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「ときわ」

【第102回】「ときわ」


かつて常磐線優等列車は「スーパーひたち」と「フレッシュひたち」の特急二本建てが確立していた。性格的には前者はかつての特急「ひたち」、後者は急行「ときわ」に相当し、「フレッシュひたち」は「ときわ」が進化したものといえるだろう。その「ときわ」は常磐線のローカル急行として特急「ひたち」登場後も大勢力を維持し、昼間の常磐線の代表列車として昭和30年代から50年代を駆け抜けていった。

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上野と水戸を結ぶ2往復の気動車快速から出発

廃止直前まで10往復以上の運転本数を維持してきた「ときわ」は、まさに国鉄時代の常磐線のエースだった。

昭和20年代後半、気動車の総括制御を可能にする本格的な液体式変速機の実用化が始まり、昭和28(1953)年には国鉄初の量産型液体式気動車キハ45000型(後のキハ17型)が登場、山陰本線や関西本線、房総各線といった亜幹線の普通列車に相次いで投入されていった。客車から気動車への置換え効果は絶大で、昭和30年代に入ると関西本線の準急にも進出し、優等列車にも次第に運用されるようになっていった。 キハ45000型を立役者とする気動車化の波は、まだ非電化だった東北本線や常磐線にも訪れ、昭和30(1955)年に入ると田端機関区にキハ45000型一党が配置され、この年の2月16日から上野~水戸間の快速に投入された。この快速は午前と午後に1本ずつ運転され、午前発は「つくばね」、午後発は「ときわ」と命名された。当時のダイヤは「つくばね」が911列車/上野7時45分→水戸9時43分、914列車/水戸10時28分→上野12時32分、「ときわ」が913列車/上野15時20分→水戸17時14分、916列車/水戸18時45分→上野20時50分で、上野~水戸間を最速1時間56分で結んだ。この両列車は後の急行「ときわ」、現在の「フレッシュひたち」の元祖といえる。当時の上野~水戸間は途中、土浦のみ停車の客車急行でも同程度の所要時間だったので、この快速は特別料金不要で大健闘していた。 昭和31(1956)年10月10日から上野~日光間で運転開始した準急「日光」は、2エンジンで大出力の新鋭・キハ44800型(後のキハ55型)が投入され、気動車による全国的な準急列車網の礎をつくった。キハ44800型は、昭和33(1958)年に1エンジン車のキハ26や2・3等合造車のキロハ25が登場、全国各地の幹線亜幹線の準急列車に投入された。常磐線ではこれまでの快速に代わって6月1日から上野~平(現・いわき)間で準急「ときわ」3往復が運転を開始している。2往復が快速からの格上げ、1往復が新設により登場し、上野~水戸間の所要時間は快速時代とほとんど変わらなかったが、水戸以遠へ足を延ばしたことで、首都圏と茨城県内の中小各都市、福島県浜通り地方の利便性が大幅に向上、昭和34(1959)年9月22日改正では2往復増発され5往復に、さらに昭和36(1961)年10月1日改正では7往復に成長している。なお、昭和33(1958)年11月29日からは上野~矢祭山間に週末運転の準急「奥久慈」が登場し、水郡線との分岐駅である水戸までは「ときわ」に併結された。「ときわ」と「奥久慈」の併結は以後、27年近くも地味に続いていくことになる。

