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「紀伊」

【第117回】「紀伊」


東京を発着する関西本線、紀勢本線系統の夜行列車は、昭和20〜30年代に東京〜湊町(現・JR難波)間の「大和」、東京〜鳥羽間の「伊勢」、東京〜新宮間の「那智」が運転されていたが、43.10改正でこれらの列車がすべて併結となり、ひとつの愛称に統一された。それが「紀伊」だ。50.3改正では残る東京〜紀伊勝浦間が特急に格上げされたが、低い利用率に泣かされ、59.2改正で廃止されてしまった。

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43.10改正で「紀伊」が誕生 行先が3つある変り種列車に

50.3改正で特急へ格上げされた「紀伊」。東海道本線内は東京〜米子間の「いなば」と併結となったが、特急時代は目立った動きはなかった。

急行「紀伊」は、昭和43(1968)年10月1日改正で、「大和」「伊勢」「那智」という3本の急行を統合した列車だが、統合前の各列車は、独自の歴史を持っていた。 この3本のうち、最も早くから運転されていたのが「大和」だった。昭和24(1949)年9月15日改正で登場した東京〜名古屋間準急31・32列車がその元祖で、昭和25(1950)年10月1日には関西本線の湊町(現・JR難波)と参宮線の鳥羽まで延長されて急行201・202列車に格上げされた。その当時のダイヤは201(201〜413)列車/東京23時00分→湊町9時27分(鳥羽9時14分)、(468〜202)202列車/(鳥羽19時14分)湊町19時20分→東京6時08分で、鳥羽編成は亀山〜鳥羽間が普通列車として運転された。「大和」と命名されたのは同年11月8日のことだった。 「大和」の鳥羽編成は、昭和28(1953)年11月11日に東京〜鳥羽間の急行として分離され「伊勢」と命名された。昭和30(1955)年頃のダイヤは203列車/東京23時15分→鳥羽8時45分、204列車/鳥羽20時10分→東京6時08分で、当時の下り「大和」は東京23時00分発で、その15分後に「伊勢」が続行運転されていた。 最も遅くに登場したのが東京〜新宮間の「那智」で、運転開始は昭和34(1959)年7月15日だった。これは、東西に分かれていた紀勢本線の全通を待ってのことだったが、当初は同年8月31日まで臨時列車として運転され、9月22日に実施されたダイヤ改正で晴れて定期列車に格上げされた。その当時のダイヤは、901〜203〜901列車/東京20時30分→新宮8時55分、902〜204〜902列車/新宮18時25分→東京6時25分で、東京〜名古屋間は東京〜金沢間(米原経由)の「能登」に併結されていた。また、このとき東京〜鳥羽間の「伊勢」も東京〜多気間で併結されており、東京〜名古屋間は「那智」「伊勢」「能登」の3階建てで、繁忙期は16両編成で運転されたこともあった。 この3階建て列車は昭和36(1961)年10月1日改正で「能登」が単独運転となり、「伊勢」「那智」の2階建てとなった。 「大和」「伊勢」は、利用率が高かった東京〜名古屋間をもターゲットにしていたため、名古屋以遠では乗車率が先細りとなり、名古屋回転車を切り離した短編成で運転されていた。両列車は昭和33(1958)年10月1日改正で併結列車となったが、「大和」は一時期34.9改正から39.10改正まで単独で運転され、昭和37(1962)年3月10日からは和歌山線に入線する和歌山市編成も登場、東京と和歌山の直通が実現して充実度が増した。昭和39(1964)年10月1日改正では、「大和」は下りが「伊勢」、上りが「南紀観光号」と併結となり、「那智」の方は、下りが「南紀観光号」、上りが「伊勢」と併結になるという、変則的な運転形態が採られた。昭和40(1965)年10月1日改正を迎えると、上下とも「大和」は「能登」と併結となり、「伊勢」と「那智」は再び上下揃えた併結となった。 しかし、東海道新幹線が開業して東京〜名古屋間の昼行移転が進むと、これら3列車は利用率が低下するようになり、特に「大和」「伊勢」がターゲットにしていた三重県内は、新幹線と近鉄特急の昼行乗継ぎの方が利便性が高く、乗り心地の悪い夜行列車は次第に敬遠されていった。 そこで昭和43(1968)年10月1日改正では、「大和」の王寺〜湊町、和歌山市間を廃止したうえで、「大和」「伊勢」「那智」をすべて併結、愛称名を「紀伊」に統合して合理化が図られた。愛称名が異なる客車列車の3階建ては「能登」「伊勢」「那智」に例があるが、「紀伊」のように同一列車名で3階建てとなる列車は珍しい。その当時のダイヤは、201(201〜2201・201〜211〜221)列車/東京20時30分→紀伊勝浦8時30分(鳥羽6時03分・王寺6時31分)、(222〜212〜202・2202〜202)202列車/紀伊勝浦18時15分(王寺20時47分・鳥羽21時00分)→東京6時15分で、王寺編成の奈良〜王寺間は普通列車だった。編成は紀伊勝浦行きが基本となり、下り列車の場合は亀山で王寺行きを、多気では鳥羽行きを分割していた。また、当時の一般の客車急行としては珍しく、全車指定席となっており、各編成には寝台車が連結されていた。

50.3改正で特急に格上げされるも59.2改正で不遇の生涯を終える

関西本線と紀勢本線内は6両のミニ編成となった特急「紀伊」。寝台特急の中で単独の列車名でこれほど短い編成の列車は例を見ない。

このように「寄合い世帯」的な形で運転された「紀伊」だったが、王寺編成と鳥羽編成は昼行需要がますます高くなったことから利用率は芳しくなく、ついに昭和47(1972)年3月15日改正で廃止されてしまった。残る紀伊勝浦編成は全車寝台車となり、東京〜名古屋間は急行「銀河1・1号」に併結されて運転が続けられた。 そんな「紀伊」が特急に格上げされたのは昭和50(1975)年3月10日改正でのことだった。その当時のダイヤは、2003〜4003列車/東京20時40分→紀伊勝浦7時18分、4004〜2004列車/紀伊勝浦19時25分→東京6時25分で、特急に昇格しても半人前の身に変わりはなく、東京〜名古屋間は新設の東京〜米子間「いなば」に併結された。 「紀伊」の特急格上げ時は14系寝台車が使用されたことから、居住性は10系寝台車を使用していた急行時代より向上したが、スピードは急行時代とさほど変わりはなく、昭和50年代に相次いで実施された国鉄の運賃・料金値上げも手伝って、客足は次第に遠のくようになった。 昭和53(1978)年10月2日改正では「いなば」が出雲市まで延長されて列車名が「出雲3・2号」と改称されたものの、「紀伊」自体に変化はなく、昭和59(1984)年2月1日改正でひっそりと廃止されてしまった。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2022/09/01


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