【第124回】「日光」
栃木県日光市は、中禅寺湖を初めとする豊かな自然景観、日光東照宮などの歴史遺産を背景に、国内・海外から年間約610万人の観光客を集める国際観光都市だ。とくに首都圏とは身近な観光地として往来が盛んで、戦前から国鉄と東武鉄道が競って日光への旅客獲得に力を入れてきた。国鉄は特急並みの設備を誇る157系を準急「日光」に投入して、優位を誇っていた。
昭和初期から始まった日光をめぐる国鉄対東武のライバル合戦
首都圏から日光への鉄路は、明治23(1890)年8月1日に日本鉄道が現在のJR日光線を全通させたことに始まる。日本鉄道は明治39(1906)年11月1日に国有化され国鉄日光線となったが、後に強力なライバルとなる東武鉄道の方は、国鉄よりかなり遅く昭和4(1929)年10月1日に東武日光まで達している。東武鉄道はこの年の12月に浅草(現・業平橋)〜東武日光間に展望車付き列車の運転を開始したが、国鉄はこれに対抗するように翌年10月1日から上野〜日光間に食堂車を連結した臨時準急の運転を開始した。この頃から、国鉄対東武のライバル合戦の火蓋が切られたといってよいだろう。 戦後になると、東武鉄道は昭和24(1949)年2月1日から特急「華厳・鬼怒号」の運転を開始。対する国鉄は昭和25(1950)年6月1日から東京〜日光間に臨時快速「にっこう」(後に「日光」→「日光号」と改称)の運転を開始するが、東武側は翌年9月22日から「ロマンスシート」と呼ばれる転換式シートを備えた5700系を特急に投入して対抗した。 国鉄の快速「日光号」は、客車列車であったため、いち早く電車を投入した東武鉄道と比べると速度や乗り心地面で不利だった。そこで昭和30(1955)年3月16日からは、上野〜日光間で当時新鋭のキハ45000型気動車(後のキハ17型気動車グループ)を使用した快速の運転を開始した(上野〜宇都宮間は上野〜黒磯間列車に併結)。しかし、この快速はキハ45000型気動車の駆動機関が1基だったため、日光線の25‰の勾配区間では非力で、客車の快速「日光号」よりも約10分余計に時間がかかるという有様だった。そこで、国鉄では勾配に強い新系列の大出力気動車製作に乗り出し、昭和31(1956)年にその第一弾、キハ44800型(後のキハ55型)気動車が誕生した。 キハ44800型気動車は、キハ45000型気動車より車体を大型・軽量化し、160psのDMH17B型機関を2基搭載した強力型で、昭和31(1956)年10月10日からこれまでの客車快速「日光号」を置き換え、全車座席指定制の臨時準急「日光」として営業運転を開始した。当時のダイヤは3505列車/上野8時50分→日光10時54分、3506列車/日光17時15分→上野19時15分で、所要時間は約2時間。客車時代より30分以上のスピードアップを果たした。当時、東武鉄道の特急は浅草〜東武日光間を最速1時間59分で結んでいたが、「日光」が都心に近い上野発着であることを考えると、所要時間は実質的に東武を上回っていた。また運賃・料金も、準急「日光」利用の場合は片道360円、東武特急利用の場合は片道470円と国鉄のほうが格安だった。 この臨時準急「日光」は同年11月19日改正で定期列車に昇格、昭和32(1957)年10月15日には東京発着となった。 準急「日光」の運転開始により、所要時間の面では優位になった国鉄だったが、キハ44800型気動車は座席がボックスシートであり、しかも2等車(現・グリーン車)の連結がなかったため、設備面ではまだ東武特急を凌駕するには至らなかった。そこで、国鉄は準急「日光」に特急型に準じた設備を誇り、後に「日光型」と呼ばれた157系電車を投入し、所要時間短縮も含めた東武引き離し策に出た。この157系「日光」は、日光線が電化された昭和34(1959)年9月22日から東京〜日光間で運転を開始し、共通運用で新宿〜日光間に準急「中禅寺」、上野〜黒磯間に準急「なすの」も誕生した。同時に、宇都宮区の80系電車を使用した準急「だいや」が上野〜日光間で、準急「しもつけ」が上野〜黒磯間で運転を開始している。 「日光」「中禅寺」「なすの」の3列車は田町電車区の157系6連を2本使うことにより2パターンで運用された。