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「佐渡」

【第122回】「佐渡」


上越新幹線が上野まで乗り入れた60.3改正までは、上野〜新潟間で急行「佐渡」が運転されており、同区間で5時間近くを要していた。その「佐渡」は31.11改正から客車急行として登場しているが、上野〜新潟間の急行自体は、清水トンネルが開通し、上越線が全通した昭和6(1931)年9月1日から運転されており、永い歴史を持っていた。

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戦後は「越路」のひとり舞台だった上野〜新潟間の客車急行列車

43.10改正以後は上越線急行の代名詞となった「佐渡」。53.10改正以後はビュッフェの連結がなくなり、ややさびしい編成となったが、「とき」なき後も60.3改正まで存続した。

明治25(1892)年6月21日、当時の政府は鉄道建設の主導権を握ることを目的に鉄道敷設法を公布し、その工事第一期線として北陸本線や奥羽本線などの着工を盛り込んだ。この中には上越線も含まれていたが、群馬、新潟県境にそびえる三国山脈がネックとなり、水上〜越後湯沢間は昭和に入っても未開通のままだった。そこでこの区間には全長9702mの清水トンネルが建設されることになり、同トンネルが完成した昭和6(1931)年9月1日に上越南線と上越北線がつながり、現在の上越線高崎〜宮内間が形成された。これを機に、上越線ではさっそく急行列車の運転が開始され、上野〜新潟、秋田間に急行701・702列車が設定された。 この列車は太平洋戦争の激化により、昭和18(1943)年2月15日改正で廃止となったが、戦後初のダイヤ改正となる昭和20(1945)年11月20日改正では、上野〜新潟間に急行709・710列車が設定され、早くも急行が復活している。 昭和22(1947)年1月4日には石炭事情の悪化により一時的に全国の急行列車が全廃され、上越線からまたも急行列車が消滅したが、同年6月29日改正では上野〜新潟間に急行605・606列車が設定された。この列車は上野〜金沢間の列車を併結しており、10月1日に上越線が全線電化されたことから、高崎〜長岡間が電気機関車牽引となった。そして昭和23(1948)年7月1日改正ではそれぞれが分離し、上野〜新潟間の列車は上野〜新潟、秋田間急行701・702列車となった。 昭和24(1949)年9月15日改正を迎えると急行701・702列車は準急に格下げとなり、代わって不定期ながら上野〜新潟間に昼行の急行2701・2702列車が設定された。この列車は翌年10月1日改正で定期格上げされて701・702列車となり、昭和27(1952)年10月1日改正で「越路」と命名された。すでに、高崎線の全線電化が完成しており、上野〜長岡間が電気機関車牽引に代わったことから上野〜新潟間の所要時間は6時間となり、昭和20年代の亜幹線の優等列車としては高い水準を誇っていた。 昭和20年代における上野〜新潟間の急行は「越路」のひとり舞台だったが、昭和31(1956)年11月19日改正では、第2の急行として「佐渡」が誕生した。当時のダイヤは701列車/上野9時30分→新潟15時15分、702列車/新潟9時00分→上野14時47分で、701・702の列車番号は改正前まで「越路」が付けていたものだった。おまけに所要時間は「越路」の6時間に対し「佐渡」が15分短い5時間45分となり、先輩格の「越路」は新人に先を越された恰好になってしまった。 これにより、上野〜新潟間の優等列車は上下とも午前発が「佐渡」、午後発が「越路」となり、夜行は引き続き準急709・710列車(のちに「越後」と命名)が担った。 「佐渡」「越路」の昼行客車2往復態勢は昭和37(1962)年まで続き、この年の5月20日には信越本線長岡〜新潟間が電化開業したことから、上野〜新潟間が電気運転でつながり、翌月10日からは上越線に初の特急「とき」が登場した。一方、昼行急行の方は、新前橋電車区の80系電車を使用していた上野〜長岡間の電車準急「ゆきぐに」1往復を急行に格上げし、下りは「弥彦」(新設)、上りは「佐渡」として運転した。80系電車を使用する急行が上下で列車名が異なるのは、当時の上野〜新潟間急行が上下とも発車順に「弥彦」「佐渡」
「越路」と命名していたためで、客車運用が残っていたことも手伝って、「佐渡」「弥彦」に関しては、片道が電車、片道が客車という変則運転となった。

43.10改正では上野〜新潟間の電車急行全列車を「佐渡」に統一

かつての165系「佐渡」には、昭和40年代中盤まで台形の台座に愛称名を記したヘッドマークが取り付けられていた。

「弥彦」と「佐渡」の変則運転は、80系電車と客車とでは車内設備に差がありすぎることから乗客には不評で、特に80系電車は当時、準急以下の列車に使用されることが多かったことから、急行として運転するにはいささか無理があった。そこで、昭和38(1963)年には、山岳線区用の直流急行型電車の決定版である新鋭の165系が新前橋電車区に配置され、同年3月26日から下り「弥彦」、上り「佐渡」を置き換えた。そして6月1日には当時の新潟客貨車区(のちの新潟運転所、現在の新潟車両センター)に165系72両が配置され、上野〜新潟間の急行は電車への置換えと増発が図られた。これにより上越急行のラインアップは上下とも発車順に「弥彦」「佐渡」「越路」「ゆきぐに」「越後」(夜行)とされた。しかし、昭和40(1965)年10月1日改正ではこれらの愛称名の整理が行なわれ、昼行はすべて「佐渡」に統一、夜行の「越後」は「越路」に改称された。その「越路」も、昭和43(1968)年10月1日改正では「佐渡」に改称され、上野〜新潟間の急行は名実ともに「佐渡」のひとり舞台となった。「佐渡」の名が最後まで残ったのは、佐渡島が新潟県のイメージに一番合っていたからというのが理由だったという。 「佐渡」は43.10改正で不定期列車3往復を含む8往復の陣容となったが、昭和40年代は並行する特急「とき」の増発も進み、昭和45(1970)年10月1日改正では、6往復ずつの運転と勢力が並んだ。しかし、昭和47(1972)年10月2日改正では「とき」が10往復、「佐渡」が5往復と勢力が大幅に逆転。以後は「とき」の増発とともに「佐渡」は凋落の道を歩み始めるが、上越新幹線が開業した昭和57(1982)年11月15日改正では「とき」が全廃された中、「佐渡」は昼行3往復が存続し、上野〜新潟間を日中走破する唯一の在来線優等列車となった。しかしそれも束の間のことで、上越新幹線が上野まで開業した昭和60(1985)年3月14日改正では、上野口の昼行電車急行が全廃されたことから姿を消し、戦前から続く上越線急行の歴史に幕を閉じた。

※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。

公開日 2023/03/01


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