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「こだま」

【第99回】「こだま」


東京、大阪という日本屈指の2大都市間を高速で結ぶことは、鉄道創業以来の命題であり、戦前には標準軌間による弾丸列車構想が持ち上がったことがあった。戦後は鉄道の復興が落ち着いた昭和30年代に入って電車の技術が飛躍的に向上し、東海道本線の全線電化と相まって東京〜大阪間を高速で結ぶ特急型電車の運転が企図された。その結果、昭和33(1958)年11月1日には、国鉄初の電車特急「こだま」が誕生、東京〜大阪間の日帰りを可能にした。

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小田急3000型と国鉄モハ90系が特急型電車の道を切り開く

国鉄電車特急の先駆者として昭和33(1958)年に颯爽とデビューした「こだま」。先頭のボンネットスタイルは489系まで引き継がれ、現在も見ることができる秀逸なデザインだ。

昭和31(1956)年11月19日に東海道本線が全線電化されたことは、日本の鉄道にとって大きな意義があった。東京、大阪という2大都市間を電気運転で結ぶことは、これまでにない高速運転が可能になり、鉄道技術の向上にも大きな進歩をもたらすからだ。当時の国鉄では花形の特急「つばめ」「はと」ですら表定速度は74.6km/hで、ようやく戦前の特急の水準を更新したばかりだった。まして、現在のように100km/hを超える列車は皆無で、3桁のスピードは未知の世界であった。 そこで、国鉄では東海道本線全線電化を前にした昭和30(1955)年に、当時、ハイパワーを誇った電気機関車EH10と10系客車を組み合わせた高速試験列車を運転、高速運転時における車両の振動やパンタグラフの離線などさまざまな状況をチェックし、東海道本線全線電化時における特急列車のあり方を模索した。この高速試験列車は同年12月14日には金谷〜浜松間で124km/hをマークし、当時の国内最高速度を樹立している。 当時の常識からすると、特急列車は機関車牽引の客車列車とするのが主流で、この高速試験もその意味合いが強かったが、昭和32(1957)年に入ると、国鉄部内で電車による特急列車構想が浮上、「電車化調査委員会」が発足し、客車列車と電車列車の比較検討が進められた。当時、長距離を走る電車といえば80系が最先端であったが、基本的には戦前からの流れを汲む旧性能電車の域を出ていなかった。電車による特急は、これまでの電車の概念を超えたまったく新しい技術やコンセプトが必要不可欠だった。 そのようなことにひとつの道を開いたのが小田急電鉄の3000型SE車と国鉄のモハ90系(のちの101系)だった。前者は流線形のフォルムに低重心という独特のスタイルでその高速性能を如何なく発揮、後者は、MM’ユニット方式や並行カルダン駆動といった新時代の電車技術がふんだんに盛り込まれていた。この両車は、昭和32(1957)年に東海道本線で相次いで高速試験が実施され、100km/h超の高速運転で安定した性能を発揮したことから、昭和32(1957)年12月12日には正式に特急型電車の開発が決定された。