まずひとつは新宿発のパターンで、田町出庫→501T「中禅寺」/新宿7時14分→日光9時11分、951快速/日光→黒磯、502T「なすの」/黒磯10時53分→上野12時59分、505T「なすの」/上野13時15分→黒磯15時19分、952T快速/黒磯→日光、506T「日光」/日光17時10分→東京19時07分→田町入庫。もうひとつは東京発のパターンで、田町出庫→503T「日光」/東京8時14分→日光10時11分、回5504T〜回5505T/日光→宇都宮→日光、504T「中禅寺」/日光16時20分→新宿18時20分→田町入庫という運用だった。 これは、田町→新宿の回送と田町→東京の回送では下り列車の向きが逆となることから設定されたもので、両方の運用を毎日交互に行なうことで列車の向きを揃えていた。なお、運転開始同年の10月31日からは、新宿発パターンの宇都宮滞留時間を利用した間合い運用で、上野〜日光間に臨時準急「第2日光」が運転されている。また、「中禅寺」「なすの」は日光への観光客が激減する11月11日から運休となり、そこで捻出した157系1編成を11月21日から東海道本線の不定期特急「ひびき」に充当した。 157系の投入により上野〜日光間の所要時間はさらに短縮されることとなり、「日光」の場合、最速1時間57分と2時間を切り、国鉄の優位はますます揺るぎないものになっていった。
東海道本線への157系転用により日光準急の主力は165系へ
昭和35(1960)年10月9日、東武鉄道は国鉄157系に刺激されるかのように日光特急「けごん」「きぬ」に新鋭の1720系DRC車を投入した。全車冷房完備で座席はリクライニングシート、ジュークボックス付きのフリースペースが設けられるなど、157系をさらに越える車内設備が話題を撒いた。一方、国鉄は昭和36(1961)年3月1日から、春・秋の行楽シーズンを中心に日光と伊東を結ぶ準急「湘南日光」の運転を開始した。こちらも田町区の157系が使用され、ダイヤは2501T/伊東7時46分→日光11時59分、2502T/日光13時45分→伊東17時50分だった。 しかしこの「湘南日光」は、157系が冷房化の上、東海道本線の不定期特急「ひびき」に転用されることになったことから、昭和38(1963)年3月25日に165系に置き換えられた。これは165系のデビュー列車ともなった。同時に157系を使用していた「中禅寺」「なすの」も165系化され、157系で残るのは「日光」のみとなったが、こちらはオール2等車のみのモノクラス編成となった。この時期から国鉄の日光準急のラインアップが東武特急に比べ見劣りするようになった。
157系の日光線撤退により凋落傾向を隠せなくなる
昭和39(1964)年10月1日改正では、東海道新幹線の開業により、東海道本線の昼行特急が全廃されたことから、特急「ひびき」に運用されていた157系が湘南急行「伊豆」に転用されることになった。そのなかで、日光方面へは同年10月に157系7連を使用した準急「特別日光」が横浜〜日光間で運転され、この期間は日光準急が既存の「日光」と合わせて2往復体勢となり、157系化登場当初を思わせる華々しい活躍を見せた。 昭和40(1965)年10月1日改正では、新前橋電車区に165系64両が新製配置され、80系で残っていた準急「だいや」「しもつけ」がすべて165系化された。これらの準急は昭和41(1966)年3月5日に急行に格上げされ、昭和43(1968)年10月1日改正で、「だいや」「中禅寺」が「日光」に、「しもつけ」が「なすの」に吸収され、東京、上野〜日光間の急行は「日光」、上野〜黒磯間の急行は「なすの」に統一された。この時点で「日光」は不定期を含めた4往復となり、東京発着の「3・2号」が157系で残されたが、翌年4月25日から運転を開始した伊豆特急「あまぎ」へ157系を転用することになったことから、「日光」は165系に置き換えられ、日光線から157系の姿が消えた。以後、首都圏からの対日光輸送は国鉄の運賃・料金値上げが重なり、圧倒的に東武鉄道優位となり、「日光」の利用率は低下。昭和50年代に入っても凋落傾向は止まらず、昭和57(1982)年11月15日改正で廃止された。
※この記事は、週刊『鉄道データファイル』(デアスティーニ・ジャパン刊)を基に構成したものです。
公開日 2023/05/01
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