「みやぎの」に運用されていた451系の間合いで電車化

451・453系電車主体の「ときわ」にあって、気動車「ときわ」は「奥久慈」との併結列車にその活路を見い出していた。

常磐線の電化は、昭和24(1949)年6月1日に取手まで直流で完成していたが、取手以北に位置する茨城県八郷町には柿岡地磁気観測所があり、直流電化では地磁気観測の障害となることから、観測所から35km圏内は交流で電化されることになった。このため常磐線取手以北と水戸線は交流電化されることになり、昭和36(1961)年6月1日の常磐線勝田電化時には、交直両用の401系近郊型電車が登場した。また、常磐線の交直切換えはすべて車上方式で行なわれることから、取手~藤代間には死電区間(いわゆる「デッドセクション」)が設けられた。 このように常磐線は交直が入り交じる電化線区となったわけだが、優等列車向けの交直両用電車の開発はかなり出遅れ、昭和37(1962)年にようやく急行型の451系が登場、この年の10月1日改正から上野~仙台間の急行「みやぎの」に投入された(臨時列車としては夏臨から投入)。「みやぎの」は東北本線の急行だったが、まだ仙台運転所が開所していなかったため、451系は勝田電車区配置となり、上り「みやぎの」の勝田への帰区を兼ねて上野→日立間に準急「ときわ8号」が設定された。このとき、常磐線は高萩まで電化されており、当時のダイヤは415M/上野21時35分→日立23時48分だった。わずか上り1本のみの設定であったが、これが電車「ときわ」の第一歩となった。 常磐線の電化は昭和38(1963)年以降さらに進み、この年の5月1日には平(現・いわき)まで、9月30日には草野まで、昭和42(1967)年8月20日には岩沼まで延伸し、全線の電化が達成されている。 この間、「ときわ」は急ピッチで電車化され、昭和38(1963)年10月1日改正では451系の増備により、7.5往復中、水郡線直通の準急「奥久慈」併結列車など2往復を除きすべて電車化された。またこの改正では、これまでの「ときわ」1往復(2・6号)を全車指定制の「ひたち」として運転を開始した。 しかし、この「ひたち」は後の特急「ひたち」の前身を意味するものではなく、昭和42(1967)年10月1日改正では「ときわ」に逆戻りしている。 昭和40年代に入っても「ときわ」は常磐線の顔として着実に増発を重ね、昭和40(1965)年10月1日改正では下り10本・上り9本、昭和42(1967)年10月1日改正では下り12本・上り10本となった。さらに、東北本線全線電化開業に伴う昭和43(1968)年10月1日改正では下り14本・上り12本となり、運転区間も平以北へ延伸していった。  昭和44(1969)年10月1日、前年の改正で「はつかり」が東北本線へコンバートされて空白となった常磐線昼行特急の座に「ひたち」が座った。もっともこの「ひたち」は、「はつかり」から上野~秋田間の特急「いなほ」へコンバートされた80系気動車を「いなほ」の間合いとして使っていたので、まさに名前が変わっただけの先祖帰りだった。ただし、編成は7両に短縮されてしまい、「いなほ」に運休や大幅な遅れが出ると、勝田区の451系が臨時に運用に就くなど、波瀾含みの列車だったようだ。設定もわずか1往復のみのため、「ときわ」を脅かす存在にはほど遠かった。「ひたち」が電車化されたのは昭和47(1972)年10月2日改正でのことで、このとき「ときわ」2往復が格上げされ、5往復での電車化スタートとなった。

東北本線の電車急行とともに60.3改正で一気に消滅する

47.10改正時の「ときわ」は、基本編成の2号車と付属編成の11号車にサロを組み込んでいた。

特急「ひたち」は、昭和50(1975)年3月10日改正以後、大幅な増発へ転じ、このとき新設2往復を含む8往復に、昭和53(1978)年10月2日改正では「ときわ」3往復を格上げするなどして11往復となった。ただ、この時点でも「ときわ」は10往復と2桁台を維持し、勢力を拡大する「ひたち」と拮抗、相互に補完する立場をとっていた。東北本線が新幹線開業によって大変革を遂げた昭和57(1982)年11月15日改正でも、常磐線の優等列車体系に大きな変化はなく、相次ぐ急行の廃止のなかで常磐線だけは別天地の様相を見せていたが、待っていたのは昭和60(1985)年3月14日改正だった。 この改正では、上野を発着する定期電車急行がすべて廃止され、「まつしま」「あづま」「ざおう」「なすの」「つくばね」といった急行が姿を消した。もちろん「ときわ」も例外ではなく、全列車が「ひたち」に格上げされ、一気に姿を消してしまった。気動車「ときわ」も廃止されてしまったことから、併結相手を失った「奥久慈」も同時に廃止されている。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2021/07/01


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