄道や羽幌炭礦鉄道などからはるばるやって来た昭和の車両たちがひなたぼっこをするように停まっている。
歴史ある町の鉄道は、急ぐことなくゆったりとした時間を運んでいた。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2019/04/15


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