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「きのくに」

【第114回】「きのくに」


紀伊半島を代表するリゾート地・南紀白浜は、海と温泉が調和した行楽地として古くから京阪神地区との交流が盛んだった。特急「オーシャンアロー」「スーパーくろしお」「くろしお」が、振り子式台車の性能を遺憾なく発揮して行楽客を運んでいたが、60.3改正以前は気動車急行「きのくに」も運転されており、南海電気鉄道難波発着の気動車も併結し、紀伊半島西部の主力列車として特急「くろしお」をも凌ぐ勢力を誇っていた。

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準急としては異例ともいえる全車指定制列車として登場

43.10改正以来、並行していた「南紀」や「しらはま」を吸収して紀勢本線西部の優等列車として一大勢力を誇った「きのくに」は、最大で14往復半も設定されていたが、55.10改正以後は特急「くろしお」に徐々に追われ、60.3改正で定期列車がすべて廃止された。

昭和33(1958)年10月1日改正時の紀勢本線はまだ全通しておらず、紀勢西線と呼ばれていた新鹿以西では天王寺〜新宮間の「はやたま」(下りのみ)、「くまの」、天王寺〜白浜口(現・白浜)間の「南紀」「くろしお」「しらはま」といった準急が設定されていた。また、天王寺〜新鹿、新宮間では普通列車ながら深夜帯が快速運転となる普通121・122列車が、天王寺→新宮間では普通124列車も設定されており、このうち週末運転の「くろしお」と普通121・122列車は、大阪ミナミの中心地・難波からの利便を考慮して、南海電気鉄道の客車サハ4801(南海線内は電車扱い)を併結していた。 しかし、これらの列車はいずれも蒸気機関車牽引の客車列車で、著名な観光地を控える紀勢本線の列車としては必ずしも評判の高いものとはいえなかった。そこで同年10〜11月、奈良機関区にキハ55が6両配置されたのを機に白浜口〜天王寺間で気動車準急の運転が企図され、12月1日から「きのくに」の愛称で運転が開始された。その当時のダイヤは、102D/天王寺9時30分→白浜口12時13分、101D/白浜口13時30分→天王寺16時14分で、同区間の所要時間は、客車準急「しらはま」より最大50分程度まで短縮された。この「きのくに」は、準急としては異例の全車指定席となったほか、専用のヘッドマークも取り付けられ、当時の国鉄関西支社の力の入れようがわかる。 煤煙に悩まされず、スマートに走るキハ55型「きのくに」の評判は上々で、有名観光地への足らしく、翌年には2等車キロ25が2両も増結される活況ぶりだった。そこで、紀勢本線が全通した昭和34(1959)年7月15日からは1往復が増発されて2往復となったが、増発分の「第2・2きのくに」には、南海電気鉄道難波発着の気動車キハ5501、キハ5551が連結されるようになった。これらの車両は南海電気鉄道が国鉄の気動車準急に併結するために自社発注したもので、車体や基本的な性能は国鉄キハ55型100番代に準じていたが、キハ5551は国鉄車にはない両運転台車だった。

「きのくに」と併存し紆余曲折した「南紀」「しらはま」などの準急

天王寺、難波〜白浜口(現・白浜)間の気動車準急としてスタートした当初の「きのくに」。この当時は準急ながら人気の行楽列車として全車指定席で運転されていた。

さて、「きのくに」以外の準急に目を移すと、キハ55型気動車グループの増備により、「南紀」が昭和34(1959)年10月20日に気動車化のうえ、新宮まで延長された。この列車は、昭和35(1960)年6月1日改正で同じ天王寺〜新宮間を走る「はやたま」を吸収して 2往復となり、同年10月28日にはさらに「臨時南紀」の名で不定期1往復が増発され、気動車2往復、客車1往復の計3往復に成長した。翌年3月1日改正では不定期1往復が定期化され、残る客車1往復も気動車化、「きのくに」と同じく南海車を併結するようになった。また、40.10改正では「きのくに」の上り1本と併結する列車も登場している。 一方、35.6改正で「南紀」への吸収とともにその名が消滅した「はやたま」は、昭和37(1962)年3月1日には、名古屋→紀伊勝浦間の準急「うしお」が気動車化されたのに伴い、新宮→東和歌山(現・和歌山)→奈良→名古屋間の気動車準急としてその名が復活した。これは、「うしお」の紀伊勝浦到着後、5両編成を新宮まで回送し4両と1両に分割、4両が「はやたま」として東和歌山〜奈良〜名古屋間は和歌山線、関西本線を経由、王寺→名古屋間は準急「かすが」に併結されて運転されていた。また、残る1両は紀伊勝浦→京都間の準急「勝浦」に亀山まで併結され、亀山から名古屋までは「かすが」に併結されるという、気動車ならではの運用が組まれていた。この2代目「はやたま」の登場に伴い、「南紀」の方は運用の都合で下り1本が客車に戻されたが、昭和41(1966)年3月25日に気動車化されている。 このほか、「くまの」は、紀勢本線全通後は名古屋〜新宮〜天王寺間のロングラン列車となったが、36.3改正でその座を気動車急行「紀州」に譲り、鳥羽→紀伊勝浦間の列車として系統替えされている。「しらはま」は全車指定席の「きのくに」と対照的に自由席を連結した準急として、客車列車として運転された時期が永く、定期全列車の気動車化は、昭和40(1965)年10月1日改正でのことだった。

43.10で新宮以西急行の総愛称に廃止された60.3では南海車も幕

定期「きのくに」はすべて気動車で運転されていたが、臨時列車としては12系による客車列車がたびたび運転されたことがあり、阪和線内はED60やEF52が牽引していた。

「きのくに」に話を戻すと、運転開始当初から昭和40年代前半まで、これら愛称名が異なる準急群と併存して運転され、キハ58型気動車グループが登場した昭和36(1961)年以降は、同車が優先して充当されるなど、ほかの準急との別格ぶりを誇っていた。 昭和40(1965)年3月1日に紀勢本線初の特急「くろしお」が登場すると、形の上では看板列車の座から降りることとなったが、「きのくに」の勢力はまだまだ大きく、昭和43(1968)年10月1日改正では、これまでの「南紀」「しらはま」を吸収して紀勢本線西部を走る気動車急行の総愛称名となり、13往復もの大所帯となった(「しらはま」は「はやたま」を継承し、和歌山線、桜井線に乗り入れる急行へ転身)。すでに前年10月1日改正では自由席の連結を開始しており、全車指定制という別格ぶりは薄らいでいたが、増発はとどまるところを知らず、昭和48(1973)年10月1日改正時点では、上り15本・下り14本の最大本数となった。自由席の連結も昭和47(1972)年3月15日改正で完了している。 昭和50年代に入ると、かつて「陸の孤島」とまでいわれ近代化が遅れていた紀勢本線も、昭和53(1978)年10月2日改正を機に和歌山〜新宮間が電化され、特急「くろしお」が381系電車に置換えのうえ、6往復から9往復へ躍進した。この時点でも「きのくに」は改正前と同じ大勢力を維持したものの、電車化は見送られ、新宮以東へ直通する列車を除けば、大半が「架線下DC」として走り続けた。 そんな「きのくに」も、昭和55(1980)年10月1日改正以後は「くろしお」の増発に比例して削減が目立つようになり、昭和60(1985)年3月14日改正では、「くろしお」が381系のほかに485系まで動員して一挙に増発されたのを機に廃止されてしまう。同時に、南海車の併結も終了し、昭和9(1934)年11月17日に開始されて以来の南海〜国鉄の乗入れの歴史にもピリオドが打たれた。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2022/06/01


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