東京と大阪での滞在時間は2時間強 所要時間6時間50分で日帰りを実現

151系は予備車がなかったことから、「こだま」では事故などにより153系で代走運転されたことがあり、別名「替え玉」と呼ばれたこともあった。

以後、国鉄では、川崎車輛、近畿車輛、汽車製造の3社と共同で特急型電車の開発が進められ、昭和33(1958)年4月26日、これら3社に8両編成3本の計24両を正式に発注、同年5月の完成予想図発表を経て、9月中には全編成が出揃った。系列は、当時まだ車両称号規程の改正前であったことから、旧規程のなかで空番となっていた20代の番号が充てられることになり、クハ26、モハ20、モハシ21、サロ25の4形式が登場した。先頭車のクハ26は高運転台のボンネット型、車内は冷房完備で台車は乗り心地のよい空気ばねを採用、サロにはNHKのラジオ放送を聴取できるシートラジオが取り付けられるなど、あらゆる面でこれまでの国鉄車両にはない新機軸が打ち出されていた。食堂設備では「ビュッフェ」と呼ばれる立食方式の車両が初めて採用され、よりスマートな印象を与えていた。外部塗色は、赤とクリーム色の組合わせとなったが、これは以後の国鉄特急車の標準となり、いわゆる「国鉄特急色」として、現在も高い人気を誇っている。前面に羽根のようなシンボルマーク、側面に「JNR」のマークが付いたのもこの20系からだった。 一方、電車特急の愛称名は、東京〜大阪間6時間50分という日帰り可能な所要時間から「行って帰ってくる」というのに相応しいという理由で「こだま」と命名された。9月中には東京、中部、関西地区で試乗会が行なわれ、11月1日、「こだま」は東京〜大阪間に1往復、東京〜神戸間に1往復の計2往復が颯爽と運転を開始した。当時のダイヤは101T「第1こだま」/東京7時00分→大阪13時50分、102T「第2こだま」/大阪16時00分→東京22時50分、104T「第1こだま」/神戸6時30分→東京13時50分、103T「第2こだま」/東京16時00分→神戸23時20分で、東京、大阪での滞在時間はそれぞれ2時間10分と短いが、それでも表敬訪問程度の用務では日帰りが可能なことから重宝された。

昭和30年代後半の東海道は電車特急一色に塗り替わる

昭和35(1960)年6月1日から「こだま」にも登場した特別座席車クロ151。昭和30年代後半の東海道電車特急スタイルを語る上で欠かせない存在だ。

「こだま」の運転開始当初、その人気ぶりは上々だった。客車特急「つばめ」「はと」に比べて40分速く、乗り心地もはるかに優れ、おまけに冷房完備とあっては当然のことで、切符はたちまちプラチナチケットになった。そのため、翌年11月には早くもモロ151、モロ150、サハ150が計12両増備され、「こだま」は12月13日に12両化された。なお、これに先立つ6月には車両称号規程が改正され、クハ26はクハ151、モハ20はモハ151、モハシ21はモハシ150、サロ25はサロ151に改番されている。また、7月には東海道本線金谷〜焼津間の上り線で151系による高速試験が実施され、7月31日には当時の狭軌鉄道の最高記録である163km/hをマークしている。 こうした「こだま」の人気ぶりに応えるべく、国鉄ではスピードや車両設備が劣る客車特急「つばめ」「はと」の電車化を企図し、昭和35(1960)年6月1日にはこの2列車を151系に置き換えた(「はと」は「つばめ」に吸収され消滅)。これにより、東海道本線の特急は「こだま」「つばめ」で共通運用が組まれ、運用の効率化が図られた。また、このときから、これまでの客車特急の展望車に代わって、豪華な区分室を含む特別座席車クロ151が大阪寄りに連結されるようになった。 未曽有の白紙ダイヤ改正となった昭和36(1961)年10月1日改正を迎えると、東海道本線の電車特急は大幅に増発され、東京〜大阪間に「はと」、東京〜神戸、宇野間に「富士」、東京〜名古屋間に「おおとり」、大阪〜宇野間に「うずしお」を新設、最盛期を迎えた。ただし「こだま」は、運転開始当初の2往復は変わらなかった。 山陽本線が広島まで電化された昭和37(1962)年6月10日改正では、「つばめ」が広島まで延長運転されることになり、下り「第1つばめ」と上り「第2こだま」のスジが充てられることになった。また、同年10月1日改正では、東海道本線のすべての特急が静岡に停車するようになった。 このように、昭和30年代後半の「こだま」は他の特急と足並みを揃えるように歩んでいたが、東海道新幹線が開業した昭和39(1964)年10月1日改正では、新幹線の各駅停車にその名が召し上げられることになり、他の電車特急と同時に在来線特急の歴史にピリオドを打っている。新幹線へ移った「こだま」の愛称は現在も健在で、「のぞみ」や「ひかり」の陰で東海道・山陽新幹線を支えている。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2021/05/01


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