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「天の川」

【第104回】「天の川」


上越線には、かつて「佐渡」の夜行便を始め、特急「出羽」や急行「鳥海」といった列車がラインアップを飾っており、これらと肩を並べるように、上野~秋田間には新潟経由の「天の川」が運転されていた。この列車は、運転距離わずか300km台の上野~新潟間に上越線初の寝台専用列車として登場した点が特筆され、47.3改正では急行「銀河」と並んで寝台急行としては長大編成を誇るなど、意外な話題があった。

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準急「越後」の寝台部分を受け継ぎ 一部座席車連結の寝台列車に

38.6改正のデビュー当初は10系寝台車を中心に運転されていた「天の川」は、51.10改正前に20系に置き換えられ、実質的に庄内路の特急的存在として60.3改正まで運転された。

上野~新潟間は、昭和37(1962)年6月10日改正で通しの電気運転が実現し、上越線初の特急「とき」が161系により運転を開始した。しかし、急行の方は「佐渡」「越路」「弥彦」といった列車が運転されていたものの、電車で運転されていたのは下り「弥彦」、上り「佐渡」のみで、残りは客車のまま存置される状況だった。数少ない電車の「佐渡」「弥彦」も、車両は旧態依然の80系電車で、急行というにはかなり語弊があったようだ。 そんな上越路の急行が一気に近代化されたのは昭和38(1963)年のことで、80系による「佐渡」「弥彦」が同年3月26日に新前橋電車区に配置された165系に置き換えられた。さらに、6月1日改正では、新潟客貨車区(7月10日から新潟運転所、現・新潟車両センター)に急行型の165系が72両配置され、客車で残る上越急行を置き換えるとともに、夜行の客車準急だった「越後」も同系に置き換えられ、急行に格上げされた。しかし、この「越後」はもともと寝台車が連結されていたことから、その需要に応えるため新たに寝台専用の夜行急行が新設され、「天の川」と命名された。夜空に広がる光の帯を意味する「天の川」の名は直感的に運転区間を想像できないものの、いかにも夜行列車らしいロマンチックな風情が溢れるものだった。 運転開始当初の「天の川」のダイヤは、701列車/上野22時51分→新潟6時25分、702列車/新潟23時00分→上野6時23分で、時刻表上には「寝台列車」の表記があるものの、2等座席車が1両連結されていた。しかし、これも昭和39(1964)年10月1日改正では寝台車に置き換えられ、「天の川」は完全な寝台列車として夜の上越路を飾るようになった。

47.3改正で秋田まで延長され長大な寝台急行に成長

10系で運転されていた時代は、羽越本線内が6両に短縮され運転されていたが、20系化後は全編成が上野~秋田間をフル走行するようになり、切妻型のナハネフ23がテールを飾ることもあった。

昭和40年代の上越線は、新清水トンネルの完成による全線複線化や特急「とき」の最高120km/h運転開始など、一気に基幹路線としての磨きがかかるようになり、上野~新潟間に関しては列車の充実度が増していった。しかし、羽越本線へ直通する庄内路へは、意外なほど上野からの直通列車が少なく、昭和47(1972)年3月15日改正前は、特急では上野~秋田間の「いなほ」が1往復、急行では上野~秋田間の「鳥海」が定期2往復、季節1往復設定されているのみだった。「鳥海」の定期2往復のうち1往復は新潟~秋田間の区間運転(上野~新潟間は季節延長で運転)だったが、もう1往復は上野発着の夜行列車として寝台車も連結されていた。この列車は、夜行列車としては「天の川」以上に理想的な距離を走るにもかかわらず、座席兼用列車のため寝台車の両数は少なく、輸送力が適正化されているとはいい難かった。一方、「天の川」の方は運転距離があまりにも短いため、下りの新潟着は5時15分と早く、新潟から庄内方面へ乗り継ぐには2時間5分待ちで秋田行きの気動車急行「羽越」に乗り継がなければいけない不便さがあった。 このため、47.3改正では、「天の川」の秋田延長が実施されることになり、803列車/上野22時39分→新潟4時57分・5時20分→秋田10時30分、802列車/秋田17時50分→新潟22時47分・23時10分→上野6時04分のダイヤとなった。羽越本線直通となったため、列車番号が700台から800台へ変わったほか、下り列車の新潟着がやや繰り上がってしまったが、庄内地方への旅客にとっては、主要都市の酒田にはこれまでより2時間早い8時21分に到着できるなど、利便性が大幅に高まった。また編成面では、郵便車を含み13両の長大編成に成長し、寝台急行としては寝台車の両数で東海道本線の「銀河2・2号」と同じ12両となった(併結列車を含めると「銀河1・1号/紀伊」の14両が最長)。ただし、新潟回転車を含んでいたため、新潟以遠では6両の短編成で運転されていた。 ちなみに、「天の川」の秋田延長により、季節夜行の「鳥海」は運転時間帯が重複するようになったことから設定がなくなった。

昭和50年代は20系で運転され特急と遜色のない活躍を見せる

「天の川」の運転開始当初から上野~新潟間はEF58が牽引していたが、55.10改正では水上~石打間の補機が不要なEF64型1000番代に置き換えられている。

さて、昭和50年代に入ると、かつて「走るホテル」と謳われた特急型の20系にも翳りが見え始めるようになり、昭和50(1975)年3月10日改正では、東京口に残る20系特急は「あさかぜ」2往復と「瀬戸」のみとなっていた。さらに、翌年10月1日改正を機に、「はやぶさ」「富士」「出雲」が24系25型に置き換えられ、捻出された24系24型が20系の「ゆうづる」4往復を置き換えた。これにより、「ゆうづる」を担当していた青森運転所(現・青森車両センター)の20系が尾久客車区(現・尾久車両センター)へ転属し、上野~仙台間の急行「新星」とともに「天の川」にも転用されるようになり、体質改善が図られた。改正を前に9月27日から20系と郵便車による12両編成に生まれ変わった「天の川」は、見た目には50.3改正で20系化された特急「北陸」と変わらなくなり、実質的には庄内路の夜行特急といってもよい姿となった。また、この20系化に伴い、寝台車の新潟回転が廃止され、郵便車を除く全車両が羽越本線に乗り入れた。 「天の川」にとってはこの時期が絶頂期だったようだが、上越新幹線が開業した昭和57(1982)年11月15日改正では、存続こそしたものの、並行して特急「出羽」が運転されるようになり、庄内路への輸送はやや過剰気味になりつつあった。「出羽」は24系24型客車が充当され、下り列車では「天の川」に先行して走る形となり、酒田はもちろんのこと、秋田の到着時間も8時台とまずまずで、奥羽本線の「あけぼの」の補完列車としても機能するほどだった。また、「出羽」ではB寝台の2段化改造車も導入されるようになり、居住性は3段式だった「天の川」を凌ぐようになった。こうなると、「出羽」への旅客移転は時間の問題となり、上越新幹線が上野まで延びた昭和60(1985)年3月14日改正では、上越線を経由する庄内路への夜行列車は「出羽」に一本化され、「天の川」は定期列車としての歴史に終止符を打った。
以後、「天の川」は臨時急行として残るようになり、JR移行後もたびたび運転されていたが、これも平成6(1994)年を最後に運転されなくなった。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2021/09/01


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